管長の修行問答
2014.06.01
四法印の悟り
無我と無常の悟りが一切苦を取り除き涅槃へと至らす
- ①「諸行無常」と「諸法無我」はどのような関係にあるのでしょうか。(京都・M)
②「一切皆苦」の時代に終わりを告げる時は来るでしょうか?(栃木・T)※本問答は2014年6月・336号のものです。 -
①部派仏教に於いては「諸行無常(しょぎょうむじょう)」「諸法無我(しょほうむが)」「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」をもって三法印(さんぽういん)と呼称し、仏教の根本教義としてきたものである。
『諸行無常』とは、日本では『平家物語』の一節でよく知られている。
祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらわすこれは栄華を極めた盛者(平家)が遂に滅んでいく姿を通して、無常の理を説いていることになっているが、実はそれ以上に悲哀を説いたものであり、仏教本来の冷理な哲学を説いているわけではない。何であれ、日本人は学校の古文でこの文章を目にし、初めて諸行無常なる仏教用語を知るのである。
諸行とは「すべての作られたもの」「あらゆる現象」の意味であり、それらは無常、即ち「永遠なるものではない」と説く教えである。
この諸行無常の哲学が平家物語のそれと異なるところは釈尊の最初の説法(初転法輪)の内容だったと言われる「十二縁起」なる哲理を包含していることにある。即ち、その順観に当たる「流転の縁起」にて、物事の一切が独立して存在し得ないことを示すのである。
次の『諸法無我』によって『諸行無常』が成立していることも理解しておく必要がある。つまり、諸法とは「ダルマ(真理)」のことであり「我々の認識の対象となるあらゆる存在」を意味する。諸行も諸法も本質的には同義語である。
ここで説く無我とは、主体たる我がないということを意味する。我とはインド的にはアートマンと呼称され、「永遠不変の存在」を意味し、その様な我など存在しないと諸法無我は説いているわけである。
「我(が)」とは「自性(じしょう)」のことである。この無我即ち無自性を強烈に説いて、仏教中興の祖であり、大乗仏教の始祖にして八宗の祖と呼ばれるのが、龍樹(ナーガルジュナ)であり、その「中論」の哲学は、釈尊が説かれた空(くう)の教えを更に先鋭化し、より哲学的なものへと進化させたのである。
龍樹はもし灯明の炎に自性があるならば、変化することなく燃えることが出来なくなる、それ故に自性は無いといった論理で、諸法の無我なることを説いた。
諸法が無我なるが故に、諸行もまた定まることがなく、一切は無常であると説かれたのである。
これら縁起の哲理の中から「空」という概念が闡明(せんめい)となり、後の仏教の支柱を盤石なものとしたのである。龍樹の空観論の展開なくしては、今日の仏教の成立は有り得なかったと思われる。
最後の『涅槃寂静』は、読んで字の如しである。前者の二法を悟ることで、真実の安心(あんじん)の境地に到ることが出来ると説くのである。
②一方、この三法印にはもう一つ『一切皆苦(いっさいかいく)』を加えて四法印とする考えもある。一切皆苦の教えは、仏教の根本中の根本の教えでもあり、本来なら三法印に入るべきとも思われるのだが、それではどこにも救いがなくなってしまうので、涅槃寂静が先に来たのかもしれない 。
何であれ、釈尊の根本の思惟(しゆい)はこの一切が苦であるという達観からだった。そして、その苦は如何にすれば取り除くことが出来るのかという自問自答からの出発であった。その結論は、修行であり、自我への執着からの脱却であった。また、社交を嫌い孤(ひと)り森の中に入りて定に入ることを第一とされたのである。さて質問だが、「皆苦」の終焉は、科学の発達による脳の改造で遠い未来に訪れることだろう。その時は余りにあっけなく訪れるのかも知れない。