縄文時代の祭祀

近年地震が多く、南海トラフ巨大地震が取り沙汰されています。日本列島下には四つの海のプレートが潜り込んでいて世界でも大変珍しい地勢です。古来より日本人は豊かな自然の恵みを頂くと共に、荒ぶる大地の鼓動も感じて生きてきました。

皇学館大学名誉教授、白山芳太郎氏著『神社の成立と展開』から日本各地の伝承を紐解き、太古からの信仰についてご紹介致します。

巨大な祭祀遺跡

氷河期が終わり、約一万五千年前に縄文時代が始まりました。

世界的には狩猟採取生活の時代に土器は発明されておらず、縄文式土器のように煮物用の土器を既に使っていた狩猟採取生活は日本にしか見当たりません。

縄文時代の遺跡からは竪穴式住居のほか、祭祀のための建造物を支えていただろう大型堀立柱群が出土しています。

青森県の 三内丸山 さんないまるやま 遺跡(六千年前~四千年前の定住遺跡)の中心には祭祀遺跡があり、直径二m、深さ二m、間隔四・二mの六本柱の柱穴が出土しており、柱からの推測では今の七階建てに相当する建造物でした。

石川県の真脇遺跡

石川県の真脇遺跡 印象的な環状木柱列
祭祀がいとなまれていたと考えられている

また、石川県の 真脇 まわき 遺跡(六千年前~二千年前の定住遺跡)では、十本柱の建造物があり祭祀が いとな まれていたようです。ほかに真脇では、イルカの骨が縄文各期の層から縄文式土器と共に出土しています。

イルカを食料としながら、イルカを祀る風習があったのではないかと推測されています。

これらの遺跡は、「縄文時代は定住せず、弥生時代になってから定住した」という以前の常識を くつがえ しました。

天の浮橋が天橋立に

空にかかる あめ 浮橋 うきはし にお立ちになり、国生みの最初の島、オノゴロ島を作られました。

丹後国風土記 たんごのくにふどき 』(今の京都府北部、八世紀)の記載によると、「天橋立(京都府)は、伊邪那岐命が居眠りをした途端、バタンと倒れて今のようになった」とあります。

天橋立のある「宮津」は宮津湾に面した地、先の三内丸山遺跡は陸奥湾に、真脇遺跡は真脇湾に面して似た地形です。宮津にも宮(祭祀施設)があったのかもしれません。

その後、天に届くような祭祀建造物の時代から、楼閣のない祭祀へ移行していきますが、縄文の高層建造物の記憶が、丹後国風土記のような伝承につながっていったのかもしれません。

天橋立(京都府)

天橋立(京都府)

ウッド・サークルと御柱祭

伊邪那岐命と伊邪那美命は、オノゴロ島を拠点に、「 天御柱 あめのみはしら 」を回って、次々と島生みをされていきますが、日本各地から出土しているストーン・サークル( 環状列石 かんじょうれっせき )も祭祀用のものであったろうと考えられます。ストーン・サークルは縄文時代後半のものが多く、先の真脇遺跡では石ではなく木を並べています。

長野県の諏訪大社「御柱祭」

長野県の諏訪大社「御柱祭」
七年に1度、山のもみの木を切り出し、上社と下社に八本ずつの御柱を建て替える勇壮な祭り

長野県の 諏訪大社 すわたいしゃ では「 御柱祭 おんばしらさい 」という四本の大柱を立てる神事があります。

縄文のウッド・サークルを立てる神事が今に伝わったものと考えられます。

他の地域では稲作が伝わり、「稲作祭祀」へ移行したのに対し、寒い諏訪では寒さに強い品種の稲が開発されるまで稲作が行なわれず、稲作以前の祭祀が残ったのです。

また諏訪大社の「 御頭祭 おんとうさい 」では、鹿の頭を神饌として備えます。稲作祭祀を見慣れた目にはショッキングですが、狩猟採取時代の祭祀を伝えているのでしょう。

特別な柱というと伊勢の神宮の 正殿 しょうでん の床下に立てる柱を「 しん 御柱 みはしら 」と呼びます。旧正殿更地でも、心の御柱だけは残されています。