管長の修行問答

2008.09.20

武士道修行

遂には相手の呼吸と和し気によりて深き瞑想を成すなり

武士道に参加させて頂き1年になります。いよいよ力の衝突から技の段階に入り、更なる興味を惹かれておりますが、修行としての意義をおきかせ下さい。私なりに組手という他との対峙から集中力や、早い動きの中での瞑想をも要求されているような心持ちです。暴力の中に高い感性や知性が隠れているのでしょうか。また、戦いぶりに個々の想いも感じられます。(派遣社員 50歳)

1年続いているのは立派である。
2005年10月に於ける本会の武士道修行は、現在、満2年を経た所であり、順調に基礎が出来ているものと思われる。
実力もついてきた。
何より皆、場慣れしたと思う。
しかし、まだまだ真に基礎を築くには数年かかる。
私が直々に毎回指導出来れば、もっと本物になれるのだが、出来ないのが残念だ。

修行としての意味は以前にも述べた通り、生き死にを超える精神の涵養である。
また、自己を離れるの訓練でもある。
口で偉そうな事を言う連中が多いが、そういう奴に限って、イザとなったら責任から逃れ、一切の義務を果たさない。
そういう腐った精神を根っこから断ち切ってしまうのが当初の目的でもある。
男なら、単純に強くなることで自信にもつながり、出世の役にも立つ。

しかし、更にこれからは、呼吸の調和について修得してもらいたいと思っている。
相手の呼吸を読む訓練である。
自分と相手とが一つの呼吸の中で戦うことが出来れば、疲れることがなく、平和な戦い(気の交流)を可能とする。
自分の動きも無駄がなくなり、流麗な動きへと変わっていくのである。それは傍から見ていても美しい。

最終的には、老いても猶、戦える呼吸を身に付けてもらいたいと思っている。
力だけに頼る武術ではなく、気を用いた読みと、鍛練により培われた俊敏性による動きを実現出来たら、武術としては完成したと言ってよい。

その後は、その修行を通して、深い瞑想を体得してもらいたいと思っている。

武術というのは、一見暴力に他ならないものだが、その中に優れた精神性を見出すことが求められているのだ。
まだ、現段階では、皆の精神は不純でしかない。
勝ち負けにこだわっていたり、戦いそのものから逃げることを選ぶものもいる。
力の加減が判断出来ぬ者、ムキになる者、まだまだ修行が足りない。

しかし、体を動かしながら修行が出来るというのは、有難いものである。
いずれ本山が手に入ったら、大道場の許で、本格的な修行を指導したいと考えている。
その時は、いよいよプロ級となるときだ。