神道古典―古事記・日本書紀 Ⅰ
『古事記』や『日本書紀』は、神々の伝承や日本の国の歴史を記述することが本来の目的であって、神道の経典として作られたものではありません。しかし、古代の神道を知るための記述が多く見られ、神道古典と呼ばれています。
以前お伝えしました様に『古事記』(七一二年完成)は、江戸時代の国学者の 本居宣長 (一七三〇~一八〇一)が、三十五年をかけ研究した成果を、『古事記伝』四十四巻にまとめ世に出し、千百年の眠りから目覚めるまで、解読不能でほとんど顧みられることはありませんでした。本居宣長の出現前後では、神道神学はかなりの変化を遂げました。
一方、『日本書紀』(七二○年完成)は、神代より持統天皇の代まで書かれた日本最初の公史で、大国の唐を意識して漢文で書かれ、漢字表記ほか内容も古事記とは違う部分が多くみられます。
細部の差異の比較考察を目的とはしませんが、違いで重要な部分を中心に今回はお話を進めましょう。
日本書紀の本書と一書
『日本書紀』の神代巻には、「本書」(本文のようなもの)と、「一書」(別伝)とがあります。本書と一書が同居する複雑な構造で、一書の数も付記される箇所で異なります。
日本書紀 巻1 神代上 著者(舎人親王ほか) 慶長4年(1599年)刊
国立国会図書館デジタルコレクション
古事記と日本書紀の一書にあり、日本書紀の本書にないという箇所もあります。
このようになった理由として、二書ともに朝廷が関わった国家的なものでありますが、編集者が違うことがまず挙げられます。日本書紀の編集過程で、日本人になら感性的に違和感なく受け入れられる記述も、民族の違う中国大陸の人間には理解は無理だろうと、唐をよく知る渡来人たちの忠告があったのではないか、たぶん遣唐使は、日本書紀の本書のみを唐に持って行ったのではないかと言われています。
伝承の記録の保持と、国益とのバランスに努めた先人の努力がひしひしと伝わってきます。
天地創造
冒頭の部分、『古事記』は、
「 天地 初めて 發 けし時、高天の原に成れる神の名は、 天之御中主神 。次に、 高御産巣日神 。次に 神産巣日神 。」と造化三神の御名前が上がっています。
『日本書紀』本書では、
「 古 に 天地 未 だ 剖 れず、 陰陽 分 れず、 混沌 にして 鶏子 の如く、 溟涬 にして 牙 を 含 めり。」と始まり、初めから天地が成っていた古事記と異なります。そして、最初に現われた神として、 国常立尊 が登場されます。
なお、『日本書紀』一書の始まりは、
「一書に曰く、天地初めて 判 れしときに、 一物虚中 に在り。」です。
天照大御神のご生誕
古事記では、 伊邪那岐命 と 伊邪那美命 の神生みの途中で、伊邪那美命が亡くなり 黄泉 の国に行かれ、伊邪那岐命も黄泉の国に後を追って帰ってから黄泉の 穢 れを 禊 され、三貴神(天照大御神、月読神、須佐之男命)が誕生されます。
『日本書紀』の一書は、少しずつ違いがある複数の説があるものの 概 ね 伊弉冉尊 が亡くなり、古事記と似た内容になっています。
しかし、『日本書紀』本書は、 伊弉諾尊 と 伊弉冉尊 がお二人で国生みを完成させ、伊弉冉尊が亡くなったという記載はありません。当然黄泉の国についての記載もなく、三貴神は 伊弉諾尊 と 伊弉冉尊 から誕生されています。
禊により、 清々 しく新しく生まれるという記述をリアルに感じますが、
天照大御神は、日の大神であり皇祖神で、神話の中心的な貴いお方ですから、唐人に誤解を与えないようにと慎重に考えられたようです。
ところで、『日本書紀』一書では、古事記より 伊弉冉尊 が亡くなった時のことを詳しく説明しています。
「一書に 曰 く、伊弉冉尊、火神を生みたまふ時に、 灼 かれて 神 退去 ります。故、紀伊国の熊野の有馬村に 葬 りまつる。 土俗 、此の神の 魂 を祭るには、花の時には亦(また)花を 以 ちて祭る。又 鼓 ・ 吹 ・ 幡旗 を 用 ちて、 歌舞 ひて祭る。」この箇所は、日本で、仏教が入ってくる前に、既に御霊をお祀りする行事が行なわれていたことを示すものとして有名です。
