「古事記が示す神道」Ⅰ
やまとことばで書かれた古事記
日本民族の神話である『古事記』をご紹介していきたいと思います。古事記の中には、神道で、全国各地でお祀りされている沢山の神様が登場されます。とても難しい感じが並び、今の私たちにはとても難解に感じます。
宇宙の創造から始まる神話の古事記を読み親しむことは、日本人共通の精神基盤を形成することにつながります。また、何故、神道で、各地の神社で、異なった沢山の神様が、お祀りされているかが、分かります。
昨年二〇一二年に成立千三百年を数える古事記は、現存する日本最古の歴史書です。
古事記は、第四十代の 天武 天皇の思し召しによって、天武一〇年(六八一年)、編纂が始まりました。当時、古くから伝わっていた伝承がいくつかある中で、真実でないものも含まれるようになってきました。
天武天皇が、伝承をよく調べ、正しいと思われるものを選び、後世に伝えよとお命じになられ、 稗田阿礼 に「 誦 み 習 わせ」られたのです。 稗田阿礼 は、一度聞いたり読んだりしたことは、忘れない天才だったと伝えられています。
完成される前に、天武天皇はご 崩御 されましたが、第四十三代の 元明 天皇がご意志を継がれ、その 勅命 (天皇陛下の命令)により、 稗田阿礼 の 暗誦 を 太安万侶 が四カ月かけて 編纂 し、奈良時代の初めの 和銅 五年(七一二年)に完成、 元明 天皇に献上しました。
『 帝 皇 日 継 』(帝王の事績を年代順に 叙述 したもの)『 先代 旧辞 (叙述が整理されていないものを包括的に称した、神話的な物語などを含む)を基礎に、多くの神話、継承を入れ記されていますが、単なる集積でなく、皇室を中心として一つの体系を示しています。
全三巻のうち上巻が、神代の時代の物語、神話であり、中巻が人代の物語、歴史説話、具体的には、初代・ 神武 天皇より 応神 天皇まで。下巻は、 仁徳 天皇より 推古 天皇の時代までです。
『古事記伝』本居宣長自筆稿本 巻1 1785~1788年(天明5~8)国立国会図書館所蔵
江戸時代の国学者・本居宣長自筆の『古事記伝』。既に当時解読不能だった『古事記』を解読した功績は大きい。
序文は 太安万侶 が天子に奏上する形式で書かれ、この序文のみ漢文で気品高い名文と言われています。本文は、当時の日本語の「やまとことば」の発音を漢字で表現したものです。
序文の中に、古事記を書き記すにおいて、苦心した点が次のように挙げられています。
「しかしながら、 上古 においては、言葉もその意味もともに飾り気がなく、どのように文字に書き表したらよいか困難なことがある。すべて訓を用いて記述すると、文字が言わんとするところに届かない場合があり、すべて音を用いて記述すると、長々しくて意味が分かりにくい。そこで、今、ある場合は、一句のなかに音と訓を交えて用い、ある場合は一つの事柄を記すのに、すべて訓を用いて書くこととする。そして、理解しにくい場合は、注をつけて意味を明らかにし・・・」とあり、書として残していく苦心が、身近に感じられます。
古事記と日本書記の違い
では、ここでご紹介するのが何故、日本書記ではなく古事記なのでしょうか?
