神道古典―風土記・万葉集

引き続き、日本の古代の人々の信仰や神道について、ご紹介致しましょう。古代の神道には守るべき 戒律 かいりつ や教えを明文化した書物はありません。しかし、色々な別の目的で書かれた記録の中に、神道を知ることが出来る記述が残されており、これらは『神道古典』と呼ばれています。

『古事記』『日本書紀』や、『 風土記 ふどき 』『万葉集』『 五国史 ごこくし 』(『 しょく 日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』、『日本書紀』に続く一連の正史=朝廷の記録)、『 古語拾遺 こごしゅうい 』(平安時代)などで、およそ平安時代初期までに書かれた書物で、仏教や儒教の影響が少ない古代の信仰を読み取ることが出来ます。

風土記 ふどき

「ふうどき」ではなく、「ふどき」と呼びます。これは、後世にそう呼ばれるようになりました。

七一三年(和銅六)五月二日に、朝廷から、日本全国へ、その土地で産出される鉱物、動植物、山川などの名所の由来、古い伝説などを記録して報告するようにとの命令が出されました。

『古事記』もその前年に作られ、朝廷は、七一〇年、平城京に 遷都 せんと し、 律令国家 りつりょうこっか を確立しようとしており、国の歴史(記紀)と共に、地方の歴史も残そうとしたのです。

朝廷の命令は、現在の知事に当たる国司に伝えられ、その地方の官人(役人)が作成したと考えられます。

おそらく、書物は役所に保存されていたと思われますが、次第に失なわれてしまい、現在残る風土記は、『出雲国風土記』(島根県)、『播磨国(はりまのくに)風土記』(兵庫県)、『 肥前国 ひぜんのくに 風土記』(佐賀・長崎県)、『 常陸国 ひたちのくに 風土記』(茨城県)、『 豊後国 ぶんごのくに 風土記』(大分県)の五つで、『出雲国風土記』のみ完本、他は一部が残っているのみです。

しかし、他の残っていない風土記も、他の書物に引用されて(風土記逸文という)残っているものがあります。逸文として、摂津、伊勢、尾張、駿河、相模、陸奥、越の国、丹後、 伯耆 ほうき 、美作、備中、備後、淡路、阿波、伊予、土佐、筑紫、筑前、筑後、日向、大隅、壱岐など。日本は本当に長い歴史がある国と分かります。

常陸国 ひたちのくに 風土記』

『常陸国風土記』に、恵みをもたらす神ではなく たた る神をお祀りして神社を創始する有名な 伝承 でんしょう があります。

夜刀 やつ の神( へび

昔、 石村 いはれ 玉穂 たまほ の宮(継体天皇、六世紀前半)のころ、 箭括 やはず 麻多智 またち という人がいて、郡家(今の玉造町南部)より西の谷の葦原というところを 開墾 かいこん して、新田を開いた。しかし、その時、 夜刀 やつ の神たちが群れをなして現われ、左右に立ちふさがったので、田を耕すことができなかった。

(俗に、蛇のことを夜刀の神という。身の形は蛇であるが、頭に角がある。災ひを免れようとして逃げるときに、もしふり向いてその神の姿を見ようものなら、家は滅ぼされ、子孫は絶える。普段は郡家の傍らの野に群れかたまって住んでいる)

常陸国風土記 国会図書館デジタルコレクション

『常陸国風土記』 写本 天保10 [1839] 国会図書館デジタルコレクション

そこで、麻多智は、 よろい を着け ほこ り、立ち向かった。山の入り口の境の堀に しるし の杖を立て、
「ここより上の山を神の住みかとし、下の里を人の作れる田となすべく、今日から私は 神司 かむづかさ となって、子孫の代まで神を敬い、お祭り申し上げますので、どうか たた ったり うら んだりのなきよう」

と夜刀の神に申し上げて、 やしろ を設けて、最初の祭を行なった。そして、十町あまりが開墾された。

以来、麻多智の子孫は、代々この祭を絶やすことなく引き継ぎ、今(奈良時代初期)に至っているという。以上のように、神の祟りによって地域に災害が起こると信じ、地域の人々は共同で、毎年神祭りを行なう例は多くあります。

浦島太郎の伝承

浦島太郎のお話も、もともとは『 丹後国風土記逸文 たんごのくにふどきいつぶん 』からです。

この逸文では、 筒川島子 つつかわのしまこ という青年が、浜辺でいじめられている亀を助けたところ、その亀が女性に変身して、天宙に浮かんでいる「 蓬莱島 ほうらいじま 」という所へ島子をいざない、楽しい時を過ごすという話となっています。

