「古事記が示す神道」Ⅱ

日本民族の神話である『古事記』を、引き続きご紹介致しましょう。

黄泉国 よみのくに

伊邪那岐命 いざなぎのみこと 伊邪那美命 いざなみのみこと は、ご一緒に次々と神々をお生みになられていきました。しかし、火の神である 火之迦具土神 ひのかぐつちのかみ が生まれる時、伊邪那美命は、陰部にやけどを負われ、お亡くなりになってしまいました。

伊邪那岐命は、嘆き悲しみ連れ戻そうと、お亡くなりになった伊邪那美命の後を追って黄泉国に行かれました。

しかし、伊邪那美命は、「もう少し早く迎えに来て下されば良かったのに。既に黄泉国の食べ物を食べてこの世界の住人になってしまいました。でも、 折角 せっかく 、迎えに来て下さったのですから、黄泉の神々に相談して参ります。その間、決して私を見ないと約束して下さい」と言い残し、御殿の中に入り、戸をお閉めになりました。

しかし、いつまで待っても戻っていらっしゃいません。伊邪那岐命は待ち切れず、見るなと言われたにも拘らず、御殿の中に入り、「一つ 」を灯しました。

すると、そこで目に飛び込んできたのは、腐敗して うじ にまみれ変わり果てた姿の伊邪那美命だったのです。伊邪那岐命は、驚き恐れて逃げられました。

伊邪那美命としては、一緒に黄泉国を出られるチャンスを無くされた上に、愛しい人に醜い姿を見られて、「よくも私に恥をかかせましたね!」と怒り、追いかけてこられました。

人の生と死の起源

伊邪那岐命は、 黄泉 よもつ 比良坂 ひらさか という黄泉国と 葦原中国 あしはらのなかつくに (地上の世界。特に日本を指す)の境目で、とうとう伊邪那美命に追いつかれてしまいます。伊邪那岐命は、 千引 ちびき いわ と呼ばれる大きな岩で道を ふさ いで、夫婦離別の呪文である 事戸 ことど を述べました。

すると、 伊邪那美命 いざなみのみこと は「 いと しい夫がそのようなことをするのであれば、私はあなたの国の人々を一日に千人締め殺しましょう!」と申し、これに対して 伊邪那岐命 いざなぎのみこと は、「あなたがそうするなら、私は一日に千五百の 産屋 うぶや を建てよう!」と仰せられ、二柱の神は永遠に決別されました。

そして、現世では、一日に千人死に、千五百人が生まれることになり、人間の寿命が決められてしまいました。

ここでポイントは、『古事記』の中で、それまで人そのものの起源については全く語られていないことです。『古事記』では、世界の成り立ちの全てを語るのではなく、あくまで神々の世界とその神につながる天皇陛下の世界を語ってゆくのです。

黄泉 よもつ 比良坂 ひらさか は、今、 出雲國 いずものくに 伊賦夜 いふや さか という』と現実の地名が『古事記』に書かれていますが、黄泉国が何なのかは今も諸説あり、決着がついていません。

三貴子 みはしらのうずのみこ

黄泉国からお帰りになった伊邪那岐命は、「ああ、私は、穢れた国に行ってしまった。 みそぎ をして身を清めなくては」と仰せになり、 竺紫 つくし 日向 ひむか たちばなの 小門 おど 阿波岐原 あわぎはら (所在未詳)にお出ましになり、 禊祓 みそぎはらい をなさいました。

この禊の時にも数多くの神々がお成りになられましたが、最後に、顔をおすすぎになられ、
左の御目をお洗いになった時、
天照大御神 あまてらすおおみかみ (天高く照り給う神。日の神。また皇祖神。女神とされる)が成り出でました。

右の御目をお洗いになった時、
月読命 つきよみのみこと (月の神)が成り出でました。

御鼻をお洗いになった時、
建速須佐之男命 たけはやすさのおのみこと (勇猛迅速、荒々しい男神)が成り出でました。

この時、伊邪那岐命は、大変お喜びになられて、「今までたくさんの子を生んできたが、その終わりに貴い子(三貴子)を得た」と仰せになり、天照大御神に「 高天原 たかまのはら を治めるように」と命じられました。

