管長の修行問答
2024.02.21
毎日の修法と無心
時時感謝し謙虚の憶いであるが儘(まま)に生くるを無心という
- ①説法会で、日常そのものが修法であるとの御話を賜りこれまで漫然と過ごしていた日常が一本芯の通ったものに変わりつつある、変えようと思っています。以前より、仕事ではルーティーンが最も大切であること、その日やるべきことをその日に終わらせること、ルーティンを手抜きする者はいずれ痛い目に遭う事になるのが天の定めであるという御言葉を頂いたこともありました。現状では、面倒くさいなと思っても、やるべきことをやると気持ちが良く、心が澄むような感覚があります。なぜやるべきことをやることが大切なのかと考えると、それは宇宙の運行そのものが規則正しく営まれていることに通じるからかなと思いました。素直にやるべきことをやっていくことで、真にやるべきことが眼前に明らかとなり、その先に解脱もあるのかもしれない、と感じましたが如何でしょうか。(神奈川・N) ②朝起きて無心で淡々と生活してみようとして、無心が結局分からない事に気がつきました。考えない事なのかと思いましたが頭の中では雑念が湧きっぱなしです。集中して今やっている事だけ考えるのか、今の目の前の事を感じるのか、数字を数えてみるのか、そんなのとはそもそも違うのか、さらなるご教示お願い致します。(神奈川・S) ※本問答は2022年2月・428号のものです。
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朝目覚めるを日々(にちにち)の転生(てんしょう)という。顔を洗い一日をスタートするその時から自らの立ち振る舞いに心を向け、心身の自分の良し悪しを確認し、いま生き、いま生かされていることを自覚する。自分の命ではなく生かされている命であることを自覚するのだ。そして目の前に出現している仮の世界に対して謙虚に受け止め仮の自分と対峙(たいじ)するのである。そしてあるが儘の〈いま〉を受け入れるのである。人類の数億年に亘る進化過程の頂点にいるいまの自分、それを産み続けた先祖たちの存在、その縁、その系譜、そして不確かな自分、その全てのありの儘(まま)にただ平伏すが如き感覚を自覚することである。
ただ漫然と起床し漫然と用を足し漫然と顔を洗い漫然と食事をし漫然と日常を開始する者に、この深き道理は顕われない。則ち、何の感情も湧き上がることなく、日常を過ごす者には、お釈迦様が指し示される涅槃の神相を垣間見ることは許されない。
それを邪魔するのは無智である。無智は因果の定めを解することがなく我に執(とら)われる。則ち傲慢である。傲慢は常に自分を正と思い慢心する。則ち邪見でありいよいよ迷いを深めていくことになる。時時の修法の意味が分かる人にはこの邪見我慢がない。時時(じじ)の修法を支配するのは諦観であり諦観より導き出された深き感謝である。則ち平伏すの憶いである。則ち深き謙虚の心である。これを「無心」というのである。
「無心」には我欲がない
「無心」には主張がない
「無心」には屈折がない
「無心」には己という色がない
「無心」は深き感謝である
「無心」は深き謙虚である
「無心」は深き受容である
「無心」は深き信仰である
「無心」は深き自己肯定である そして
「無心」は悟り解脱への最短の路である
「無心」に迷う者は謙虚を知らぬ者である。不満多き者である。主張強き者である。その悉くを弱めるならば自ずと現われ「無心」はあなたを正道へと導くであろう。
雑念は心が俗事に豊かであることを意味する。則ちエネルギーが有ることを指す。ならば、大いにそのエネルギーを消費してみるといい。積極的に俗界を闊歩し世間に自分を主張してみるといい。それが出来ないならエネルギーの源である食事の量を半分に減らし雑念の力を弱めれば「無心」が少し見えてくるかも知れない。人生は自分が決定していくしかない。俗事に生くるか聖事に生くるかは己自身に全てはかかっているに過ぎないのである。