在家で仏教・神道を学びたい人のために
人は何のために生きるのだろう
この究極の問いを追求し、その答えである真理に到達された方がお釈迦様(釈迦牟尼仏陀)です。そして、皆もただ何かにすがるのではなく自分自身で立って歩み、その真理に到達できるように生きなさいと法を説かれました。
本会は、そのお釈迦様の教えを伝え現代にあった形で学び実践していくことで、いずれは真理に到達できるよう、日常を修行の場と捉え、志を同じくする法友と共に歩んでいます。
真剣に人生を考えていらっしゃる人のために、真理とは何かを追求しておられる人のために、またその中でも信仰心のある清らかな心の持ち主のために少しでも力になれることを願って、本会では最も本質的な御指導を行なっています。
本会の主たる指導内容は釈尊が説かれた七科三十七道品という、悟りに至るための三十七の修行法です。就中、その中心となるものは八正道であり、また六波羅蜜であり、その基本となるところの四聖諦、十二縁起の理解と把握の指導を行なっています。その中心となるものは『自観法』と呼ばれるものです。他にはない本会特有の霊性覚醒法であり、唯識説にいう四分義の教義を体現する実践法です。
入会される方は、先ず人間の基本となる〝思考〟、基本となる自己の〝意識傾向〟〝衝動〟を学んで頂きます。本会で指導しているこの『九型十八心観』の学びを通して自分自身がいかに一つの衝動に支配されているかに気づき、人間の意識が僅か十八種類に分類されてしまっていることの真実に目覚めることが最初のステップです。自分自身が十八種類の一つに組み込まれてしまっていることへの驚きと自覚と同時に、それを克服すること、いかにしてその衝動に左右されない自分になるかということを学んで頂きます。
初心の学びを卒業された方は、次の段階として各個人の希望によって入信へと進むか、或いはこのまま初心会員として学びを続けるか、どちらでも自由に選択することができます。本格的な入信への道が開かれて修行を積み、更に階梯が進んだ先には、その方の修行の深さにより、管長の直接御指導の受講へと進む道も開かれています。
初心会員のまま継続することを希望される方は、引き続き十八心観、仏教の基本的学び、神道の基本的な生き方、祈りの仕方などを学ぶことができます。より本格的な内容を学び自己を修めていきたいという方は、入信して、本格的内容に進んで頂きます。
入信して次の段階に入られた方は、『七科三十七道品』という、解脱するための本格的な実践的内容を学び、実践して頂くことになります。さらに、禊、祓の本格的な修得、実践、実践修得も、この段階から加わります。これらの具体的な内容は、そのときに御指導致します。
『自観法』は入信してからすぐに学ぶものであり、これが衆生を聖者へと向かわせる大きな第一歩となります。謂わば、衆生を聖者へと導く極めて優れた行法です。にもかかわらず、その実践は非常に簡単で、特別な行場や修行方法を必要としません。それでいて、極めて勝れた成果をもたらすものです。
本会は、悟りを開かれ、人として最も勝れた境地に達したと言われる お釈迦様(釈迦牟尼仏陀)を教祖と奉り、その在家の弟子である維摩尊者を宗祖と仰ぎ、開祖・森神等覚管長によって創設されました。

本会は、悟りを開かれ、人として最も勝れた境地に達したと言われる 釈迦牟尼仏陀 を教祖と奉る。
釈迦牟尼仏陀は、古代インドに生まれ、人生の根本的な苦しみ(生・老・病・死)を見て出家された修行者である。厳しい修行の末に、宇宙と人生の真理である「縁起の法」を悟り、仏陀となられた。その後、その教えをあらゆる人々に説き続け、仏教の源流を開かれた人物である。
階級制度や固定観念にとらわれず、すべての人間が平等に悟りを開く可能性を持つと説いた仏陀の教えは、無量の慈悲の内にありて、迷えし俗世苦海の内に喘ぐ一切衆生済度への道に他ならない。
その精神は、遥か時代を超えるに至っても、出家者のみならず、世俗社会で生きる在家の修行者をも等しく導くものであり、自己の執着を離れ、苦しみから脱し、諸法実相(ありのままの真理)を体得するに至るための大いなる指針である。
本会はこの釈迦牟尼仏陀を、すべての真理の体現者であり、私たちが目指すべき最高の境地の象徴として、教祖と崇めるものであり、その修行の道は釈迦牟尼仏陀の直説に従うものである。