『日本書記』は、第四十四代の 元正 天皇の養老四年(七二〇年)に四年の歳月をかけて完成されました。
日本書記の 編纂 は国家的な大事業として、対外的な、つまり大陸のシナや朝鮮半島に向けての公式文章(正史=国家としての歴史書)として作られました。そのため、当時の国際語とも言える漢文で書かれています。
資料も、前述の『 帝 皇 日 継 』『 先代 旧辞 』のほか、諸氏族や地方に残る伝承や個人の覚書など合わせて、全三十巻もあり、編集責任者は、 舎人 親王 (六七六―七三五年飛鳥~奈良時代)という皇族です。
歴史的に重んじられてきたのは、日本書記で、朝廷の採用試験とでもいうのでしょうか、テストに用いられ、完成の次の年には勉強会が行なわれたという記録も残っています。
それに反して、古事記は、 万葉 仮 名 を基本とした独自の表記方法で書かれているため、時代を経るにつれて、段々と読み方が分からなくなりました。
江戸時代に、国学者 本居宣長 が古事記の詳しい注釈書を書くまで、世間では、ほとんど知られなくなっていました。
このように、古事記と日本書記は、書かれた目的も、書体も、編集者も違います。ですから、内容も、古事記と日本書記とでは、色々違っています。
例えば日本書記では、 日本 武尊 は、天皇の命を受けて勇ましく戦いに行く皇子として描かれています。
古事記では、 倭建命 と別の名前で表わされ、勇ましく戦いには行かれるのですが、あまりに困難な目的に、途中、「父の天皇は、私なんか死んでしまえと思っていらっしゃるのでしょうか?」と嘆かれます。
『現代語古事記』を書いた 竹田恒泰 氏(旧明治天皇の 玄孫 )は、古事記と日本書記を比べて読むのではなく、古事記のことは古事記の中でだけ読み、日本書記のことは日本書記の中で読む。二書を統合して読もうとすると混乱を招くと、適切な読み方を紹介しています。
日本書記が、シナの文化に対抗して作られた歴史書的性格が強いのに対して、古事記は神話の話に重きを置き、文学性が高いことが特徴です。
神話を否定する歴史学者
二書の記載に違いがあることで、歴史学者の中には、長く神話を否定に捉える風潮があります。
神話の時代は、想像上の物語で事実ではないと否定するために研究する、民族の核となる神話の価値が分からない歴史学者は、研究を行なう資格がないと思いますが、二書を否定的に見る風潮が強いのが実情です。
しかし、先に古事記と日本書記について説明しましたように、二書の目的がそもそも違うのですから、色々な伝承の中で、違う編集者が、どれを採用してどれを採用しなかったか、違う事柄を選別したとしても当然のことです。
古事記の序文も、序文だけ漢文であることなどから後から書かれたのではないかと、 太安万侶 の存在が疑われた時代もありましたが、昭和五十四年(一九七九年)奈良市で、太安万侶のお墓の墓標が発見されたことにより、実在が証明されました。
日本最古の史書「古事記」を編纂した太安万侶の墓は、奈良市の東山山中の田原の里で発見された。
出土した銅製墓誌(右写真)に記された「左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之養老七年十二月十五日乙巳」(居住地、位階と勲等死亡年月日、埋葬年月日など)が伝承と一致。考古学史上の大発見となった。
神話は今も生きている
神社で行なわれるお祭りは、神話の再現と言ってもいいかもしれません。
新嘗祭では、新穀を神前にお供えしますが、これは、天照大御神が 瓊瓊杵尊 に、 斎庭 の稲穂を授けられた場面を再現しているのでしょう。
国際的な現代思想家であるフランスの文化人類学者、故クロード・レヴィ=ストロースは、「私が非常に素晴らしいと思うのは、日本が、最も近代的な面においても、最も遠い過去との絆を継続しつづけていることができるということです。私たち(西欧人)も、自分たちの根があることは知っているのですが、それを取り戻すのが大変難しいのです」と、伊勢の神宮の遷宮をはじめ、神話から現在への継続性を称賛しています。
二、三百年しか歴史がない国、神話と歴史が途絶えてしまった国が、政治的に経済的に強くなったから、ついついその基準で考える癖がついてしまっているのかもしれません。しかし、手を伸ばせば、いつでも、世界で唯一、万世一系の国の基の神話、古事記があり、読むことが出来ることは、本当に有難いことです。
古事記の始まり神々の登場
