管長の修行問答

2013.09.01

神なる絶対的喜び

諸法は実相にして一切の苦は忽ちにして悦びと転ずる

神は「絶対的悦び」の存在である限り、この世の一切皆苦の本質は悦びなのだと思います。日常では様々な事に心を煩わされ、つまらないことに一喜一憂してしまうのですが、全てが因果の精緻な法則に因って起きていることであり、成長の為に起きていることであると気付けると、感動と共に、一瞬に、「苦」は「悦び」に変わります。また、修行を積めば、先ず「苦」と思う意識もなくなり、全てを「悦び」として受け入れられるのでしょうか。(東京・N)※本問答は2013年9月・327号のものです。

素晴らしい見解に感心している。正にその通りである。昔、私が若かりし時。23歳の時だったと記憶している。30時間の瞑想に没頭していた時のことである。夜が明け朝の八時を迎えた時である。前日から続いていた道路工事が開始され、突如として大騒音が響き渡ったのである。

ところが、前日の、瞑想開始時点では騒音であったはずのその音が、全く騒音として響いてこなかったのである。それはとても新鮮な感覚だった。更に驚いたことは、私の心には天の調べの様にそれらは聞こえてきたのである。

勿論、ヘンな薬など飲んでいるわけではない。私は一人静かに感動していた。その時、私の心を支配していた意識は、「諸法実相」という響き(言葉ではない)であった。 日常人は自我に縛られ、それに振り廻されているが故に諸法の実相について悟ることが出来ないが、その真実の姿は、正に真理そのものであるのだ!

私は一人、自分の部屋で静かに感動仕続けたものである。これこそが仏教が説く所の「諸法実相」ということであるのだ!と。

あのアスファルトの地面を破砕する機械の音が数メートル先で発生しているのである。その震動が部屋にまで伝わってくる。その様な状況の中、私の心に響いてくるのは、天の調べに他ならなかった。それは、正に「超越」した時の境地であった。まさか、あの騒音が悦びに変わるとは想像だにしていなかった。

単に気にならなくなるのなら、そう難しいことではない。坐禅などやったことがない人でも、意外と気にしない人はいるのである。しかし、ここに言っているそれは、全く異質のものである。

まさか、ここまでリアルに、現実が実相化するとは当時想像していなかったので、感動したものである。勿論その様な感動というのは、所謂、日常的な感動という意識とは全く異なることを述べておかなくてはならない。物凄い感動といっても、表面的には何も変化がないのである。

そこに他人が居て私を見ていたとしたならば、私の気が変わったことには気付いたかもしれないが、それ以上の気付きにはなっていないだろう。それほどに静かな興奮であった。只観ているだけの静慮の時であった。実に摩訶不思議な世界に時を過ごす体験であった。

その時私は、諸法の一切は悉く神理であると悟った。如何なる苦痛も悦びの中にしかないと知らされたのである。正に、あなたが言う通り「一切皆苦の本質は悦び」だったのである。

只、残念なことに定を解くと、その状態は一気に消え失せていくのである。これも定の本質である。この状態を活動時に於いても完全な状態で続けることが出来たならば、何と素晴らしいだろうが、残念ながら、無明の力は限りなく強いと思い知らされるのである。

勿論、世間並の意味で、他者の一切の干渉に心を動じさせぬというのは、拷問に遭わない限りは基本的には難しい事ではない。しかしそれは排他の意識に因るもので、衆生済度の立場にはないのである。だから、あなたが独覚的悟りの境地を求めるならば、一切の人を無視して自分独りの世界で生き徹せばいいのである。その姿勢ならある程度、定を続けることは可能となる。

その意味に於いて、あなたの修行も進めば、いまの苦は全て悦びへと変じてくれることだろう。その為には先ずは定に入る修行に徹する必要がある。それが出来ない限りこの実現も生じない。精進を祈る!