本会は、悟りを開かれ人類史上最も優れた境地に達したと言われる釈迦牟尼仏陀を教祖とし、その在家の弟子である維摩尊者を宗祖とするものである。
維摩尊者は、初期大乗仏典の一つ『維摩経』に登場する在家修行者であり、古代インドの富豪で、釈迦牟尼仏陀の在家の弟子となったとされている方である。仏と同じ悟りを得、その境地は菩薩であり、大いなる慈悲を体現し、あらゆる手立てを通して衆生を済度される御姿が、本経典に説かれる。
大乗仏教は、それまでの出家者だけが専門に修行し哲学的思惟に専修する上座部仏教への反動として大衆部が発展し、発生した新時代の仏教運動であった。
それは世俗社会の中で生活しながら修行するというもので、自己の執着を去り、縁起の法を理解し、苦しみから脱して諸法の実相を体得し、人々の救済をもって自己の完成となすという菩薩道の精神に貫かれていた。その体現者として『維摩経』に登場するのが維摩尊者であり、出家、菩薩たちも一目置く存在とされた。
本会はこの維摩尊者を在家修行者の範として、宗祖として崇めるものである。
心身の強化合宿にて御指導中の開祖
開祖・森神等覚管長は、霊能があった祖父とのふれあいから二歳にして人の死を自覚されるようになり、無常観に支配されながら成長され、四歳頃に老人の死を直視することにより、より鮮明に、この世の無常と、生の哀れと無意味とを実感として体験された。
その後も、自然に恵まれた環境の中で、天候の荒々しさ、大自然の営み、生命の弱肉強食や過酷な環境に於ける逞しさと悲哀性等を垣間見ることを通して、その奥においてその一切を支配する自然律、更にその深奥でそのすべてを支配する道の働きを感取されるようになった。長じて仏教の世俗諦および勝義諦の認識へと広がることとなられた。
十歳で存在における自他の別に衝撃を受けられ、人は自他の別を有するも、自は他に過ぎず、他は自に過ぎないことを喝破されたが、実存たる我彼は常に対立する自他を乗り越えることがなく、存在は虚しいほどに真諦から乖離するものとして、師の心には映じられた。師にとってこの十歳の時の体験は大変大きな節目となられ、更なる「存在」への哲学的思考を始められた。この十歳のときに、ゲーテにも影響を受け、人間存在の俗世的深き洞察に触れ、刺激を受けられる。その後の二年間においては、月に一度の割で時間が突然猛スピードで過ぎるという特異な体験に襲われるようになり、この世の虚しさや不可思議を通過儀礼が如くに体験させられることになられた。
中学生期よりミッションスクールにて聖書を学ぶようになる中、神の試練に遭われ、三年間声が出なくなり、その苦悩から学業に専念できなくなられ、その結果、成績は落ち、回復できなかったことから、人間の高低良し悪しが知識云々で決まるものではないという当たり前の価値を神仏より認識させられることとなられた。
この体験は、現実に生きた少年にとって悲劇的な現実であったが、師が霊的指導者になるための神仏の御導きであられた。その結果、中学で学んでいた聖書に深く傾倒され、イエス・キリストとの劇的な出会いを果たされることになった。声が出ない、成績が落ちる、他とのコミュニケーションがとれないという神仏の試練は他者に対する同情心や慈悲心を生み出す契機となり、イエス・キリストという偉大な霊を学ぶ機会となられた。
十五歳の時、しばしば滝に打たれる行者が目の前に映じられるようになり、仏教に目覚められた。この年より坐禅、水行、そして後に本会の指導の柱となった『自観法』を修得された。
その直後より霊能が開花され、人を見ただけでその人の霊格・人格・運命を読み取ることができるようになられた。
聖書およびキリストに心酔している最中、仏教という新たな地平を垣間見られ、十六歳の時、衆生済度の決意をされるに到られた。
等覚管長は幼少より肉を嫌われ口にされることは全くなかったが、十七歳の時、菜食者になられた。それは、生家で世話をされていた十六羽のチャボが近所の大型犬に襲われ、一羽が咥えられて持ち去られた事件が契機となった。雄チャボを助け出して胸に抱いて帰られるその時の、チャボの恐怖感が肌を通して直接に伝わってきた時に、鳥も人間と変わらない恐怖感を持っているのだということを実感され、その瞬間から、卵と乳製品を除いた菜食者となられたのである。
愈愈それ以降は、仏教へと大きく舵を切られることになり、宗教的な素養は大いに飛躍することとなられた。十六歳以降は時間があれば坐禅に没頭する日々を過ごされ、十七歳の時、遂に霊の宿りし霊門の場所にたどり着かれた。その直後より坐禅は著しく深まることとなった。
そして遂に、師の今生において決定的な覚醒が行なわれる。それはその一カ月後、十七歳の時、ガチャガチャという音を立てるが如き脳の進化と頭蓋骨後頭部の隆起を体験をされ、時空間が目の前で次々と新たな次元へと変化し、一日にして三年が経過するの感で劇的意識進化が起こるという驚異的な神理体験をなされた。それを境に、本質について瞬時に理解され、本質に関するあらゆる疑問に自在に答えられるようになられた。しかしこの解脱に至る階梯における段階的悟を得られた至高の体験を経てもなお、神についてのみは語ることがお出来にならなかった。しかしその一年後、遂に十八歳で一般概念の神観とは異なる量子的神を理解されるに至られたのである。
それ以降、幾度も、禅定における神秘体験をされ、目の前のあらゆるものが消え失せ地平のかなたが見通されるといった超越体験を重ねられた。
二十三歳にて三十時間の坐禅中に諸法実相のありありとした悟り体験をされるなど、多くの超越体験を成された。大学にてインド仏教(印度哲学)を専攻され、卒論「龍樹研究における異蘊の解明」を上梓された。その後、新聞記者生活の傍ら、修行法の実践および坐禅三昧の日々を経て、霊性向上を目指した『人間改造講座』を編纂されるとともに、その指導に当たられつつ、一九八五年、本会を創設された。
一九八七年に量子力学などの最先端科学理論を駆使して、悟りの原理を解き明かした御書『拡大せし認識領界』を著された後、延べ一年半に亘る深山幽谷での滝行を中心とした荒行と坐禅三昧の山籠もりを為される。更にヒマラヤにおいて行を為されるも目的に達せられず。而して遂に一九九〇年、三十半ばにて因縁の地イスラエルの荒野において二カ月間の感応の行を成し、大悟される。
日本に御戻りになられてから、いよいよ本格的な教化・御指導を開始され、従来の御利益依存型の宗教観とは一線を画し、空観による自己超越を説かれる。それは、瑜伽行派の唯識説に通じるものでもあり、識の用諦と仮諦そして真諦に至る真如の姿を説かれるものであった。


