在家で仏教・神道を学びたい人のために
釈尊が悟りを開かれてから2500年もの時が過ぎました。文明が発達し様々な物に囲まれ、大自然と遠ざかる現代人の心は、釈尊が御教えを説かれていた当時の民衆と比べて素朴さを失い、おそらく荒んでもいます。だからこそ、時代を越えて伝えられた釈尊の御教えの輝きは増しているとも言えるでしょう。この苦しみに満ちた俗世に生きざるを得ないからこそ、我々にとって釈尊の御教えは一層尊いのです。
大乗仏教経典である『維摩経』には、俗世にありて仏道を体現する維摩尊者より、菩薩の志が説かれます。日常のあらゆる事象が悟りへの道となり得ると説く尊者の教えは俗世の苦難のなかにある者を大いに勇気づけます。何よりお釈迦様がその命を賭して解明され、人々に伝えられた真理の御教えは人生の究極の目的である悟りを阻む「煩悩」という輪廻転生の原因を明らかとし、一人一人の霊の内に真実を目覚めさせます。
維摩會では、初心の段階より、人間と自らの内なる「煩悩」を『九型十八心観』にて学び、更にそれらを超えてゆく実践法を御指導しています。また、信徒会員を対象とした、森神等覚管長による『仏教哲学御講義』にて、釈尊直説の、その本質を学びます。
釈尊が悟りを開かれ 成道 された後、最初に説かれた人生の苦しみを超脱するための「4つの聖なる真理」
苦諦 : 人生は苦であり思い通りにならない
集諦 : その苦しみは、自分の執著の集積によるものです
滅諦 : その執著を手放せば、究極の安心(涅槃)に至ります
道諦 : その安心を得るために、八つの正しい道(八正道)を実践する
(八正道: 正見 正思惟 正語 正業 正精進 正念 正定)
(※維摩會では「正見」に至るための道として『九型十八心観』を入口とし更には『自観法』をご指導しています)
釈尊は、悟りを開かれ
「生」があるから、「老死」の苦しみが生じます。ではなぜ「生」があるのか、その根本原因は「
無明によって、
そのため、無明が滅べば、行がなくなり、行が滅べば、識がなくなり、識が滅べば、名色がなくなり、名色が滅べば六処がなくなり、六処が滅べば、触がなくなり、触が滅べば、受がなくなり、受が滅べば、愛がなくなり、愛が滅べば、取がなくなり、取が滅べば、有がなくなり、有が滅べば、生がなくなり、生が滅べば、
四法印とは、仏教の基本的な教えを示すもので、「
釈尊はすべては無常であり、一切が苦であると観じ、修行の道に入り、悟を得られました。
釈尊は「あらゆるものが常に生滅・変化し、永久不変なものではないこと(諸行無常)」を説かれました。私たちが求めている喜びも楽も、避けたいと思っている苦しみも苦も、永続するものではないことを意味します。諸行無常を明らかな智慧をもって観るとき、ひとは苦しみから遠ざかり離れる、これこそ人が清らかになる道である、そう説かれています。
釈尊は「すべてのものは因縁によって生じたものであって、我(不変の実体)ではないこと(諸法無我)」を説かれました。喜びは苦しみの因となり、楽は苦の因となり、苦しみが喜びの因ともなり、苦は楽の因ともなります。私たちが求めているものは因縁によって生じ、転変するものに過ぎません。諸法無我を明らかな智慧をもって観るとき、ひとは苦しみから遠ざかり離れる、これこそ人が清らかになる道である、そう説かれています。
釈尊は「あらゆるものは変化し続けるがゆえに、そこに執着する限り苦しみが生じること(一切皆苦)」を説かれました。楽しい出来事も永遠には続かず、愛するものとの別れも避けられない。求めるものが得られない苦しみもあれば、得たものを失う苦しみもある。一切皆苦とは、人生そのものが悲惨であるという意味ではなく、無常なるものを永遠であるかのように錯覚し求め続ける心が苦しみを生み出すという真理を示しています。
釈尊は、
特段に人を陥れる三つの巨大煩悩のこと。
大乗菩薩の六種の実践修行を六波羅蜜と呼びます。
四つの広大な心、はかり知れないほどの利他の心を四無量心と呼びます。
原始仏教で重視された
釈尊が悟りを開かれてから2500年もの時が過ぎました。釈尊が御教えを説かれていた当時と比べ、現代人の心は素朴さを失い、荒んでいます。だからこそ、時代を越えて伝えられた釈尊の御教えは輝きを増しています。この苦しみに満ちた俗世に生きざるを得ないからこそ、釈尊の御教えは一層尊いのです。
釈尊の御教えから発展した大乗仏教では、世俗にあって仏道を体現する維摩尊者の姿が説かれます。これは世俗に生きる我々にとっての理想です。維摩尊者に遠く及ばずとも、我々も世俗の中にあって少しでも仏道を学び、少しでも高い生き方を求めていくならば、その分だけ人生は価値あるものとなるはずです。