「古事記が示す神道」Ⅲ

『古事記』と合わせて『日本書紀』から、神武天皇に関する記載もご紹介致します。

いよいよ、神話的な国の成り立ちから、初代神武天皇即位という日本の建国へとつながっていきます。

天孫降臨 てんそんこうりん

出雲の 大国主神 おおくにぬしのかみ が完成させられた 葦原中国 あしはらのなかつくに (=地上世界)は、 天照大御神 あまてらすおおみかみ に国譲りされました。

天照大御神は、自らの孫にあたる
天邇岐志 あめにきし 国邇岐志 くににきし 天津日高 あまつひこ 日子 ひこ 番能 ほの 邇邇芸命 ににぎのみこと に、
豊葦原水穂国 とよあしはらのみずほのくに 葦原中国 あしはらのなかつくに )に降り、治めなさい」と命じられ、鏡・ 勾玉 まがたま 草薙 くさなぎ の剣をお与えになられました。 所謂 いわゆる 、三種の神器です。

邇邇芸命 ににぎのみこと は、天の八重にたなびく雲を押し分けて、 筑紫 つくし 日向 ひむか 高千穂 たかちほ の山に天降りされました。

「ここは、 韓国 からくに (古代朝鮮)に向かい、 笠沙 かさ の岬(鹿児島県南さつま市笠沙町の野間岬)に道が通じていて、朝日がまっすぐに射す国、夕日の日が照る国である。だから、この地はとても良い地だ」と仰せになり、地の底にある岩盤に届くほど深く穴を掘って、太い柱を立て、 高天原 たかまのはら (天上界)に届くほど高く 千木 ちぎ を立てて、お住みになりました。

この高千穂については、九州南部の霧島連峰の「高千穂の峰」と宮崎県「高千穂町」の二説あり、決着はついていません。

そもそも、なぜ、降りられたのが、出雲や大和地方ではなく、高千穂だったのでしょうか?

考えられる理由としては、一つに、 伊邪那岐命 いざなぎのみこと が禊をなさって天照大御神がお生まれになったのが 筑紫 つくし 日向 ひむか ですから、つながりがあり、とても自然なことと考えられます。

また、考古学的事実として、弥生時代に、九州地方で見られた鉄器が、後に大和でも見られるようになっていますから、大きな勢力の移動があったようです。

霧島連山

九州の鹿児島県と宮崎県の県境にある霧島連山
ここに属する高千穂峰に、天孫・邇邇芸命が高天原(天上)から葦原中国(人間の世界)へ天降りしたといわれている

ところで、この 天孫降臨 てんそんこうりん の際、 邇邇芸命 ににぎのみこと と一緒に、 あめ 石屋戸 いわやと の時に活躍した五人の神も一緒に降りてこられます。

神様なのですが、それぞれに専門の職業を与えられていました。

その五神のうちの一神である 天児屋命 あめのこやねのみこと は、 中臣連 なかとみのむらじ らの祖です。中臣連は、大和朝廷で祭祀を行なった氏族で、後の子孫といわれる 中臣鎌足 なかとみのかまたり が藤原の姓を与えられて、藤原氏になります。

五神は、祭祀を司る、祭祀の際の物資を納める、巫女、鏡作り、玉作りなど、大和朝廷で大切な役割を与えられる専門職集団なのですが、闘いの神でなく、祭祀に関わる神様方であることから、この部分からも祈りを大切にする民族性が うかが われます。

木花之佐久夜毘売 このはなのさくやびめ

邇邇芸命 ににぎのみこと は、笠沙の岬で 大山津見神 おおやまつみのかみ の娘、 木花之佐久夜毘売 このはなのさくやびめ に出逢われ、その うるわ しさに一目で恋に落ちて、結婚を申し込まれました。木花之佐久夜毘売は、父の大山津見神(山の神)が返事をするとお答え申しました。

大山津見神はたいそう喜んで、木花之佐久夜毘売に、その姉の 石長比売 いわながひめ を添えて差し出されました。古代では、家と家の結び付として姉妹で嫁ぐということはよく行なわれていたようです。

しかし、妹と比べて、姉の石長比売のあまりの醜さに驚き恐れた邇邇芸命は、その日のうちに姉の石長比売だけ実家に帰してしまわれ、木花之佐久夜毘売と結婚しました。

姉妹を送り出した父の大山津見神は、「私が二人の娘を送り出したのは、姉の石長比売には、石のように変わらぬ長寿でありますように。妹の木花之佐久夜毘売には、木の花が咲くように栄えますようにと、 うけ いをして(願をかけて)送り出したのです。