では、古事記を、前述の 竹田恒泰 氏『現代語古事記』、岩波文庫『古事記』などを中心に参照しながら、ご紹介していきましょう。
『現代語古事記』は、注釈がついているので分かりやすく、岩波文庫『古事記』は、より原文に忠実なので、古事記の雰囲気が何かしら伝わってきます。
古事記の出だしには、難しい神様のお名前が続きます。
別天つ神五柱
天地 初めて 發 けし時、 高天 の原に 成 れる神の名は、
天之御中主神
高御産巣日神
神産巣日神
この三柱の神は、みな 独 神 (男神と女神の両方の性格をお備えの神)と 成 りまして、身を隠したまひき。
次に、国が 稚 く浮きし 脂 の 如 くして、くらげなす漂 へる時、 成 れる神の名は、
宇摩志阿斯訶備比古遅神
天之常立神
この二柱の神もまた、 独 神 と成りまして、身を隠したまひき。
以上の五神を「 別天 つ 神 」という。
古事記で一番最初に現れた神である「天之御中主神」をお祀りする
福島県南相馬市の相馬太田神社
神世七代
次に成れる神の名は、
国之常立神
豊雲野神
この二柱の神もまた、 独 神 と成りまして、身を隠したまひき。次に
宇比地邇神 と 須比智邇神
角杙神 と 活杙神
意富斗能地神 と 大斗乃弁神
於母陀流神 と 阿夜訶志古泥神
伊邪那岐神 と 伊邪那岐神
以上の神々を 神世七代 という。(男女一組の十神は二神を合わせて一代)
このように古事記は、「天地初めて 發 けし時」という書き出しで始まります。どのようにして天地がなったのかには触れることなく、次々に神々が現われます。
はじめに登場されたのは、 天之御中主神 です。
天之御中主神 は、宇宙の根源、もしくは宇宙そのものであり、あらゆる所に満ちていて、そのお姿をとらえることはできません。完全にお隠れになり、目に見えない所から、神々の世界に影響を与え、宇宙を統括する特別な神様なのです。
天之御中主神 を祀る神社としては、福島県南相馬市の 太田 神社、埼玉県秩父市の 秩父 神社、長野県松本市の 四柱 神社、北海道釧路町の釧路神社などがあります。
伊邪那岐命 と 伊邪那美命
次に、天つ神( 高天原 の神々)は、その総意によって、、 伊邪那岐命 と 伊邪那美命 の二柱に、「この 漂 へる国を 修 め 理 り 固 め 成 。」と 沼矛 を 賜 いて、仰せになりました。
二柱は、 天 の 浮橋 からその 沼矛 を海水に下ろしてかき廻され、その矛の先から潮水がしたたり落ちて、塩が固まって 淤能碁呂島 が出来ました。
二神は、その島にお降りになって、大きな御殿を建て、交わりをされました。しかし、 水蛭子 (不具の子)、 淡島 (生み損じの島)を生んだので、その後交わりをやり直して、淡路島、四国、隠岐島、九州、壱岐、対馬、佐渡、大倭豊秋津島(おほやまととよあきづしま)の国土を生み出されました。
これら八つの島を先に生んだので、わが国を 大 八島 国 と言います。
次に、二神は、岩や土、風、河、山、野など司る神々を次々と生み出されました。
このようにして、 神世七代 のうち最後に 成 った伊邪那岐命と伊邪那美命の二神によって、国作りが進められました。
一つ、注目して頂きたいのは、神世七代では、 伊邪那 岐 神 と 伊邪那 美 神 でしたが、国作りの段になると、『 神 』ではなく『 命 』と変わっていることです。
古事記では、神と命を区別しており、神では宗教的、命では人格的な面を強調していると考えられています。
ところで、二神の最初の国生みが、目的に適わないものだったので、何故そうなったのか、高天原に一度お帰りになり、天つ神に指示をお受けになられます。原因を教えて頂くわけです。
それによりますと、建てた御殿の御柱を回って出会った時にされたプロポーズ「あなにやし、えをとこを」(なんと、いとおしい方でしょう)を、女性の 伊邪那 美 命 から、男性の 伊邪那 岐 命 にされたのがいけなかったとのことです。
女性から声をかけたのは縁起が悪いとのことで、地上に帰られた二神は、もう一度、プロポーズをやり直され、今度は、男性の 伊邪那 岐 命 から、「あなにやし、えをとめを」(なんと、いとおしい乙女だろう)とプロポーズし直されました。
上手くいかない時は高天原の神々に指示を仰いだり、女性主導を戒めたり、神話を通して啓示が示されている気がします。
そして、めでたく次々と国生みと神生みを成功されていきます。ところが、伊邪那美命は、神生みの途中でお亡くなりになってしまいます。
続きは、「古事記が示す神道 Ⅱ」をご覧ください。