国生みが終わった後については、
『古事記』では、
「この 伊邪那岐大神 は、 淡海 の多賀に 坐 す。」
と、大事業を成し遂げられた後にしてはあっさり記述が終わっています。
『日本書紀』本書では、
「伊弉諾尊、 神功既 に 畢 へ、 霊運 り 還 りましなむとしたまふ。 是 を 以 ちて 幽宮 を 淡路 の 洲 に 構 り、 静寂 に 長 に隠れましき。亦曰く、伊弉諾尊、 功 既に至れり、 徳 も大きにませり。 是 に天に登り 報命 したまふ。仍(よ)りて 日之少宮 に 留 り 宅 みたまふといふ。」
とあり、伊弉諾尊は、全ての仕事を終えられ、日の少宮に 留 まられたとあります。
この「 日之少宮 」については、少し補足しますと(文献により表記が異なります)、
「 泉津平坂 の坂路を越えて 日少宮 に到り 賜 へと宣奉る」(卜部兼見『唯一神道葬祭次第』『神霊祭祝詞』)
にあるように、 現 し世と黄泉の国との境にある泉津平坂を超えて、神霊を宿している日の若宮でどうか見守って下さいと、亡くなった祖先のお祀りをするように、亡くなれば、天の神様のいらっしゃるこの「日の少宮」に行くという考えがあります。
また、『 倭姫命世記 )』(倭姫命が、神宮を伊勢の五十鈴川のほとりに鎮座されたと伝えられる)では、
「 皇天 の 厳 しき 命 を 承 けて、 日小宮 の 宝基 を移したてまつり、伊勢両宮を造りたてまつる」
と、神宮の由来を、天にある日小宮そのものを下したと伝えています。
天の石屋戸隠れ
天照大御神 、日の大神様がお隠れになってしまうという一大事の際にも、違いを見せています。
『古事記』は、「天照大御神、 見畏 み・・・」とあります。
天照大御神は、お隠れになる前に、 須佐之男命 の度重なる 狼藉 を 庇 っておられます。そのため、 見畏 み…は、この狼藉を納め切れなかったご自分を振り返り、又、驚いてと解釈されます。ここで、日本人なら、大御神の母ような、須佐之男命が自分で悪いことは悪いと気付くのを待つお気持ちはすんなり入ってくるのですが、『日本書紀』本書では、「 慍 りて…」です。怒って入られたわけです。
また特徴的な記述として、『古事記』では、お隠れになった後、
「高天原皆暗く、 葦原中国悉 く 闇 し。…万の神の声は、 狭蠅 なす満ち、万の 妖 は、悉く 発 りき。」とあります。
お隠れになり、天地に光がなくなっただけでなく、万の悪い神々が出てきて、万の禍が起こった。つまり、天照大御神は、天上界に居ながらにして、天上界と共に地上界の治安も司っていたことが、天孫降臨の前に示されています。『日本書紀』では、『古事記』ほど、起きた禍について詳しい記述はありません。
三大神勅
次に、『日本書紀』一書に示されている 三大神勅 についてご紹介しましょう。
天照大御神が、天孫降臨で、 瓊瓊杵尊 が地上に降りる際に授けたとされる三つの神勅(お言いつけ)は、三大神勅と言われ、日本神話の理念を集約するメッセージとして重んじられてきました。 天壌無窮 の神勅、 宝鏡奉斎 の神勅、 斎庭 の稲穂の神勅です。
天壌無窮の神勅
「 豊葦原千五百秋瑞穂国 は、わが 子孫 の 王 たるべき地なり。 爾皇孫就 きて 治 らせ。さきくませ。 宝祚 の 隆 えまさんこと、まさに 天壌 とともに 窮 り無けむ」
(葦が生い茂り、永遠に穀物が豊かにみのる国=日本国は、わが子孫が君主として治めるべき国土です。行って、治めなさい。皇室の繁栄は、天地とともに永遠に続き、窮まることがないでしょう)
この神勅には、天照大御神の子孫が永遠に君臨すべき大原則が、神代の初めから大御神によって定められているという信仰が示されています。
宝鏡奉斎の神勅
「 吾 が児、この宝鏡を 視 まさむこと、まさに 吾 を視るがごとくすべし。 与 に床を同じくし殿を共にして 斎 いの鏡となすべし」
(わが子孫よ、この鏡を私と思いなさい。この鏡を皇居に祀り、み鏡の祭りを受け継いでいきなさい)