石長比売を帰されたことで、天つ神の御子( 邇邇芸命 ににぎのみこと )の命は花のように はかな いものになるでしょう」と言われました。

神である邇邇芸命に寿命が与えられてしまい、その子孫である歴代の天皇方のご寿命も、この一件により限りのあるものになってしまわれたのです。

しばらくして、 木花之佐久夜毘売 このはなのさくやびめ が、邇邇芸命に、「子供が出来ました」と告げました。すると、邇邇芸命は、「木花之佐久夜毘売よ。たった一夜で妊娠したというのか。

それはきっと私の子供でない。

きっと くに つ神(他の神)の子であるに違いない」と疑われました。

木花之佐久夜毘売は、「私の産む子が、もし国つ神の子ならば無事に出産することはないでしょう。しかし、もし天つ神(天上界の神、ここでは邇邇芸命)の子ならば、無事に出産するでしょう」と申し上げて、出入り口のない高い神聖な建物を造り、その中に入ると、中側から土で塗り ふさ ぎ、出産が近づくと、その御殿に自ら火を放ち、その燃え盛る火の中で子を生みました。

花之佐久夜毘売は、自分の命をかけて生まれる子が邇邇芸命の子供であることを証明して見せたのでした。

名誉のためとはいえ壮絶な出産ですが、ともあれ邇邇芸命が、山の神の娘を めと ったことは、山の神の霊力を手に入れることを意味しています。

富士山本宮浅間大社の赤鳥居

木花之佐久夜毘売を御祭神とする富士山本宮浅間大社の赤鳥居
桜の美しさを体現している神様といわれている

海幸彦 うみさちびこ 山幸彦 やまさちびこ

木花佐久夜毘売は、三神を出産されました。

その御子のうちの兄の 火照命 ほでりのみこと は、 海幸彦 うみさちびこ として海の魚をお取りになり、弟の 火遠理命 ほおりのみこと は、 山幸彦 やまさちびこ として山の獣を取っていらっしゃいました。

ある時、弟の火遠理命は、兄の火照命に頼んで互いの道具を取り替えて貰い、漁に出られました。しかし、魚は釣れず、さらに兄の釣り針をなくされてしまったのです。怒った兄から釣り針を返すように言われ、探す方法が分からず困った弟の火遠理命は、海神の綿津見神(わたつみのかみ)の御殿へ向かわれました。そして、綿津見神の娘の 豊玉毘売 とよたまびめ は、 火遠理命 ほおりのみこと にたちまち一目惚れしてしまい、お二人は結婚され海神の国に三年住まわれました。

しかし、火遠理命は失った釣り針のことを思うと心が晴れません。そこで、義父の綿津見神は、釣り針を探し出し、また、兄の火照命を悩ませ苦しめる 呪詛 じゅそ の言葉と潮の干満をコントルール出来る たま を授け地上に帰されました。

弟の火遠理命は、兄の火照命に釣り針を返し、呪詛と珠で兄を悩ませ苦しめました。そのため、ついに兄は頭を下げて弟の火遠理命の守護人となると申し上げました。

しかし、元々は、弟の火遠理命が兄に是非にと頼んで借りた兄の釣り針を失くしたことが発端ですから、少し可哀想な気もしますね。

豊玉毘売の出産

身ごもった 豊玉毘売 とよたまびめ は御子を生むために 火遠理命 ほおりのみこと を訪れました。そして、産屋を作り終わらないうちに、御子が急に産まれそうになったので、「他の世界(ここでは海)の者は、生む時は、必ず本来の姿になって生みます。

どうか、私を見ないでください」と言い残し、産屋を作って入られたのですが、火遠理命は、密かに覗き見をしてしまいました。

すると、豊玉毘売は巨大なワニになって、うねりくねりしていたので、火遠理命は、驚き逃げてしまわれました。

見られたことを恥じた豊玉毘売は、心ならずも御子を置いて、海の世界に帰られました。お生まれになった御子は、葺草を吹き合える前にお生まれになったので、 天津日高日子 あまつひこひこ 波限 なぎさ 建鵜葺草葺 たけうかやふき 不合命 あえずのみこと と申し上げます。

しかし、豊玉毘売命は夫の火遠理命を慕う心を おさ えられず、妹の 五玉依毘売 たまよりびめ を、残してきた御子の養育のために つか わしました。そして、育った天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命は、養育してくれた叔母の玉依毘売と結ばれ四人の神が誕生されました。

