管長の修行問答
2013.05.01
相手は合わせ鏡
他者は気付いていない真実の自分に気付かせてくれる
- 「自分にとって苦手な相手は自分そのものだと気付かねばならない」と伺いました。しかしながら、今一つ理解が出来ません。御教授頂けましたら幸甚です。(岡山・I)※本問答は2013年5月・323号のものです。
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この場合の苦手とは苦手という意味ではなく嫌な相手や頭に来る相手を指している。
例えば、あなたがムカツクあいつが「君は相変わらず善人ぶって結局は何も出来ない奴だな」と厭味を言ってきたとしよう。あなたはこの言葉に、ムカツクわけだが、そこで、ちょっと考えなさい、と言っているのである。
人は誰しも、頭に来ることと出遭う。凡夫はその時、単にその相手を嫌うだけである。時に大喧嘩をすることになる。ところが、凡夫というのはその相手の態度が、実は、自分が常日頃誰かに取っている態度と極めてよく似ていることには気付かないのである。
大体、「あの人ってナマイキなのよね―!」と不貞腐(ふてくさ)れている人に限って生意気なのである。
「あいつと喋ってるといつも強情でうんざりするよ」と言っている人は大体強情者なのである。強情でない人とは相手が強情な自分にすぐに合わせてくれるから何も感じないが、強い相手だと、自分の主張を受け入れてくれないから「何て強情な奴なんだ」と思うのだが、何てことはない、自分が強情で、相手の意見を聞き入れず、自分の意見ばかりを通そうとしているに過ぎないのである。
「あいつは理屈をこねるから・・・」と言っている時には、自分もその傾向を示すから注意しなさいと言っているのである。相手とぶつからない時は、そうではないのだが、ぶつかる時は相手と自分は同類だと自覚し、反面教師として自己の改善に励めよ、というのが私からの教訓である。
では「苦手」はどうだろうか。
苦手と相手を意識する時は、自分がその人に劣っていることを意味する。劣っているといっても、何もかもが劣っているという意味ではない。容姿だったり権力や腕力や頭脳や技能といった個別な所でいくらでも、相手への苦手意識は生まれるのである。
では、相手に対して苦手と感じない人は勝っているのかと言うと、必ずしもそうではない。単に自分の無知や無教養や慢心や鈍感がそうさせている例は多い。
嫌いな相手でも苦手な相手でも気が合う相手でもその全てから、自己を見出し分析することが出来る。常に他者は自分の合わせ鏡である。その相手を通してあらゆる角度の自分を見出すことが出来るのである。だから修行となる。