仏教の影響―社殿の出現

神道に仏教が与えた大きな変化の一つは、六世紀から始まった祭祀の場(神社)の常設です。

古祭に古代の面影を残して

信仰の対象になった山に、奈良県の 大神神社 おおみわじんじゃ の三輪山、春日大社の 御蓋 みかさやま 、京都府の 賀茂別雷神社 かもわけいかづちじんじゃ (上賀茂神社)の 神山 こうやま などがあります。

古代は、神々には祭典の期間だけ、祭祀の場にお越し頂くという形式でした。その しろ (神霊の宿り所)が、 磐座 いわくら や樹木、柱や のぼり です。

古代に創建された神社の祭祀には、常設の神社ができるまでの祭祀の名残りをとどめているものがあります。

春日大社のおん祭り(十二月十五日~十七日)の「 御旅所祭 おたびしょさい 」では、皮を削らない 黒木 くろき で毎年「 仮殿 かりどの 」を建てます。屋を建てるべき場所「 屋代 やしろ 」が神社の やしろ の語源です。

大神神社 拝殿

大神神社:
古来本殿は設けず拝殿の奥にある三ツ鳥居を通し三輪山を拝する
ご祭神の 大物主大神 おおものぬしのおおかみ が鎮まる三輪山をご神体とする
原初の神祀りの様を伝える最古の神社

御神体を若宮から御仮殿にお うつ しして 神楽 かぐら 田楽 でんがく 和舞 やまとまい などをお見せした後、元の若宮にお戻り頂きます。

これに似ているのが、天皇陛下が御即位後に行なわれる 大嘗祭 だいじょうさい で建てられる御殿「 悠紀 ゆき (聖なるの意味) 殿 でん 」「 主基 すき (次の意味) 殿 でん 」です。

柱はやはり黒木を使い屋根は 茅葺 かやぶき です。大嘗祭は一代に一度きりで、祭典が終わると撤去されます。

春日若宮の御仮殿と同様に、神様専用のものと考え、祭典終了後は 更地 さらち に戻すという形式を今に伝えているのです。

本殿がない神社は前述の大神神社、長野県の 生島足島 いくしまたるしま 神社、奈良県の 石上 いそのかみ 神宮(明治期まで)など全国にたくさんあります。

常設の神社の出現

飛鳥時代~奈良時代にかけて、朝廷による国家体制が整備され、仏教の隆盛の影響を受けつつ、神社も常設の社殿が建てられていきました。

七世紀後半の天武天皇の御代には、伊勢の神宮で 斎王 さいおう 制度が整備され、二十年に一度ご社殿やご 装束神宝 しょうぞくしんぽう を新しくする式年遷宮が定められ、次の持統天皇の御代六九〇年、第一回の式年遷宮が行なわれました。

他の古社の祭祀も天武天皇の頃に、神祇制度が整備されていきました。

大宝令 たいほうりょう 養老令 ようろうりょう (古代の法律)では、奈良時代から始まる最高行政機関の 太政官 だじょうかん と並ぶような形で 神祇官 じんぎかん が置かれました。

律令(法律)では祭祀を区分し、大嘗祭は「 大祀 たいし 」、祈年祭・月並祭・神嘗祭・新嘗祭などは「 中祀 ちゅうし 」、それ以外の祭祀を「 小祀 しょうし 」としました。

大仏建立に八幡神が協力

奈良時代の中期、聖武天皇の時代になると、仏教全盛となり、地方の一国にそれぞれ国分寺と国分尼寺が造られました。

都に総国分寺として東大寺が建てられ、七四五年には大仏の造立が開始されました。

大仏を造るために銅五百トン、すず八・五トン、金〇・四トン、水銀二・五トンが使われたそうです。

大仏造立が困難な中、 宇佐 うさ (大分県の北部)の 八幡神 はちまんしん (現在の宇佐神宮、八幡神の総本宮)から、「われ 天神地祇 てんしんちぎ ひき い、必ず成し たてまつ る。銅の湯を水となし、わが身をなげうって協力し成功させる」という託宣が出され、工事が進んだと『続日本紀』に記されています。

この神は、 手向山八幡宮 たむけやまはちまんぐう に今も祀られています。

宇佐神宮

宇佐神宮 うさじんぐう (大分県):
全国に四万社あまりある八幡様の総本宮
奈良の大仏建立の際に、宇佐八幡伸が協力の託宣を出されたという

奈良の大仏

東大寺の大仏(奈良県)像高は約十五m、手の平は約三m
七四五年から工事を始め、七七一年に完成した

東大寺二月堂の「お水取り」に神仏習合の姿が今もよく残っています。僧が「神名帳」を読み上げ、全国の神々を 勧請 かんじょう (お越しを願う)します。また、僧侶自身や使用する道具を清めるため「 大中臣祓 おおなかとみのはらい 」が行なわれます。

このような寺院における「 敬神崇仏 けいしんすうぶつ 」は多くの寺で見られ、法隆寺では 龍田社 たつたしゃ 、薬師寺では 休ケ丘八幡宮 やすみがおかはちまんぐう が建立されています。

しかし、神への作法と仏への作法は区別され混合された形跡はなく、両者を区別できたからこそ、神仏習合が可能となったのです。