在家で仏教・神道を学びたい人のために
2023.02.01
まあ、間違いではないので、あなたがこの形で修行を進めていきたいと考えているなら別に構わない。問題はこの実践は極めて厳しいということである。何が先決かは全く各個人によって異なるので、あなた自身がそう感じるならそれで構わない。
これまで四十年近くに亘って会員の指導をしてきておりその中では実に多くの修行内容を教授してきた。その観点に立つならば選択肢は山と有る。しかし三毒(貪とん・瞋しん・癡ち )を弱めることが必須であることは誰しもに共通しており議論の余地はない。要は、どう貪りを弱め、どう怒りを弱め、どう無明を弱めるか、である。あなたは癡を慢心と置き換えているが少々その意味するところは異なる。
要は「何」を実修するかである。貪らないとは衣食住すべてに当てはまり、その規準は極めれば極める程自己への厳しさは並ではなくなる、そのどの程度を目指しているのかである。瞋恚(いかり)を収めることは良いことである。ゼロを目指すことである。自観を忘れないことだ。無知無明を弱めるのは私の講義を多く聴聞することである。そこからしか癡からの脱出はムリである。この癡については克服は極めて困難で師につかずしては不可能である。
因みにあなたがいう慢心についても常に人の心を支配するものである。仏教哲学の教えを学び、己の慢心をよく心得た上で、そこから逃れることである。そのためには謙虚でなくてはならない。礼儀を知らぬ人に慢の克服は難しい。礼儀を知っていてもそれが表面上のものである限り慢から逃れることは出来ない。そんなあなたは先ずは他者に敬意を持つことから始めるとよい。単に自分が頭が低いというだけでなく、同時に他者に敬意を払うのである。もちろん心が伴っていなくてはならない。
こうやって実践を重ねていくしかないのである。毎日毎日の実践だけが人を勝れた者へと変身させるのである。この毎日の心掛けなくして、たまに何かの折りに三毒を滅しようなどと試みても、たやすく実修できるものではない。知恵は悪知恵もある。自分から離れた正しい智を身に付けるためには自観法と瞑想とを欠かさぬことである。