縄文と弥生の共生

古代の巨大な祭祀施設として出雲大社も挙げられます。

出雲大社の高層神殿

平成十二年から十三年に境内から、三本一組となった杉の大木が三カ所で発見されました。それぞれの木は直径が一・四mほどで、三本くくると直径約三mにもなりました。古代の出雲大社は高さ九十六mとも推定されています。

古事記の伝承では、 大國主神 おおくにぬしのかみ が、天照大御神の命を受けた 建御雷神 たけみかづちのかみ から「国を譲ってほしい」と交渉されると、「立派な宮殿を つく ってほしい。それができればそこに静かに鎮まる」と了承したとあります。

出雲の国 稲佐の浜

稲佐の浜
出雲大社の西方1kmにある海岸で、国譲り、国引きの神話で知られている

出雲大社だけでなくその付近からは 銅鐸 どうたく や銅剣、 銅戈 どうか といった遺物も発掘されています。

弥生時代に作られたと推測できるものも多く、そのような重要な場所となった背景には、出雲が重要な港湾として海上交通の拠点であった可能性が挙げられます。

伊勢の神宮は、第十一代 垂仁 すいにん 天皇の 皇女倭姫命 やまとひめのみこと が造営されましたが、古来高さ十二・五m、高層神殿とは明らかに違う文化と考えられます。

稲作の広がり

稲作の起源は中国の長江流域、長江下流の 河姆渡 かぼと 遺跡からは約七千年前の炭化米や稲作に使われたと思われる道具が出土しています。

日本には縄文前期の紀元前四千年に伝わりましたが、水田遺跡は見つかっておらず畑作だったとみられています。

水田稲作は紀元前十世紀に始まり、九州全域~近畿には紀元前十世紀~紀元前三世紀に広がりました。

『史記』に、 始皇帝 しこうてい 徐福 じょふく に命じて不老不死の薬を手に入れようとしたという、徐福伝説の元となる記事がみられます。三千人の男女と多くの技術者を従え日本に渡り、秦には戻らなかったとされています。

紀元前二一九年、日本列島の多くで縄文時代を終え弥生時代を迎えていた頃です。徐福らが新しい生活様式を持ち込んだことで稲作が広がったと考察されています。

始皇帝の兵馬俑

秦の始皇帝陵にある兵馬俑
不老不死の薬を徐福に命じて探させた

神宮と高床式建築

神宮の内宮下宮の正殿

神宮の内宮下宮の正殿は、弥生時代の高床式建物の面影を残し棟持柱が特徴

弥生時代の「 高床式 たかゆかしき 建物」は、建物の棟、長い方向に対して直角な側面( つま )の中央に、「 棟持柱 むなもちばしら (棟を持ち上げる柱)」のある建築で、今日みられる神社建築では、伊勢の神宮、それを移築した熱田神宮、仁科神明宮などにみられます。

建築技術が進歩した後の一般の神社では、柱を土中に埋めず礎石の上に立てる技法になったため、棟持柱はありません。神社建築の中に、古い建築形式が残っているわけです。

縄文祭祀の名残り

諏訪大社 すわたいしゃ の「 御頭祭 おんとうさい 」で、鹿の頭が 神饌 しんせん として供えられます。他にも縄文祭祀の名残りと考えられる神饌を紹介しましょう。

九州山地の山中にある宮崎県 米良 めら は秘境で、江戸時代になっても稲作が行なわれていませんでした。この地に伝わる米良 神楽 かぐら の演目に、「ししとぎり」というものがあり、弓と矢を持った夫婦が猪の りょう に出かけます。米良神楽の 銀鏡 しろみ 神社では、猪を神饌として供えます。

他に、 春日 かすが 大社では 若宮 わかみや おん祭り初日、 懸物 かけもの という神饌があります。

懸物とは、元来正規の年貢の他に割り当てられる税として、春日大社が周囲の諸大名や有力武士に求めたもので、同祭で残っている 囃子歌 はやしうた の中に、「尾のある鳥( きじ )」と「尾のない ウサギ 」が出てきます。

今でもおん祭りでは、地元の崇敬者によって懸物の雉やウサギが境内に寄進されています。

弥生祭祀は紀元前三世紀頃からと推察されており、縄文時代の祭祀を残しながら、稲作祭祀が広がっていったものと考えられています。

諏訪大社 拝殿

信濃国一之宮
諏訪大社下社秋宮 拝殿