管長の修行問答

2014.05.01

依存心とひねくれ

他者と自分が違うことを自覚し他者に敬意を払う者となれ

①仏教の本の「慈悲の心」という話がとても気に入り、同僚の二十代男性に読んでみてといいました。素直に読んでくれたのは嬉しかったのですが「全然心にひっかかるところ、ありませんでした」とそっけなく言われました。こういうことは当然ありますが、分かり合えないことが悲しくなります。しかたないのですが、それで気力が失せていくこともあります。この悲しさを減らしたいのは自分勝手な思いでしょうか。こんなことで心が揺れるのは、自分の弱さでもあると思っています。
②ひねくれについて御伺いします。自分でも心当たりがあるのですが、現実(真実)が受け入れられないとひねくれるしかないのです。ひねくれを直すにはどうしたらいいですか? 自分の経験では、圧倒的な愛に触れた時、ひねくれる必要がないと思いました。(東京・U)※本問答は2014年5月・335号のものです。

①「分かり合えないことが悲しい」とは何ともおとめチックで失笑を買いそうである。十七歳の女の子のセリフなら問題ない。しかし、四十を過ぎた女のセリフではない。年齢差も有る。男女差も有る。環境差も有る。その時の気分の差も有る。教養の差も有る。何より人格の差が有る。にも拘わらず、同意を求めようとするあなたの“甘え”には哀れを感じる。

あなたは早く大人にならないといけない。他人は所詮他人であることを早く悟るべきである。その上で、お互いが助け合える社会を形成しなくてはならないのである。

この行為は、依存心に他ならない。誰かに依存しなくては生きていけない愚かな人間の姿である。愚か故に、その依存を拒絶されると、その相手に不満を持ちひどい場合には復讐を考える。更に、自分の不幸はそいつの所為だと思うに到る。

「慈悲の心」とは「甘えたい心」のことである。あなたの甘えに対して、若い彼は「ノー」と言ったに過ぎない。何故なら彼は、あなたより大人だからである。


②まともな人間は、現実を受け入れられない時は、それを闘い抜くか、そこから離れて別の受け入れられる現実を選択するものである。そうすれば、ひねくれと関わる必要はない。闘い抜いて勝つしかないのである。勿論勝つ相手は自分に他ならない。

但し、もはやまともな精神状態でない異常心理者がいる。彼らに到っては、自己克服は出来ないので、その場合には親をはじめとした周囲の者の深い愛情なくしては回復仕難い。故郷に帰って暮らすのもその一例である。