その末の御子が、 神倭伊波礼毘古命 かむやまといわれひこのみこと 、後に初代天皇陛下の 神武 じんむ 天皇となる方です。

神倭伊波礼毘古命(神武天皇)は、天照大御神と 須佐之男命 すさのおのみこと の男系の男子でいらっしゃいます。

天孫降臨の 邇邇芸命 ににぎのみこと の母上は、 天地初発 てんちしょはつ で成った 別天 ことあま つ神(五神)の 高御産巣日神 たかみむすひのかみ の娘であり、山の神(木花之佐久夜毘売は山の神の娘)、海の神(豊玉毘売や玉依毘売は海の神の娘)の系統も受け継いでいらっしゃるので、大変なお力をお持ちということになります。

神倭伊波礼毘古命の東征

神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれひこのみこと)と同じく玉依毘売(たまよりびめ)を母とする 五瀬命 ちゅうこういつせのみこと は、安らかに天下を治めるには東に都を求めるのがよいとお考えになり、日向から大和進出へと向かわれました。

しかし、途中、兄の五瀬命を敵の矢で失った神倭伊波礼毘古命は、「我々は日の神の御子なのに、日に向かって戦ったことが良くなかった。これからは、回り込んで、日を背にして戦おう」と仰せになり(作戦を変えて)、荒ぶる神々を平らげ、従わぬ人々を退けましたが、自ら進んで家臣となる国つ神も多くいました。

その闘いや逸話にまつわる地名が、各地に残っています。

高御産巣日神 たかみむすひのかみ (前述)が天から遣わした 八咫烏 やたからす の先導もあり、神倭伊波礼毘古命は、とうとう大和に入られました。

畝傍 うねび 白檮原 かしはら 橿原 かしはら )に宮殿を建てて初代天皇に即位され、 神武 じんむ 天皇となられ、天下を治められました。

神武天皇の「令」

神話時代から、日本国の創設まで、『古事記』の上つ巻~中つ巻(神武天皇の段)でご紹介してきました。

では、初代天皇陛下となられた神武天皇は、どんな建国の理想を抱かれていらしたのでしょうか?

『日本書記』に、即位を前にしての天皇の のりごと (天皇のおおせの意味)の記載がありますので、少し難しいかもしれませんが、ご紹介致します。
「それ 大人 ひじり のり を立つるに、義かならず時に したが ふ。いやしくも民に利あらば何ぞ ひじり わざ たが はむ。まさに山林を ひら き払い、 宮室 みやこ 経営 つく り、恭みて 宝位 たかみくら (皇位)に臨み、 元元 おおみたから (国民)を しず むべし。上は 乾霊 あまつかみ (天照大御神)の国を授けたまひし徳に答へ、 しも 皇孫 すめみま の正を養ひたまひし心を弘めん。 しか して後、 六合 くにのうち (天地東西南北)を兼ねて都を開き、 八絋 あめのした (八方)を おお ひて いえ (大きな家)と為さんこと、また からずや」

(※大意…世に尊敬せられる人が制度を制定する場合には、必ずその事柄が、その時にあったものに努めるものである。人民の利益となるならば、どうして聖業に違うことがあろうか。天照大御神が 邇邇芸命 ににぎのみこと にこの国を授けられた徳に応えるには、正義の精神を持って民が幸福な生活を営むように、政治をすることである。天下に住むすべてのものが、一つ屋根の下に大家族のように仲良く暮らせるようにしたい)

信頼と愛情に基づいて一つの家族のような国にしたいという神武天皇の祈りのようなお気持ちが伝わってきます。

橿原神宮

橿原神宮
御祭神・神武天皇が即位の礼を行なわれた地(畝傍山の東南)に明治23年創建された

また、『日本書紀』によると、 神武 じんむ 天皇は「 辛酉 かのととり 年の春正月の 庚辰 かのえたつ ついたち 」に 橿原宮 かしはらのみや で即位されたとのことですが、西暦に直すと、紀元前六六〇年の二月十一日に当たります。

祝日としての「紀元節」が始まったのは、明治六(一八七三)年のことです。
その数年前の慶応三(一八六七)年、 岩倉具視 いわくらともみ らが起草して「王政復古の大号令」が発せられました。その中で、神武天皇の建国をモデルとして、明治維新にあたることを宣言しました。

ほかに建国のモデルとして、 天智 てんち 天武 てんむ 期の「大化の改新」、 後醍醐 ごだいご 天皇、 楠木正成 くすのきまさしげ の「 建武 けんむ 中興 ちゅうこう 」を推す意見もあったそうです。

しかし、日本では「初代神武天皇」の時代から「絆」を国づくりの理念としてきたことを、明治維新の大転換期に改めて強く感じたのでしょう。

このように神話は、いざという時に、国民一人一人の心の拠り所となる尊い宝です。