管長の修行問答

2014.11.01

道・徳・仁・義・礼

より高次の意識は下位の意識を純粋な完成形で内包している

「老子様の言葉で、道を失いて後、徳あり、徳を失いて後、仁あり…と伺いました。仁の御説明の中で慈悲という言葉があったと思いますが、仁とは慈悲なのでしょうか。又、徳というものが復活すれば慈悲はなくなるのでしょうか。(埼玉・S)※本問答は2014年11月・341号のものです。

孔子伝の中で老子は孔子にこう言われた。「天下に道があれば礼など必要ない。礼は乱の首(はじめ)である。

道を失いて後 徳あり
徳を失いて後 仁あり
仁を失いて後 義あり
義を失いて後 礼あり

礼が求められるのは徳が失われているからだ」と。
これは『老子』の下篇にも同様のことが述べられている。
故に道を失って而して後 徳あり、徳を失って而して後 仁あり、仁を失って而して後 義あり、義を失って而して後 礼あり。夫れ礼は、忠信の薄きにして而して乱の首(はじめ)なり。

両句ともに同じことを述べているのだが、礼を失いて後の指摘がないのは大いに残念な限りである。いまの世は、この礼すらも廃(すた)れてしまっているからである。

あなたの質問に答える前に、この老子の言葉について語っておきたい。そもそも、老子や孔子を研究している学者でこの道を正しく理解出来ている者はただの一人もいないことを知っておく必要がある。彼らは、驚くほどの知識を身に付けてはいるが、論語読みの論語知らず、とはよく言ったもので、ことば以上の深みに到っていないことを甚だ残念に思う。

道とは言うまでもなく天地を貫く存在であり、天地開闢以前から存在するものである。しかしそれを老子は決して神の概念として説くことはない。それよりも遙かに実体に則した理を説いているからである。知識でしか理解出来ない学者たちはこの視点に幻惑させられて、その本質を穿(うが)つことが出来ない。それ故、道は常に単なる道理としてしか語られ様としない。

だが、いつも言うことだが道(タオ)とは玄々(くろぐろ)とした生き物であるのだ! それは生々(なまなま)しく我らの生命に関わり捉えて離すことがない。それは外を支配する時は原理となり内を支配する時には霊となって存在する。その事を理解出来る者は老子研究の誰一人として存在しない。

この道(タオ)を失うとはどういう意味かと言えば、天地の営みを肌と直観とで理解仕得る能力を失ったことを指すのである。その道の直観さえ身に付けていたならば以下の全ては自ずとその内に蔵されて一切の惑いは存在しないのである。

ところが、その道の把握力を失った為に、徳が殊更に意識される必要が出来たというのである。徳とは仁よりも上位の元(もと)よりその身に備わった所の意識することのない正しく生きる姿そのもののことである。無意識の善である。

そしてこの徳が失われると、博愛としての仁が意識される様になるというのだ。仁の人は、意識することなくその愛を他者に施すのであるが、その周囲の人からは能(よ)くその慈愛が感じられて評判となるのである。しかし、その慈愛の仁も社会から消えていくと、次には道義が説かれる様になり、学んで義を行なう時代となる。忠義の臣が讃えられるのもこの様な社会である。しかし、この義も時代と共に失われ遂に礼が強調される時代に突入する。しかし、その時には既に世は手遅れで乱れ始めているのである。

いまの人の世とは正にその様な時代である。形式的な礼を知る者すらほとんどいなくなった。礼とは形が優先されるものである。義も未だそうである。仁や徳はより無意識的に相手への慈愛に満たされている。その様に、頭で意識する所の理性や感情から出てくる所の狭量な愛情ではなく、魂の奥底から出てくる絶対的な道徳規範に支配されなくては正しい人とは言えないということである。仁は慈愛であって慈悲とは徳なる高次意識から生まれるところの心情であると理解した方がより正しい。上位意識には一切が含まる。