神道古典―古事記・日本書紀 Ⅱ

『古事記』や『日本書紀』について、先月号に続き、ご紹介致します。神道において、記紀の神代の時代の箇所を丹念に見ていくことは大変重要です。

何故ならば、第一に、古来から日本各地でお祀りされている神々が登場されます。

第二に、記紀は、神道の経典として作られたものではありませんので、様々な解釈が生まれる素地があります。

日本人が、外来の思想である仏教や儒教を取り入れていくことで、神道においても、多くの神官や国学者によって、色々な考え方が出てきました。ですから、その大本の記紀にはどう しる されているのか押さえておく必要があります。

第三には、神話には、科学的な説明に慣れた現代人には疑問が残る箇所もあります。そういう箇所でこそ、客観的な資料を基に行間を考えることが神道の信仰とも言えます。

第四に、繰り返しになりますが、『日本書紀』は、我が国最初の正史ですから、対外国、特に当時の先進国であり大国の唐に配慮した記載が見られます。『古事記』との違いに、古代人の考え方を読み取ることが出来ます。

では以下、記紀の抜粋をご紹介致します。

記紀で神々のお名前の漢字が違う場合がありますが、ここでは、基本的に古事記に準じて記します。

誓約の勝利の理由

三貴子の 天照 あまてらす 大御神 おおみかみ 月読命 つきよみのみこと 建速須佐之男命 たけはやすさのおのみこと が誕生された後、各々、高天原、夜の世界、海原を統治するように命じられますが、須佐之男命は、拒否して追放されてしまいました。そこで、天照大御神に 暇乞 いとまご いのご挨拶をするため高天原に上られました。

天照大御神は、須佐之男命の邪心を疑い、男装し武装して迎えられました。ここで、天照大御神は、全てを見通す全知全能の神として描かれていません。
須佐男之命の心を試すために、 誓約 うけい (占いの一種)が行なわれます。

はじめに天照大御神が、須佐之男命が帯びている 十拳剣 とつかのつるぎ を手に取って、噛みに噛んで吹き出した息から、
三女神が生まれました。次に、須佐之男命が、天照大御神の髪飾りの玉を乞い受け、噛みに噛んで吹き出した息から、 正勝 まさかつ 吾勝 あかつ 勝速 かちはや 日天之 ひあめの 忍穂 おしほ 耳命 みみのみこと (その皇子が後に天孫降臨される)などの五男神が生まれました。

『古事記』では、誓約の結果について特に規定しないまま行ない、須佐之男命を象徴する十拳剣から三女神、荒々しい男神ではなく優しい女神が生まれたことで、須佐之男命は自身の心の優しさが証明されたと勝利宣言されます。

『日本書紀』では、誓約の前に、が「吾が生まむ、 これ 女ならば、濁心有りと 以為 おも ほすべし。 し是男ならば、清心有りと以為ほすべし」と言われ、自分自身の息から男神が生まれたことで正しさが証明されたと勝ちを宣言されています。

お互いの持ち物を交換し合って誓約されたことで、両方の解釈が可能になっています。

日本人には、女性が優しさの象徴という感覚は、すっと心に入ってきたのでしょう。

しかし、逆に、中国やインドでは男尊女卑の思想が強く、対外的には男神誕生での正しさの証明の方が説得力があると考え、記紀で違った理由になったのではないかと言われています。

国境を守る 宗像 むなかた 三女神

ところで、この三女神のお名前は、 多紀理比賣命 たきりびめのみこと 市寸島比賣命 いちきしまひめのみこと 多岐都比賣命 たきつひめのみこと 。宗像三女神と呼ばれ、宗像大社(福岡県宗像市)や厳島神社など多くの社で祀られています。

沖津宮がお祀りされている沖ノ島は、九州と朝鮮半島とを結ぶ玄界灘のほぼ中央にあります。古代の風習のまま、女性はこの島には渡れません。

また、鏡、勾玉、金製の指輪など発見され、約八万点が国宝に指定されました。これらの宝物は国家の繁栄と海上交通の安全を祈るために、神様にお供えされたものです。その中には二千数百年前の品もあり、沖ノ島は「海の正倉院」とも言われています。

朝廷は、神宮と同様に重要視し、宗像大社を手厚く待遇しました。

宗像大社本殿

宗像大社(福岡県)は日本神話に登場する日本最古の神社の一つ

宗像三女伸

宗像大社の御祭神は、天照大神の三女神で、沖津宮、中津宮、辺津宮にそれぞれ祀られ、この三宮を総称して、宗像大社という

須佐之男命の改心

天照大御神との誓約に勝ったと宣言した須佐之男命は、農耕や祭事の妨害といった大罪、古代の大祓詞にも挙げられた天つ罪を犯します。その為、高天原の神々は、話し合い、須佐之男命に、千の机の上に あがな いの品々を出させ、 ひげ や手足の爪を抜いて追放しました。