また、月読命には夜の世界を、建速須佐之男命には、海原を治めるように命じられました。

神宮内宮 正殿

神宮内宮の正宮で祀られる天照大御神は正式には 天照坐皇大御神 あまてらしますすめおおみかみ

みそぎ の文化

日本の歴史上初めて禊が行なわれた記録が、この『古事記』の 伊邪那岐命 いざなぎのみこと の禊です。

古くから水には、浄化作用があると信じられています。日本人は、ほぼ毎日入浴しますが、これは日常的な禊と言えるでしょう。

また、神社の入り口には 手水舎 ちょうずや といって手を洗う場所が必ずありますが、本来なら全身を清めるところを、手と口をすすぐことで、全身を禊したこととしているのです。人を許すことも、「水に流す」と言いますね。

須佐男之命の狼藉

海原を治めるように命じられた 須佐之男命 すさのおのみこと ですが、命令に背き、「亡き母(伊邪那岐命だけから生まれているが、ここでは 伊邪那美命 いざなみのみこと)のこと のこと)のいる黄泉国( 堅州国 かたすくに )に参りたい」と長い間泣きわめいていました。それを聞いた伊邪那岐命はひどく怒られ、須佐男之命を追放してしまわれました。

須佐男之命は、それならば、天照大御神に根の国行きをお伝えしてから行こうと高天原に上られました。

それを見られた天照大御神は、自分の国を奪おうとやって来ると思われ、男装し武装して迎えられました。

須佐男之命は邪心がないことを示すために、 誓約 うけい で、お互いに子を生むことを提案しました。誓約とは、 あらかじ め決めたとおりの結果が現われるかどうかで吉凶を判断する占いの一種です。

はじめに天照大御神が、須佐之男命が帯びている 十拳剣 とつかのつるぎ を手に取って、噛みに噛んで吹き出した息から、
多紀理毘売命 たきりびめのみこと
など三女神が成り出でました。
今度は、須佐之男命が、天照大御神の髪飾りの玉を乞い受け、噛みに噛んで吹き出した息から、
正勝 まさかつ 吾勝 あかつ 勝速 かちはや 日天 ひあめ 之忍 のおし 耳命 みみのみこと (後にこの神の子が天孫降臨されます)などの五男神が成り出でました。

須佐之男命は、自分自身の持ち物である十拳剣から女神が生まれたことから身の潔白が証明されたと勝ちを宣言され、調子に乗って乱暴狼藉を働き始められました。

しかし、そもそも誓約とは、最初に勝負の判定基準を決めてから行なわれるものですが、今回は、何故か、何も約束を決めずに誓約が行なわれました。
だから、須佐之男命の勝利宣言には理由がないのですが、「勝った!勝った!」と大暴れします。

これに対し、天照大御神は、お咎めにならず、かえって弟をおかばいになりました。しかし、悪行は酷くなる一方で、神の布を織らせている機織小屋の屋根に穴をあけ、皮を剥いだ馬を落とし、それに驚いた機織女が事故で亡くなるに至って、天照大御神も、もう黙ってはいらっしゃれず、とうとう あめ 石屋戸 いわやと (高天原にある洞窟の入り口を塞いでいる岩)をお開けになって、引き籠られてしまわれました。

すると、高天原も 葦原中国 あしはらのなかつくに (地上の世界)も暗闇になり、 よろず の災いが起こるようになりました。

天の石屋戸隠れ

困り果てた八百万神 やおよろずのかみ が集まって、相談しました。結局、知恵の神である 思金神 おもいかねのかみ の発案で、祭りが行なわれることになりました。この時、用意されたのが、鏡や八尺勾玉(やさかのまがたま)です。(後に天皇陛下の皇位の印である三種の神器のうちの二つになります)

そして、石屋戸の前で、 天宇受売命 あめのうずめのみこと が、胸や陰部を露わにして踊り始めました。すると神々が 一斉 いっせい に笑いました。外の様子を不思議に思われた天照大御神が石屋戸を少し開けたところを、天手力男神(あめのたぢからおのかみ)が天照大御神の御手を取って外に引き出し申し上げると、高天原と葦原中国は元の様に、やっと明るくなりました。

八岐大蛇退治 やまたのおろち

八百万の神が相談の上、須佐之男命は高天原から追放され、葦原中国の出雲国の 斐伊川 ひいがわ の上流に降りられました。そこに老夫婦がいて、「自分は、 くに かみ (葦原中国の神が あま かみ に対して へりくだ った表現)の 大山津見神 おおやまつみのかみ の子ですが、八つの頭と八つの尾を持つ八俣の大蛇に娘を七人食べられてしまい、あと一人、娘が残っているだけです」と嘆くのを聞き、考えを巡らし退治しました。

その大蛇の尾から、神々しい『 草薙剣 くさなぎのつるぎ 』が出てきたので、須佐之男命は、その草薙剣(三種の神器の一つとなります)を高天原にいらっしゃる天照大御神に献上され、救った 櫛名田比売 くしなだひめ を妻に迎えました。

