管長の修行問答

2023.03.01

日々の修行

自分の仕事と真摯に向き合い無心で働く者は正しい者である

私は今、仕事の事で頭がいっぱいで、なかなか修行とは程遠くなって居ます。もちろん自分の益だけを追及はしていません。お役に絶対に立てる様にと考えて行動をしています。最近は難しい仏教の質問が多い中、恥ずかしいですがまだまだこの様な事で迷って居ます。御回答頂けると嬉しいです。(東京・S)※本問答は2023年3月・441号のものです。

仏教には行住坐臥という言葉がある。四威儀(しいぎ)と呼ばれ〈歩くこと〉〈止まること〉〈坐ること〉〈寝ること〉を指して日常を意味させ、その日常こそが修行の場であることを説いている。要は、とりたてて宗教的云々ということを実践する必要はない、という意味でもある。それは綺麗な心の持ち主が宗教などという存在を知ることなく日々を暮らし、神に感謝し、真面目に働き、あらゆるものへの感謝と他者への奉仕を忘れない生活を送っているようなものである。この人には教義としての宗教など必要ない。あなたは正にこの人の様に生きればよいのである。

では日常とは何かというと―

太陽と共に目覚め、心正しく起きる。そして心正しく身支度をして神仏に祈り、心正しく食事を摂り、心正しく仕事へと向かい、怠けることなく、嘘を吐つ くことなく、誤魔化すことなく精勤し、充分に働いたら帰宅し、夜の身支度をして、神仏に一日の感謝を為すのである。そうして、自分の身体を慈しみ手入れして沐浴し、瞑想をして休むのである。

その間に、弱き人と会えば助け、声を掛け、心を砕いてその思いを向けてあげるのである。しかし、それで充分である。日常とはこの様であるならばそれで充分である。とりたてて特別な何かを為そうなどと自我を出す必要はない。

ただ、淡々と日々の成すべき事を為すだけであるのだ。時に体調不良の日もあろう。その様な時は素直に休み正しい回復を心掛けるのである。大切なことは他者を恨まないことである。自分を否定しないことである。無理をしないことである。疲れたときには休むことである。我わが侭ままを出さぬことである。そして少しだけ自分に厳しく接することである。これだけで充分である。

別に仏教の知識などなくて結構。恥ずかしいことなど何一つない。正しい生き方をしている人ならば、その人は決して無智と呼ばれることはない。修行のシュの字も知らなくともこの人は正しい修行者である。あなたもこの様な人を目指すことである。この様に生きることが出来ない者だけが仏教の知識を必要とし仏教の修行を為さねばならない業(カルマ)に支配されているのである。