『日本書紀』三書に、「 素戔嗚尊 すさのおのみこと 千座置戸 ちくらおきと 解徐 はらへ おほ せ、手の爪を ちて 吉爪棄物 よしきらひもの とし、足の爪を以ちて 凶爪棄物 あしきらひもの とす。すなわち 天児屋命 あまのこやねのみこと に、 解除 はらへ 太諄詞 ふとのりと つかさど りて らしむ」

とあります。吉爪棄物は吉を招くことを願って、凶爪棄物は悪を除こうとして差し出す祓具です。祓具は、肉体の一部をとられると自己の健康や生命が相手の意のままに支配されるという信仰に基づいています。

延喜式祝詞「六月 みそか 大祓」に、「 あま つみ) くに つみ (中略) 許許太久 ここだく 罪出 つみい でむ でば あま 宮事以 みやごとも ちて あま 金木 かなぎ 本打 もとう 末打 すえう ちて 千座 ちくら 置座 おきくら に置き足らはして あま 菅麻 すがそ) 本苅 もとか 末苅 すえか 八針 やはり きて あま 祝詞 のりと 太祝詞事 ふとのり れ」とあり、高天原からの追放の際の制裁は、第一回目の大祓だったと解されています。

お祓い後、地上の出雲の国に降りた須佐之男命は、人助けをします。大山津見神の子の国つ神夫婦の娘・ 櫛名田比賣 くしなだひめ 八岐大蛇 やまたのおろち に捕らえられようという時に現われ、適格な計画を立てて退治します。大変身です。

出雲の国譲り

出雲大社

大国主大神を御祭神として祀る 出雲大社 いづもおおやしろ
出雲大社 拝殿 一九六三年に新築された拝殿は、戦後最大の木造神社建築で高さは十二・九m
言い伝えでは古代の社殿は高さ九十八m。平安時代、古代より縮小された社の高さですら四十八mで、東大寺の大仏殿より高かった

大国主神は、『古事記』で 大穴牟遅神 おほなむぢのかみ 葦原色許男神( あしはらしこおの 他、『日本書紀』で 大己貴神 おおなむちのかみ 他、多くのお名前があり、それだけ大きな働きをなされた神様です。天孫降臨に先立ち地上で国作りを完成された出雲の大国主神への、高天原側の対応は記紀で大きな違いがあります。

『古事記』、『日本書紀』一書で、 伊邪那岐命 いざなぎのみこと 伊邪那美命 いざなみのみこと の二神による国作りは伊邪那美命の死により完成せず、大国主神の国作りと国譲りの くだり が詳しく記載されています。

しかし、『日本書紀』本書で、伊邪那美命は亡くならないので、二神により国作りは完成され、大国主神は『古事記』と比べて記載の分量が少ない反面、『古事記』にはない箇所もあります。

大己貴神の 幸魂 さきみた 奇魂 くしみたま

『日本書紀』六書で、 大己貴神 おおなむちのかみ は出雲国に到って、今、この国を治めるのは唯私一人であると言われます。すると、 あや しい光が海を照らし、 忽然 こつぜん と浮かび来て、この国を平らげたのは自分だけの力ではないぞと言いました。大己貴神が誰かと問うと、「 われ これ なんじ の幸魂奇魂なり」と答えが返ってきました。

大己貴神は、ああそうだった、自分一人の力で国作りしたのではなかった、あなたをどこにお祀りしましょうかと問うと、 日本国 やまとのくに 三諸山 みもろのやま に住もうと思うと言われました。これが、今の大神大物主神社(奈良県の三輪山の ふもと に鎮座)と言われています。

『古事記』では、幸魂・奇魂は登場しません。国作りを一緒に行なった 少名毘古那神 すくなびこなのかみ 常世国 とこよの (地上世界でない国)に去られ、大国主神が、私一人になって今後どのように国作りしたらよいかと うれ いて言われると、海を てら して来る神がありました。その神が言われるには、私をちゃんとお祀りするなら、国作りは成し遂げられるだろうと。『古事記』の大国主神は、光る神と同じではありません。後世、『日本書紀』における幸魂・奇魂については解釈が分かれました。中世では、どこから来たのかとの議論があったり、幸魂・奇魂を天つ神の御魂と説く説、大己貴神ご自身の中に光る御魂と説く説などあります。

また、 垂加神道 すいかしんとう (江戸時前期、 山崎闇斎 やまざきあんさい が提唱。儒教・仏教・道教を踏まえ国学が台頭するまで神道界の最大勢力)では、幸魂・奇魂を重要視し、誰もが持っていて、努力によってそれを磨くかどうか、それに生かされていることに気付くかどうかが大切と説きました。

