管長の修行問答

2014.11.01

礼と真心

礼とは裏表のない謙虚で素直な真心と高次の意識である

先日の講習会にて御教示頂きました「礼」というものが、いわゆる「礼儀」の礼というだけではなく、何か計り知れない程深いものに感じ、とても自分には「礼」の実行は無理ではないかと思いました。そこで、せめて物事に当たる時に「真心」を込めるようにしたら良いのではないかと思いましたが、その「真心」もよく分かってない様に思います。「真心」を込めるとは、真剣に一生懸命にやるということで宜しいでしょうか?「真心」とは一体どのようなものか御教示頂けましたら幸いです。何卒宜しく御願い申し上げます。(埼玉・M)※本問答は2014年11月・341号のものです。

礼というのは、いまの日本では形骸化してしまっている。問題はその事を誰も認識しようとしない事である。本来、礼というのは心の事なのであって形式を指すものではない。しかし、世の中は、礼と言えば形のことだと思い込んでいる人が大半である。

礼は朝起きた時から夜床に就くまで、あらゆる面で問われていることであるのだ。一般には朝の挨拶などがその典型として挙げられるのだが、果たして正しい挨拶が出来ているか大いに疑問である。単なる挨拶なら返事をしない人を除き全ての人が行なっていることになるのだが、果たして「礼」はと言われると疑わしい。即ち、礼とは心が伴わなければならないからである。

挨拶の相手に心からの良心をもって言葉を交わすことが礼であって、お世辞や頭を下げる角度が何度などという話ではない。お歳暮やお中元も然りで、感謝の気持ちもないのに政治的判断で送っている人は多い。日頃お世話になっている人や、恩義のある方に対して心からの感謝の念をもって贈呈して初めてそれは礼に適うのである。

例えば、誰かとの初対面に於いて、相手を穿鑿(せんさく)する人が大半だがそれは礼を失する行為である。頼まれた仕事の手を抜くことも、相手を見下した意識も、いくら表面的に頭を下げていたとしても、その一切は礼を失する行為である。

相手が困っている時に「助けてあげよう!」という意識すらも礼に反していることは誰も知らない。その様な時には、必死の思いで助けてあげるのであり、余裕が有って助ける時には助けている様な素振りをしないで助けるといった心遣いをして初めて礼に適うのである。

師から注意を受けたにも拘わらず、自分が納得出来ない事には反省しない意識は、一切の礼を欠く典型の一つである。「真心」「誠」とは心に偽りのない謙虚な心と真っ直ぐの思いと仁が一体となったものである。