海亀

『丹後国風土記逸文』 亀に連れられて竜宮城に行った浦島太郎伝説の起源となるお話が載っている

古語拾遺 こごしゅうい

古語拾遺 こごしゅうい 』は、平安時代初期の八〇七年(大同二)に 斎部広成 いんべのひろなり によって 編纂 へんさん されました。

斎部氏は、中臣氏、猿女君などと共に、共に天照大御神が天の岩戸にお隠れになった際、お出ましになって頂くためのお祭りで重要な役割を担った神々の子孫と言われています。

この『古語拾遺』には、神事に関して斎部家伝来の記録が多々記載され、例えば、前述の天照大御神がお出ましになり、世界中が再び明るさを取り戻した時、神々が大喜びして、
「あはれあな 面白 おもしろ あな楽しあなさやけおけ」と叫んで歌い舞ったという、『古事記』や『日本書紀』にもない記述があります。

代々朝廷の祭祀に奉仕してきた斎部氏の、神事に関する家伝的内容は資料的な価値があり、今日まで伝えられました。

又、この本の目的は、当時、 中臣 なかとみ (藤原)氏の力が朝廷で次第に強くなり、神代から朝廷での神事を中臣氏と一緒に仕えてきた斎部氏や 猿女君 さるめのきみ など中臣氏以外の一族が排除されつつある状況に異議を唱えるためのものでした。中臣氏の勢力拡大は神事においても多くの影響があったと推測されます。

尾張の国、熱田社(熱田神宮)や神宮がないがしろにされている、神事において主要な役職に中臣氏のみ任命されつつある状況を十一箇条に簡潔にまとめた作者の主張は、千三百年以上前のことながら、神事も人が行なうことで、当時の人の感情がリアルに伝わってくる文献です。

『万葉集』

『万葉集』は、日本最古の和歌集です。仁徳天皇の妃である 磐之媛 いわのひめ の歌から、奈良時代中期の七五九年(太平宝宇治三)の 大伴家持 おおとものやかもち の歌まで、約四千五百種が 掲載 けいさい されています。

編者は不明ですが、古代の本で、天皇から東国の名も知れぬ 防人 さきもり に至るまで、男女や年齢、社会的階層を問わず一冊の本に選出されていることは、日本にしか見られないことではないかと思われます。

日本が他の国と比べて、昔より、文化的水準が高く、民主的であった証拠として誇れるものです。

神道は「 言挙 ことあ げせぬ(言葉に出していちいち言わない)」が特徴ですが、これについて、國學院大學の『万葉神事語辞典』の解説を引用紹介致します。

【言挙げ】

神の意志に背いて特別に取り立てて述べること。言挙げに誤りがあると、命を失うことにもなるので、タブーとして つつ まれていた。

万葉集には「千万の軍なりとも言挙げせず取りて来ぬべき男とぞ思ふ」(6-972)のように、千万の敵だとしても言挙げをせずに退治するのだという。また「秋津島大和の国は神からと言挙げせぬ国然れども我は言挙げす」(13-3250)のように、我が国は言挙げをしない国だが、恋の苦しさのためにその思いを特別に述べるのだという。同じ歌に「 葦原 あしはら 瑞穂 みずほ の国は かむ ながら言挙げせぬ国 しか れども言挙げぞ我がする」(13-3253)ともある。

「言挙げ」というのは、個人が個人の意志を明白にする態度であるに違いなく、それを慎むというのは、それが神の態度を越えるからであろう。言挙げをするのは、神のみに許された行為なのである。神の意志を受けて行動するのが古代日本人の態度であり、言挙げは神の意志を越えたり、神の意志に背くことになるのである。古事記でヤマトタケルの命がイブキ山の神の出現に対して、それを神の使いだと見誤り素手でやっつけてやろうと言挙げをしたことにより命を落とす結果となった。

個人の自己主張は慎むべきであり、個人の主張は神により承認された言葉において可能であったのである。そうした神の意志は、個人を越えて国のあり方におよぶものであるゆえに、言挙げは慎むべきものであったのである。<辰巳正明>
言挙 ことあ げせぬ」は、分を越えた行ないを む、
神への日本人の おそ れや謙虚さを感じる言葉です。

