管長の修行問答

2021.03.01

生命の神秘

禅と思惟と捨身こそが真実の超越せし世界を出現させる

春めいてきて、植物の芽吹きを見る度に感動します。これは一体何の力なのだろうか、と考えたのですが、物質のレベルでいえば、遺伝子の情報どおりに物質の様相が変わり、変化していることです。でも、その変化は何のエネルギーによって行なわれているのか…きっと道に違いない!と思いました。そして感動を与えてくれる。生命に感動するのは道のありようだからでしょうか。(東京・U)※本問答は2021年3月・417号のものです。

宗教的人間とそうでない人間の違いはこの感性の有無に他ならない。一方、科学的人間はその原因を遺伝子のほかに土・水・空気・光・気温と細かい分析を行ない、そのいちいちについての影響作用を明らかとするのである。かくして科学は進化してきたのであるが、では、その環境たる条件を作り上げているものは何か、と問わなければならない。従来の科学はそこでハタと絶句し思考停止に陥った。現在では単純に宇宙の構成要素としての原子やその元となる素粒子の作用という。さらにビッグバンがその根源だという人もいる。

あなたの質問はそれらのすべての発動因は何かということである。将まさしくそれはタオに他ならない。あなたはこのタオと知的出遇いに至ったのだ。あなたが順を追い思惟し、さらに感受と思考を重ねた結果としてこの様な結論に達していることを歓ぶ。

思惟することを怠ってはならない。手を広げ天の気を浴びて「幸せ」とやっているのとは少し違うのである。瞑想といいながら気功に陥り体をゆすって「いい気分」になっているのとは禅的思惟は異なるのである。

精神は常にこのピュアな感性が要求される。それは普段他者を踏みつけ呪い続ける人間が一人になった時、自然の中で解放されて純粋な自分になったと錯覚するのとは全く異質のものである。それはタオの作用としての表面的感応であり、欲執着の世界から抜け出したものではない。欲は欲を集め執着は執着を寄せ付ける。そこからは決して精神が向上することはなく霊性を穢けがすだけとなる。それ故に、哲学的思惟が常に要求されるのだ。それはある種の自己犠牲の精神を持つ者の上にしか顕現してこない。

その意味であなたは美しいということが出来る。穢れがないことが分かる。その様にして修行を進めていくならば年単位で霊的向上を見るであろう。その為にもあなたが毎日続けている坐禅と三密の修行をさらに深めることである。愚かな人間が決して到達することのない勝れた世界を垣間見ることになるだろう。これは正しい修行者にしか決して顕われることのない真実の世界である。精進のこと!