管長の修行問答
2008.07.28
人生の苦難
挫折も壁を乗り越える為のステップであることに気付くべし
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「乗り越えられない苦難はない、自分のレベルに合っただけの苦難しかやってこない」と管長は仰いますが、現実には私は自分の能力を超えた壁に何度もぶつかっては挫折してきました。力を尽くしたと思っているのは自分の慢心かと何度も自問しましたが、どう考えても、その時の自分の力では解決できなかったと思われる壁が、いくつもありました。広い意味では時が解決してくれたと思えなくもないのですが、どうしても納得できないものがあります。私の解釈が間違っているのでしょうか?
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そうだね。
不慮の死を迎える人もいる。
その悲しみは筆舌に尽くし難いものだ。
しかし、その誰もが、いずれ時間と共に乗り超えているのである。これには、常に二つの法則がある。
一つは過去の罪に対しての罰という因果法則である。
もう一つは、その人の真っ直ぐな信仰生活に対する試しである。
そのどちらかは、その人の生活を見なければ判断仕難い。
決して、信仰があるから試練に遭っているということではない。
その大半は、日頃の行ないの悪さからくる罰でしかない。さて、君の言う「自分の能力」について考えなければならない。
君が言っている「自分の能力」とは何を指しているのだろうか。
それは、いまの君の能力ということだ。
いまの能力とは、努力をしていない状態の知識しか持ち併せていない能力のことである。私が言っているのは、途中で投げ出すことなく、最後までやり徹した時に出てくる能力のことだ。
果たして君はその努力をやって来ただろうか。
自分の能力を超えた壁とは何だろうか。
壁とは常に日常の力では超えられないものだ。
超えられるものを壁とは言わない。君は、その壁に出遭った時、果たして全力を出し切ったのだろうか。
その前に「イヤだ!」と拒絶したのではないか。
出来ないと決め込み、乗り超える努力から逃げ出したのではないか。
君の持つ愚かなプライドが「傷つく」と言い出したのではないか。君のようなタイプの人は多い。
皆、自分には出来ないという。
しかし、その誰しもが、初めから投げ出しているのだ。それともう一つ、完全であろうとする者も自己否定することになる。
ありのままの自分を受け入れない限り、下らぬプライドがすぐに首を擡げて、現実の葛藤から逃げ出すものだ。君たちに能力がないのではない。
その能力を表に出すことをして来なかっただけである。
逃げれば限りがない。
一度最後まで逃げずに「受け入れる」ことだ。