管長の修行問答

2008.07.23

霊光

光、大自然の全てが神を表現

夢窓疎石の「夢中問答」に「古人云はく、人々各霊光を具す。円学経に大光明蔵三昧と説けるも、一切衆生本具の霊光なり」とあります。
この「霊光」を「大いなる光」と同一のものと捉えてよいですか。
また「大いなる光」について仏典ではどのような言葉で表わしているのですか。

「霊光」と「大いなる光」は同義である。
仏典では無量寿光や大日といったところは有名である。
慈光も然り、仏光、毘盧、遮那、そして仏性などということばも、実体は光そのものを指しているのである。
その意味においては、数限りないほどの表現をなすことができる。

なぜなら、真理、法則とは、光そのものであるからだ。
当然のことながら、あらゆる存在そのものが光以外の何ものでもないのである。
実に光は、この世あの世に満ち溢れた実体であるのだ。

ところが、残念なことに、我々がその実体を実体として捉えることができないところに、不運がついてまわるのである。
光輝く存在そのものであるあなたが、そうでないかの如きに感じられてしまうのが、この人の世の定めである。
だが、悟るは一瞬の間なり。

心して行ずるならば、その光との出遇いを可能とするのである。
経典の字面を追っても、そこに光があるわけではない。
光は、その心の内に、真の信を抱いた時から、実に光輝くようになるのである。
あなたの心が、そう捉えられるようになるのだ。