そして、須佐之男命が、 須賀 すが で新婚のための宮殿をお造りになった時、雲が立ち上りました。そこで、次のお歌をお詠みになりました。
八雲立 やくもた 出雲 いづも 八重垣 やへがき 妻籠 つまご みに 八重 やえ がき 作るその 八重 やえ がき
(八重の雲がわきおこる出雲に、八重の垣根を、妻を らせるために、八重の垣根を作る。その八重の垣根よ)
古事記には、数々の和歌が収録されていますが、この和歌が最初に登場します。また、平安時代に編纂された『 古今和歌集 こきんわかしゅう 』の序文を書いた 紀貫之 きのつらゆき は、この歌を、日本最初の三十一文字であると述べています。

大国主神の国作り

須佐之男命から六世孫(六代あと)に、 大国主神 おおくにぬしのかみ が生まれました。その大国主神は、大勢の兄弟の神々の迫害を受けていました。

稲羽 いなば の白兎』を助けるような優しい人柄を利用され、兄弟神に二度も殺され、母の力で生き返りはしましたが、三度目を逃れて地の底にある根の堅州国に向かわれました。そして、そこを支配していた須佐之男命の娘の須世理毘売(すせりびめ)と惹かれあい、妻に迎えられました。

しかし、須佐之男命は、直ぐにはその結婚を認めず難題を次々に繰り出しますが、最後には、須佐之男命から、その武力や権威を示す 生大刀 いくたち 生弓矢 いくゆみや 、天の 詔琴 ぬこと を貰い、兄弟の神々を退け、国作りを進められました。

大国主神は、人が良くて皆から愛され、高天原の神や周囲の協力を受けて、地方で三人の妻を迎え領土を広げ、国造りを完成させたのでした。

出雲の国譲り

葦原中国の国造りが完成した後、
天照大御神は、須佐之男命との誓約の時に生まれた御自分の御子の
正勝 まさかつ 吾勝 あかつ 勝速 かちはや 日天 ひあめ 之忍 のおし 耳命 みみのみこと に、葦原中国の統治を命じられました。
御子が降りられる前、 建御雷神 たけみかづちのかみ 天鳥船神 あめのとりふねのかみ が、先に葦原中国を整えるために遣わされました。

建御雷神は、大国主神に対し、「我々は天照大御神と 高御産巣日神 たかみむすひのかみ (古事記の冒頭、二番目に登場の特別な神)の命により遣わされた。汝が領有する葦原中国は、天照大御神の御子の治める国であると任命なさった。汝の考えはいかがなものか」と尋ねました。

すると、大国主神は、「私が申し上げるわけにはいきません。我が子の 事代主神 ことしろぬしのかみ 建御名方神 たけみなかたのかみ が申し上げるでしょう」とお答えになりました。

事代主神は国譲りに同意しましたが、もう一人の子、建御名方神は、建御雷神に力競べを挑まれました。しかし、建御雷神は、建御名方神を投げ捨て追い詰めて命を奪おうとしたところ、建御名方神は助命を請い、葦原中国を天つ神の御子に献上致しますと言いました。

また、大国主神も、「私の子供同様に背くつもりはありません。ただ、壮大な宮殿(現在の出雲大社)に私が住み、祭られることをお許し下さい。それが許されるならば、私はこの片隅の国(出雲国)に隠れて留まることに致しましょう」と申し上げました。

建御雷神は高天原に帰り、葦原中国を説得して平定した様子を報告しました。この神話から、激しい戦によってではなく大方話し合いで諸国がまとまり、統一国家となっていった様子が うか がわれます。

出雲大社

出雲大社 はるか昔は想像を絶する巨大神殿だった可能性がある 平成十二年から十三年にかけて出雲大社の境内から巨大な柱が発見された 三本一組となったスギの大木が三箇所で発見された(写真内:境内に掲示されている遺構)

天孫降臨 てんそんこうりん

天照大御神は、太子(皇太子)である正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命に、葦原中国を治めるように仰せになられましたが、太子は、「私が降りる準備をしている間に子供が生まれました。 天邇岐志 あめにきし 国邇岐志 くににきし 天津日高 あまつひこ 日子 ひこ 番能 ほの 邇邇芸命 ににぎのみこと と言います。この子を葦原中国に降ろすべきでしょう」と申し上げました。

そこで、天照大御神は、 邇邇芸命 ににぎのみこと に天降りをお命じになられました。

続きは、「古事記が示す神道 Ⅲ」をご覧ください。