管長の修行問答

2022.07.01

阿頼耶識(ア ーラヤしき)と真我(しんが)

アーラヤ識は霊として作用し輪廻の主体となって転生す

以前、阿頼耶識を真我と御説明頂いたと思いますが、そうであると、真我というものも霊そのものではなく、いずれは消え去っていくものということになるのでしょうか? 唯識を学ぶことで真我というものの理解も変わってきているように思います。(山梨・M)※本問答は2022年7月・433号のものです。

阿頼耶識(アーラヤしき)の理解は一般者には難しい。阿頼耶は我々の全意識の根底に位置するものであり、表面の感受性や好悪意識や分析や判断さらにそれによる決断決意というものを根底で支えている存在である。我々の通常の意識として自覚されているものとは全く異なるものである。厳密にはその奥で働いているものだ。

通常の意識から突出する形で強い自己執着を示すのが、その奥に存在する末ま那な識しきである。これが人を迷いへと突き落としていると言われている。あらゆる執着心がこの末那と直結している。この末那こそが我々を迷いや悪へと導いているのである。

そしてその奥に阿頼耶識が存在する。それは一切の意識や心を支配するものであり、本体は決して自己主張することはない。常に末那や前六識からの情報を全て受け入れているだけの種子を貯め込む性質を持っている。つまりそれは働きを持つ〈存在(有)〉であるということである。そこには個としての体験と意識の全てが記録されている。実に不可思議な存在である。しかし明確なことがある。それは実際に存在し我々の心身に常時働きかけているということである。この世的に実在するのだ。

更に難解なことを言えば、阿頼耶によって我々はこの世の存在を「有る」と誤認していることである。勿論、その実際的働きは末那識と前六識によるのだが、その奥でその誤認錯覚を支えている存在である。そして、この阿頼耶識が輪廻の主体として三世を往来することになるのだ。則ち、霊魂とはこの阿頼耶識に他ならない。つまりは錯覚の産物であり、真実の存在なる真如ではないということになる。

では「真我(大我)」とは何か。それはユングが説いたところの集合無意識である。それは全ての人の意識に共同するもので、その意味で自他同一の意識ということが出来る。梵我一如の梵に近い我が アートマンということが出来る。

つまり真我(大我)とは単に個人だけのものではなく全存在の共同の無意識的作用ということが出来る。その意味で従来から説いてきた真我の概念と唯識に当てはめた場合との概念に全く違いはない。大我はタオに他ならない。タオは太極の姿であり、太極も無極の中に収まったときにはもはや存在するものではない。それが真如である。