家庭を持ち社会生活を送りながら日々の困難と向き合い、心を浄め己を高めていくことは人として自然な歩みであり、出家修行よりも大変な道であると言えるでしょう。
維摩會では、古の昔から日本人に根付いてきた「神道」の「禊」「祓」そして「浄明正直」の精神を尊び、充実した人生を歩みながら、究極的には、お釈迦様の御教えを森神等覚管長が現代に伝えて下さる様々な修行によって、一切に拘らない「空」の体得、そして悟りの境地を目指します。
世俗における仏道修行者の理想を体現された維摩尊者に

本会では、神道の清らかな精神と、仏教の厳しい修行を「修行の揺るぎない両輪」と捉えています。過去に諸賢・大徳の方々が伝えてこられた様々な教えや行法を妙合させ、お一人おひとりの心を高め、ひいては本当の悟りへと導く――ただその究極の目的のために、本会では「今、その方に最も必要なこと」を適確に伝授致します。
それを可能とするのは、ひとえに目の前の方の境地や本質を見通され、日常こそが悟りへと至る道であることを、私たち一人ひとりに実体験を以て知らしめる、森神等覚管長の御指導に他なりません。等覚管長の御指導は、一貫した理と、深く篤く広大な慈悲に満ちています。
人は、真面目に、そして誠実に生きようとするほど、その苦悩は深く、葛藤や悲しみもまた大きくなります。本会は、そのような「真剣に生きるがゆえの苦悩」と真摯に向き合う方々にこそ開かれた場でありたいと考えています。本会の教えとの御縁が結ばれることを、心から願って已みません。