出雲大社教の神語という とな え詞は、「 幸魂奇魂守給幸給 さきみたまくしみたままもりたまひさきはえたまえ 」という言葉です。

記紀で存在感示す出雲

いよいよ天孫降臨の準備開始です。『日本書紀』本書で「 大己貴神 おおなむちのかみ に問ひて のたま はく『 高皇産霊尊 たかみむすひのみこと 皇孫 すめみま くだ し、此の地に 君臨 きみとしたま はむと おもほ す。故、 づ我 二神 ふたりのかみ つかは して、 駈徐 はら 平定 しづ めしむ。 なんじ こころ 如何 いか に。避りまつるべきや いな や』とのたまふ。(中略)(大己貴神)『我が たの めりし子、既に 避去 りまつりぬ。故、吾も避りまつらむ。(後略)』とまをしたまふ。」とあります。大己貴神に二神を遣わし、去るか去らないかと問い、大己貴神は子供が去ったので私も去りますと告げ、すんなり国譲りされます。

『日本書紀』一書では、天照大御神が、二神を出雲に派遣し、大己貴神に「 天神 あまつかみ たてまつ らむや 以不 いな や」と問うと、
吾が児の 事代主 ことしろぬし に尋ねてみますと答え、使者を送って尋ねてみると、天神が求められたのですから たてまつ りますと答えがあり、大己貴神は、子の言葉をもって返事とします。これも素直に従っています。

『日本書紀』二書では、かなり風向きが違っています。

高皇?霊尊が、大己貴神に遣いの二神を向かわせ、国を天神に献上するかどうか、問わせたところ、大己貴神は、「 うたが はくは、汝二神、是 もと ませるには あら じ。故、許すべからず」(ここにきて献上するかどうかと言うなんて失礼ではないか、許さない)と怒ります。その結果を使者が天上界に報告したところ、次に、高皇産霊尊は、大己貴神に対して、あなたが怒った ことわり は分かりますと、最大級の譲歩案を伝えさせます。

①「 れ汝が らす 顕露之事 あらはなること これ みまご 治らすべし。汝は ちて 神事 かくれたること を治らすべし」と顕幽分治を提案します。 あらわ れている世界は、天孫の邇邇芸命(ににぎのみこと)に譲って、これからは、幽界(見えない世界)で神々が荒ぶらないように治めて下さい。
②そうすれば、 天日隅宮 あめのひすみのみや 、つまり高天原にある宮殿と同様の立派な宮殿を建てます。(今の出雲大社です)
③その祭祀を、天照大御神の子の、 天穂日命 あめのほひのみこと が行ないます。( 出雲国造 こくそう の祖神。現在、出雲大社教宮司の 千家尊祐 せんげたかまさ 氏が第八十四代)
④船を造ります。
⑤神田を用意します、他。
それを伺った大己貴神は、心がこもっていて、そこまでおっしゃって下さるのなら従いますと国を譲られます。
更に、高皇産霊尊は、大己貴神に、我が娘の 三穂津姫 みほつひめ と結婚し、八十万神を率いて、 とこしえ 皇孫 すめみま (天皇)をお守りする神となるように伝えられました。

『古事記』では、天照大御神が、遣いの二神より、大国主神に問わせます。「天照大御神・高木神( 高皇産霊神 たかみむすひのかみ )の みこと もち て、問ひに使はせり。汝がうしはける 葦原中国 はしはらのなかつくに は、我が御子の らさむ国と 言依 ことよ さし たま ひき。故、汝が心は、 如何 いか に」と問うと、『日本書紀』一書に似た内容で、息子に答えを求め、その子達の同意をもって国譲りを同意します。

統治を意味する言葉が使い分けされているのにも注目です。大国主神の「うしはける」は力による統治、皇孫が行なわれる「知らす」は徳による統治を表わします。

各々の引用部分を見ると、国譲りの采配を、『日本書紀』本書と二書は、 高皇産霊神 たかみむすひのかみ (古事記の 高皇産霊神 たかみむすひのかみ 、天地が初めて あらわ われた時、二番目に登場された神様)がされ、『日本書紀』一書と古事記では、天照大御神がされています。
ここも、先ほどの 素戔嗚尊 すさのおのみこと の勝利の理由が男神だったように、唐(中国)は男尊女卑なので記載を配慮したのではないかという説が有力です。

ところで、国作りを大国主神と一緒に行なった 少名毘古那神 すくなびこなのかみ は、高皇産霊神(国つ神)のお子様ですし、国作りには、他の国つ神の助力があってなし遂げられましたが、記紀には、出雲の勢力を示す記述が幾つか見られます。

その一つに、第十一代 垂仁 すいにん 天皇が、御子の 本牟智和気御子 ほむちわけのみこ がお話にならないことを心配されていると、夢に、出雲大神(大国主神)が現われ、「私の宮を天皇の宮殿と同じように造ったならば、御子は必ず話せるようになるだろう」と告げられました。御子が出雲に参拝されると、話すことが出来るようになり、お喜びになった垂仁天皇は、大神の宮殿を造らせたとのことです。

近年では、明治時代初頭の神道界再編成において、大国主神の処遇を巡り、伊勢派対出雲派で意見が分かれ祭神論争となりました。

出雲 銅鐸

出雲・島根県の神庭荒谷遺跡
大量の青銅器(国宝)が発見され考古学の常識が覆された