仏教伝来と聖徳太子の活躍

神道史上、仏教の伝来ほど衝撃的な出来事はなかったことでしょう。

神道に最も影響を与えた仏教伝来前後のダイナミックな展開を見ていきましょう。

仏教公伝

四世紀から六世紀にかけて朝鮮半島は、 新羅 しらぎ 高句麗 こうくり 百済 くだら の三国が覇権を争っており、朝鮮半島南部の 任那 みまな という小国をめぐり、百済の王である 聖名王 せいめいおう と日本との交流が『日本書紀』に記されています。

飛鳥時代直前の五三八年(諸説あり)、聖名王が釈迦仏の金銅像一体と経論若干卷(仏典)を献上したとあります。「 周公 しゅうこう (孔子が理想とされた君子)や孔子ですら理解することができない」優れた のり と表現されています。

第二十九代 欽明 きんめい 天皇は、「これほど素晴らしい法は聞いたことがない」と大変喜ばれるとともに、自分では拝礼すべきか いな か決めかねる」と言われ、臣下たちに検討を命じられました。

伝統派( 物部 もののべ 氏と 中臣 なかとみ 氏)と 崇仏 すうぶつ 派( 蘇我 そが 氏)とで、氏族の存亡をかけた論争になりました。崇仏派は、これまでも儒教や道教を受け入れてきたのだから、仏教も受け入れようとしました。伝統派は、仏教は儒教や道教とは違った性格を持つとして受け入れられないとの意見でした。

当時仏像という語がまだなかったため、「 隣国客神像 りんごくきゃくしんぞう 」と呼ばれていたとのことです。従来の神々に「客神」を加えようかという位置づけです。

最初は伝統派の意見が採用され、仏教の公的な受け入れは中止され、蘇我氏による個人的な崇仏が許可されました。

用明天皇が仏教受け入れ

飛鳥寺

飛鳥寺は、推古4年(五九六年)、仏教を保護した蘇我馬子の発願により日本初の本格的寺院として完成した
本尊の銅造釈迦如来坐像は創建時、飛鳥時代の作で日本最古の仏像
鎌倉時代に伽藍の大半を焼失し、現在の本堂は江戸時代に再建された

欽明天皇の御子である 用明 ようめい 天皇が、五八七年、 新嘗 にいなえ の儀(後の 大嘗祭 だいじょうさい )が行なわれた後、病にかかって宮にお帰りになり、「自分は仏法に 帰依 きえ したい。このことを論議するように」と言われたと日本書紀にあります。

伝統派の物部氏と中臣氏は、「 くに つ神(国内の神々)に そむ いて他神を敬うということであろうか。このようなことは今まで聞いたことがない」と反対し、崇仏派の蘇我氏とは勢力争いが から み激しい いくさ が起きました。

結局蘇我氏が勝利して、 蘇我馬子 そがのうまこ が日本最初の本格的な寺院、飛鳥寺を創建しました。

聖徳太子が仏法興隆

用明天皇、 崇峻 すしゅん 天皇と続いた後、 推古 すいこ 天皇が即位されて、摂政として政治を担ったのは 聖徳太子 しょうとくたいし でした。

聖徳太子は、『法華経』『維摩経』『 勝鬘経 しょうまんぎょう 』を、先行解釈を踏まえながら自らの思想や見解を発展させた注釈解説の『 三経義疏 さんぎょうぎしょ 』を執筆されました。聖徳太子が示した十七条憲法の第二条にも「 あつ く三宝を敬え。三宝とは、仏・法・僧なり」とあります。

遣隋使 けんずいし として 小野妹子 おののいもこ は六〇七年、 煬帝 ようだい への国書を携え学問僧数十人らと隋に渡りました。国書には「 日出 ひい ずる ところ 天子 てんし 、書を日没する処の天子に致す。つつが無きや」とあり、煬帝は激怒したと言われています。

この時代に、日本で初めての仏像が造られ、四月七日の 灌仏会 かんぶつえ や七月十五日の 盂蘭盆会 うらぼんえ の仏教行事が始まりました。

推古天皇の神仏共調

推古天皇は神仏共調でなくなりつつあった崇仏派に警鐘を鳴らすように、六〇七年敬神を示すため、

「古来、歴代の天皇は謹んで篤く神々を敬われ、山川の神々を祭って神々の力を天地にお かよ わしめになった。今私の世においても、どうして神々の祭りを怠ることがありましょう。それ故、群臣は共に心をこめて 神祇 しんぎ (神々)を礼拝するように」と言われました。

そこで、聖徳太子や大臣(蘇我馬子)も 百寮 もものつかさ (多くの役人)を従えて、神々を祭り、礼拝したとのことです。