和歌と神道

天皇が 編纂 へんさん を命じた最初の和歌集( 勅撰集 ちょくせんしゅう )である『古今和歌集』に、編者の 紀貫之 きのつらゆき は、序文に「和歌には、目に見えない神をも感動させる力がある」と書いています。

須佐之男命が新婚の宮を建てた時に詠んだ「 八雲 やくも 立つ出雲八重垣 妻籠 つまご みに八重垣作るその八重垣を」が、古事記に記載されており、和歌は神様が詠み始めて人の世に受け継がれたという認識がもたれるようになり、神道を知るためには和歌を学んで作ることが必要だと考えられていきました。

皇室でも和歌を大切にされているように、神道でも和歌は、大きな意味を持っています。

江戸時代の国学者、 賀茂真淵 かものまぶち は、『万葉集』の研究を進め、古代人の飾らない精神を見出し、そこに「 自然 おのずから の道」すなわち「神の道」があると主張しました。

『万葉集』で最も有名な歌人の一人である 柿本人麻呂 かきのもとひとまろ は、後年、歌の神様として信仰されるようになりました。 播磨 はりま 国(兵庫県)や 石見 いわみ 国(島根県)の柿本神社をはじめ各地で祀られています。

国土観

『古事記』や『日本書紀』によれば、 伊邪那岐命 いざなぎのみこと 伊耶那美命 いざなみのみこと の二柱の神様によって生み出されたとされています。

『出雲国風土記』には、神様が出雲の国が小さいのを見て大きくしようと、周囲の国々の余分な土地を切り取り、「クニコ、クニコ」(国よ来い来い)と言って引っ張ってきたという国引き伝承があります。

出雲国風土記

『出雲國風土記』 写本 [江戸中期] 国会図書館デジタルコレクションより

また、祈年祭祝詞(五穀豊穣を祈る)には、「 き国は広く、 さがし き国は たいら けく、遠き国は 八十綱打挂 やそつなうちかけ て引き寄する事の如く」と、
神様が小さな国は広く、山がちな国は平らに、遠い国は綱で引き寄せてくれたという表現が見られます。

丹後国風土記逸文 たんごのくにふどきいつぶん 』では、 伊射奈芸命 いざなぎのみこと が天に通うためのハシゴを作り、それが倒れたものが、今の天橋立と伝えています。

国土は、神様が作って下さった神聖なものという気持ちは、これらの記述から、古代人には強固なものだったと推察されます。

神婚

神様と人と結婚は、 神婚 しんこん と呼ばれ、世界の神話の中に多くみられます。

『日本書紀』では、三輪山の神様が、 倭迹迹日百襲姫命 やまとととひももそひめのみこと もと に通ったとあります。風土記にも、『山城国風土記』の京都の賀茂社の起源伝承や、『常陸国風土記』の、 晡時臥山 くれふしのやま 伝承のように、男神が女性と結婚して子供を作るという伝承がいくつか見られます。賀茂社では、生まれた子供は天に昇り、上賀茂神社のご祭神の、 賀茂別雷神 かもわけいかずちのかみ として祀られます。

言霊の幸わう国

『万葉集』で、 山上憶良 やまのうえのおくら が、「 神代 かみよ より らくそらみつ 大和 やまと くに 皇神 すめかみ いつく しき国 言霊 ことたま さき はふ国と語り継ぎ言ひ継がひけり・・・」と詠んでいます。

古代人は、人が発する言葉に霊力が宿ると考えていたようです。

祝詞(のりと)は、ただ祈願を言葉で述べるということに とど まらず、実現して欲しい、実現させるのだという強い信念を込めて奏上されたものだったのでしょう。

このように、言葉には霊力があると考えられたものとして、「 誓約 うけい 」があります。

古代の占いの一つで、あらかじめ定めた二つの事柄のどちらが起こるかによって,吉凶や正邪、また事の成否などを判断するものです。

師岡熊野神社

横浜市にある師岡熊野神社:お粥を用いた年占いの神事、 筒粥神事 つつがゆしんじい は、天暦三年(九四九)より絶えることなく続けられ、平成4年で「一〇七三回」を数える熊野信仰の神社で、社紋は 八咫烏 やたがらず

祈願

先の山上憶良が、子供が病気になった時、「 白妙 しろたへ のたすきをかけてまそ鏡手に取り持ちて あま つ神仰ぎ乞ひ くに 神伏 して ぬか つき・・・」と、神々に祈りました。

科学の発達していない古代においては、病気の理由も分からず、祈りの真剣さは、現代の比ではなかったかもしれません。