管長の修行問答

2022.07.01

日常的修行法

特別なことを考えず日々を優しく楽しく過ごすとよい

わたしは、身体の調子が悪くて会の修行についていけません。情けないと思い、皆様の修行ぶりに感心しています。 会を辞める事は、したくありません。 こんな私でも日の目を見ることは、あるんでしょうか。(宮崎・S)※本問答は2022年7月・433号のものです。

日の目を見ることは出来ます。以下の通り。

一、自分自分という自己執着であるところの自意識過剰にならないこと。そうなれば情けない思いの一切は消失す。
一、修行とは何かを理解すること。あらゆることが修行であるから、何か特別なものだけをもって修行と考えるのは正しくない。則ち以下の通り。

A、笑顔で人と接すること
B、毎日外に出、1~2万歩を歩くこと
C、その日のうちに就寝し翌早朝に起床すること
D、菜食をすること
E、食べ過ぎないこと、小食過ぎないこと
F、怒り恨むことをしないこと
G、楽しく感謝して日々を過ごすこと
H、自分も他人も責めないこと
I、どんなことでもよいので勉強すること
J、山川草木を愛すること
K、他者のためを思うこと
L、毎朝晩、神仏に手を合わせること

まだ他にもあるが、こういったところを押さえておけば立派な修行者ということが出来る。修行というものを堅苦しく考えてはいけない。日常こそが真の修行の場なのである。

人はいつも自分のことばかり考えている。その自分への強い思いこそが、すべてに悪影響を与えているのだから、山川草木へ心を向ける習慣を身に付けるとよい。そういう意味で都会はやりにくいが、そういう人はベランダから遠くを見たり空を見上げたり、小さなプランターの花を愛でたり近所の公園でのんびりしたり色々ある。今どきならば心が惹き付けられる映像ビデオなどを薄暗くした部屋の中でひとり見入るなどというのもいい。そうして心が癒やされるならば一つの修行の成果ということも出来るだろう。

とにかく堅苦しく修行を考えてはいけない。日々の自分の中に小さな幸せを見出し他者への慈愛を抱き、少しの努力を心掛けるならばそれで充分である。美味しいごはんを家族のために作る、などという努力も修行として立派に評価されることであるのだ。

さてあなたの場合は躁鬱の傾向があり躁の時はとても威圧的になるので、寧ろその時に穏やかになれるよう静かに喋る訓練をするとさらに向上できるであろう。