管長の修行問答

2015.01.01

智慧なる器

知恵は知識から生まれ智慧は深理への理解から生まれる

十徳目の智慧の徳目に関してお伺いすることを御許し下さい。智慧(ちえ)について御説きになっている九つ目の徳目に「智慧とは研ぎ澄まされた器である」とございます。我々は自分の「器」をいつもいつも、自分でいっぱいにしてしまっていて、「こうでないと私はだめだ」「これがないと死んでしまう」「こんなはずはない」等、握りしめた想いで満たしてしまっているのではないかと思います。その握りしめた想いを、「器」から一気に流し出してしまえたら、そこには只、そのものがあるのではないかと思います。器を研ぎ澄ますとは、こだわりの想いを捨て続けて、一時的ではなく、本当に捨てきった姿のことではないかと思いましたが、その様な考え方で宜しいでしょうか。(神奈川・S)※本問答は2015年1月・343号のものです。

拘ったままでいいから器を大きくすることを考えた方がいい。拘りを捨て続けることも重要である。しかし同時に、単に器を大きくすることを心掛けることである。智慧というのは知識→知恵といった流れの中で認識されるのが大半である。世の中の常識と言ってもいいかもしれない。知識を基本として知恵は生まれるものと認識されているわけである。それ故、知識と知恵が異なるものか一致するものなのかを、一度きちんと思考しておく必要がある。近代に於いて、知識はとても重視されてきた。その結果として西洋に於いては哲学や科学が発達した。そこには知識が第一とされ、そこから生まれてくる常識や更なる進化系の思考を知恵と呼んで、敬意を払ってきたのである。

では、その知恵と智慧は何が違うのだろうか。国語辞典を見る限りは大差はないのだが、私が常々述べているところの智慧とは智叡や叡智と書いたりする。つまりそれは、物事の表面的な真理について追いかけている知恵に対して、深奥の神理について述べるものである。

本会は
神の存在を認めている。
神を前提として一切の規準としている。
神の理のみを本物の真理(神理)と呼び、普遍的本質として語っている。それらの認識・知識について智慧という表現を用いている。先ずは、その事を理解する必要がある。 ところが、一般に言うところの俗なる神理と言うのは、各宗教それぞれで言う事が違っている為に、〝科学的〟でない。そういう意味では、神理について各宗教が合同で見解を出せるといいのだが、残念ながら、各教団は教学の勉強には大変ご執心だが、本物の神理について自己を離れて思惟する者が殆どいない事も事実である。真に残念としか言い様がない。

本会は、それについて常に真摯に向き合っている。自己の教義性などという発想はない。それ故に素晴らしいのであるが、残念ながらその事が理解出来る優秀な人物は少ない。何故なら、そこには御利益と奇跡がないからである。俗人はこの二点を以て宗教と思っているのだ。何とも哀れである。そのことを越えて信仰心を抱ける者は大変優秀である。本物の霊格者と言える。

「研ぎ澄まされた」とはこのことを指すのだ。智慧と知恵の違いが明瞭とした状態を指しているのである。

「器」とは、この智慧が前提として顕(あら)われてくるもので、一宗一派一常識一科学に縛られることなく自他の感情に影響されることなく、真に客観的に物事が観(み)えることである。更に「如何に受け入れるか」が問われているのだ。

あなたの敵もあなたの嫌いな相手もあなた自身も全ての不条理の一切を受け入れているかという事である。これが出来なければ、器は生じてこない。人は許すことを知らなければ、器は自分という名の器だけの世界を形成し、そこからは到底智慧を入れる器へとは進化してくれない。

これらの言葉が強調している所のことは、智慧は言辞の世界ではなく心情を呑み込んだ大宇宙の感覚のことで、如何にその世界と同調出来るかということが問われているのだ。つまりは、そこには実に深い洞察と悟りとが求められているということになる。只々謙虚で大きく生きる事だ。