この神勅には、「み鏡の祭り主として、天下泰平と五穀豊穣を祈り続けていきなさい」という大御神の思し召しが示されています。伊勢の神宮や皇居の 賢所 における「み鏡の祭り」の根源とされる神勅です。
斎庭の稲穂の神勅
「吾が高天原に 御 しめす斎庭の穂を以て、また吾が児に 御 せまつるべし」
(私が高天原で育てた神聖な田んぼの稲穂を、わが子孫に授けましょう)
ここには、我が国の稲作りが、天上の天照大御神の稲穂に由来するという信仰が示されています。水穂の国としてのわが国の起こりを伝える神勅です。稲作りがいかに国作りの礎だったか伝わってきます。
これらの神勅は、日本の歴代天皇が、神代以来の天照大御神の正統であることを伝えています。
三種の神器
合わせて同じく天照大御神の正統であることを示すものとして、ご存知のように「三種の神器」、 八咫鏡 、 八坂瓊 の 曲玉 、 草薙剣 があります。この起源も神話にさかのぼります。
八咫鏡、八坂瓊の曲玉は、天の石屋戸の物語に登場します。
天照大御神が、 須佐之男命 ( 素戔嗚尊 )の 傍若無人 な振る舞いを見て、天の石屋戸に 籠 ってしまわれた時に、大御神のお出ましを頂く祭りの祭具として作られました。
また、草薙剣は、須佐之男命が出雲の地で 八岐大蛇 を倒した時、その尾から現われました。あまりにも霊威溢れる剣だったので、須佐之男命は、それを天上の天照大御神に献上しました。
天照大御神は、 瓊瓊杵尊 が、天孫降臨される際、この三種の神器を、皇位のしるしとして授けたのです。
八咫鑑は、「 宝鏡奉斎 の神勅」の鑑で、天照大御神が代々お祀りすることを命じられ、第十代の 崇神 天皇の時代に皇居から出られ、第十一代の 垂仁 天皇の時代に、伊勢の神宮に祀られました。また、そのご分身は、皇居の賢所(かしこどころ)にお祀りされています。
草薙剣 は、 熱田 神宮(愛知県名古屋市)にお祭りされ、そのご分身は、八坂瓊の曲玉のご本体そのものと共に、皇居にある 剣璽 の間に奉安されています。
熱田神宮鎮座千九百年
平成二十五年(二〇一三年)五月八日には、創祀千九百年大祭が催行されました。
熱田神宮の本殿前
草薙剣を持たずに出かけられた日本武尊が亡くなると妃の宮簀媛命は熱田に社地を定め、剣を奉斎鎮守した
第十二代 景行 天皇の時代、 日本武尊 ( 倭武命 )が東国平定の帰路に尾張へ滞在した際に、尾張国造の 乎止与命 の娘・ 宮簀媛命 と結婚し、草薙剣を妃の手許へ留め置きました。
草薙剣を持たずに出かけられた日本武尊が伊勢国 能褒野 で亡くなると、妃の宮簀媛命は熱田に社地を定め、剣を奉斎鎮守したのが始まりと言われています。
草薙剣について、記紀(古事記と日本書紀)では、天孫降臨のあと、伊勢の神宮に奉仕されていた伯母の倭姫命から授けられたとあります。いつの間にか、宮中から神宮に伝えられていることになっており、あまり詳細な記述はありません。
古事記の中つ巻(初代・神武天皇~第十五代・応神天皇)において、倭武命が、 伊服岐山 の神に悩まされ、伊勢国 能褒野 で大和国を偲び、「 倭 は国のまほろばたたなづく 青垣 山隠 れる 倭 しうるはし」(大和は最も優れた国である。畳み重ねたように、国の周囲をめぐる、青々とした垣根のような山々の内に 籠 っている。大和は美しい)、危篤の際に「 嬢子 の 床 の 辺 に我が置きし剣の大刀その大刀はや」(妻の床のかたわらに、私が置いてきた剣の太刀よ)と詠まれた歌など多くの歌を残され、亡くなった後、倭建命の霊は亡骸を抜け出し、大きな白い千鳥の姿になって、天を駆けていったとのことです。なお、倭建命に対して、天皇と同格と言ってよい表記表現がされています。
その皇子は、第十四代 仲哀 天皇です。
結びに、本居宣長が、前述の『古事記伝』序文で、本の目的とした言葉を紹介致します。
「(当時は江戸時代) 唐心 の禍がある。中国崇拝が過ぎ、愛国心を失くしている。日本人に大和心を取り戻したい」と。宣長の情熱が伝わってきます。