人間として正しくこの世を生き、霊性を高めるための智慧を学ぶ場です。毎回異なるテーマに即した深遠なる御法話と、日々を充実させ霊性向上に繋がる日常の送り方や修行法について、実践的な御指導をいただきます。「拘りを捨てる」「器を大きくする」「真の祈り」や「霊界の御解説」「供養の本質」、「呼吸法」、心身を調える「健康の秘訣」にいたるまで、私たちがこの世を生きるための指針をあらゆる角度から御指導いただく貴重な機会です。

釈迦牟尼仏陀の真実の教えを紐解き、この世を生きる智慧を学ぶ仏教の原点である「原始経典」を中心に、後世に発展した「大乗経典」までを深く読み解き、釈尊(ブッダ)が説かれたことの本質に迫る哲学御講義です。長い歴史の中で、いつしか誤って伝わってしまった解釈を、確かな「智慧」によって一つ一つ丁寧に区別するとともに、単なる知識の習得にとどまらず、「私たちは今、どのように生きるべきか」という現代の問いに対する確かな指針を体系的に学んでいく、管長ならではの、唯一無二の御講義です。
現実社会の「事件」や「出来事」「流行」「政治」「外交」、また話題の人物の「観相」(人相やしぐさ)など、表層に現われた様々な「象」から、智慧の目を以て、その奥の本質を見抜くことを学びます。世論やマスコミなどに左右されることなく、本質を掴む智慧、すなわち八正道に掲げられる「正見」の力を身に付けるための貴重な機会です。
本会におけるすべての修行は、
その研鑽の場である「維摩宗学堂」にて、
自己を深く分析する修行法『九型十八心観』から始まります。
詳しくはこちら↓
大祓にて川に浄められていく異蘊霊
年末年始に行なわれる「祈願お焚上げ」「祓修法」は、自然豊かな「お山」にて執り行われます。春には桜、夏には川のせせらぎ、秋には紅葉、冬は銀世界が出迎えてくれるこの地で、天への祈りを捧げます。
年末大晦日には一年の穢れを祓う、「大祓修法」がお山にて執り行なわれます。零下10度にもなる厳寒の川の中での10分以上にもわたる命懸けの



本会では大晦日に信徒会員の皆様の「大祓修法」を、元日未明には信徒会員の皆様の「祈願お焚上げ」が行なわれます。古来より日本に伝わる神道の修法をもとに、神仏習合で執り行なわれています。観自在菩薩様、不動明王様を御祀りし、諸仏諸菩薩の御加護の中、天地に捧ぐ赤心の祈りと共に、只管に護摩木が炎に投じられます。まさに、御神仏の「大慈大悲」顕現の修法といえます。形あるこの世界であるからこそ、目に見えない御神仏の存在に触れさせて頂ける大変有難い機会となっています。
ときにマイナス10℃になる厳寒の中修法がなされます
一般的には「花まつり」の名で呼ばれ、多くの花で飾られた花御堂の中にいらっしゃるお釈迦様の像に甘茶をかけてお祝いします。これは、お釈迦様がお生まれになった時、天から降りてこられた神々が甘露の水を注ぎ祝福したという経典の一節が由来とされています。
維摩會では、毎年4月8日に近い日曜日に4時間以上の坐禅を行ない、この日をお祝いします。多くの仲間とともに行なう坐禅は日常できない貴重な機会であり、大変良い修行となっています。日常に於いては、毎週、信徒会員が参禅し、3時間程の坐禅が行なわれています。

日本における「

半年毎に穢れを祓う。日本全国、外国からもリモートで繋がる。
神事・修法の下準備は、年間を通して行なわれます。冬が来る前に、有志の信徒によって小川の泥さらい、草取り、木の切り出しなどを済ませます。都会でのデスクワークでなまった心身には、ちょうどよい気分転換にもなります。
労働後の食事が実に美味しい! 感謝のひとときです。
空気の澄んだ「お山」では大自然の息吹が感じられます



本会は、「隣人を助ける」の理念の下、37年以上にわたり、「ユニバース国際援助基金」として、国内外でボランティア活動を継続しています。金銭的、物質的な支援のみならず、その方達の精神的な支えとなってゆけることを願いながら、多くの方々の「人生の支援」を行なう「慈悲行実践」の場となっています。
スリランカ医療支援にて救命された母子数は
2026年3月時点 36,394 組 となりました!
維摩會は釈迦牟尼仏陀の教えの下、
その遙か広大なる慈悲への道を日常のなかで歩み続けます。
今から共に歩まんと欲する方、その霊の向上を求める方は、
「維摩宗学堂」へとお進みください。