弥生時代~古墳時代

弥生時代(前四世紀―三世紀頃)に稲作が本格化し、金属器の使用も始まり、社会が形成されました。

共同体の首長が生まれ、その特別な死者への畏敬から 墳丘墓 ふんきゅうぼ が作られるようになりました。古墳時代(三世紀後半―七世紀)には形式化された古墳が作られるようになりました。

『古事記』にある天の 石屋戸 いわやど の神話は祭祀の起源とされており、時代の特徴が見て取れます。

天の石屋戸の神話

天照大御神は 須佐之男命 すさのおのみこと の度重なる 狼藉 ろうぜき に、高天原にある天の石屋戸の洞窟に引き もりされてしまいました。すると高天原は暗闇となり、 よろず の災(わざわ)いが起こるようになりました。

そこで、 わざわ の神は困り果て御出ましを頂くため、祭りを執り行なうことにしました。 鍛冶 かじ 屋を探し鉄製品を作らせ、 伊斯許理度売命 いしこりどめのみこと に命じて鏡を作らせ、 玉祖命 たまのおやのみこと に命じて 八尺 やさか 勾玉 まがたま を作らせました。また祭りに先立ち、鹿の骨を焼き神意を占い、榊に鏡・玉・布を付けた供え物を 太玉命 ふとたまのみこと が取り持ち、 天児屋命 あめのこやねのみこと が祝詞を奏上し神楽を演じて、天照大御神の御出ましをやっと頂き、この世は光を取り戻しました。

鏡・玉・布、鉄製品を祭祀に先立ち準備するのは、五世紀代の祭祀遺跡から推定できる祭祀の構成と共通しています。また鹿の骨を焼き神意を占う 卜骨 ぼっこつ の伝統は、弥生時代中期まで さかのぼ ります。天の石屋戸の神話には、弥生時代から古墳時代における祭祀の複数の要素が組み込まれている可能性が高いと思われます。

鏡の時代

天の石屋戸の神話で作られた鏡と玉が、後に天皇陛下の皇位の御印の「三種の神器」の起源となります。

弥生時代末期に、福岡県、島根県、奈良県、静岡県で多くの鏡が、古墳時代初期には、南中国から渡ってきた 画文帯神獣鏡 がもんたいしんじゅうきょう 三角縁神獣鏡 さんかくえんしんじゅうきょう が奈良県で多く出土しています。

三角縁神獣鏡

三~四世紀の古墳から出土する「三角縁神獣鏡」
神社の御神体にも多い鏡

大和盆地にある 天神山 てんじんやま 古墳(四世紀)では、二十三面もの鏡と、鉄剣、鉄刀、 鉄鏃 やじり 刀子 とうす 、鎌などが出土しています。遺体を埋納した形跡はなく、 隣接の崇神 すじん 天皇陵の遺物のみを埋納したものと考えられています。

鏡の内訳は 方格規矩鏡 ほうかくきくきょう が六面、 内行花文鏡 ないこうかもんきょう が四面、画文帯神獣鏡が四面、 獣形鏡 じゅうけいきょう が四面、 画像鏡 がぞうきょう が二面、三角縁変形神獣鏡が二面、 人物鳥獣文鏡 じんぶつちょうじゅうもんきょう が一面で、実に多彩です。

神社の御神体にも多い鏡は、日本古来の神祭りと密接に結びついていたと考えられます。

祭祀遺跡の出現

古墳時代、古代祭祀の基本的な構成が形作られていきました。

「祭祀遺跡」として典型的な例は、世界遺産でもある 宗像 むなかた ・沖ノ島祭祀遺跡です。日本列島と朝鮮半島との間に位置する沖ノ島は海上の要所で、四世紀後半~九世紀末の約五百年間にわたり多くの祭祀が営まれました。

島全体が信仰の対象である沖ノ島では、古くから厳しく入島を制限されており、自然崇拝に基づく古代祭祀の変遷を示す遺跡がほぼ手つかずの状態で現代まで受け継がれ、海の正倉院ともいわれています。

時代により祭祀の形式は変化し、岩上祭祀、岩陰祭祀、半岩陰・半露天祭祀、露天祭祀という変遷を 辿 たど っています。

奉献遺物も変化し、初期の祭祀では鏡、勾玉、鉄製武器など古墳遺物と同じものを奉献していますが、奈良時代の祭祀では金銅製のミニチュアの容器や紡織具など律令的な奉献品に変わっていきました。

ほかにも、朝鮮製の金銅製馬具類、中国製の 唐三彩 とうさんさい (陶器)、ササン朝ペルシアの 切子 きりこ ガラス わん などがあり、その規模から国家的な祭祀が行なわれていたと考えられます。

出土品は約十万点余あり、すべて国宝に指定されています。

沖ノ島

世界遺産の「宗像・沖ノ島祭祀遺跡」がある沖ノ島は、日本列島と朝鮮半島との間に位置する海上の要所