言霊の力「大祓詞」
六月は、この半年間の 穢 れを 祓 うお祭り、 大祓 が、宮中や神宮、全国各地の神社で行なわれます。
半年に一度の清め
毎月、月初め(加えて、十五日にも) 月次祭 という祓い浄めのお祭りをする神社もありますが、六月と十二月、年に二回の大祓は、大きな節目と言えます。
日本における「 祓 」の歴史は古く、古墳時代中期には、現代のお祓いに通じる様な道具を用いて罪穢れを除こうとしていたと推測されています。
神様によって、「祓」がなされるという概念は古代からあったようです。
また、『日本書紀』には、律令体制という国家制度が整うまでの社会的制裁として、罪を犯した者に対して、その罪に応じた償いを神様に差し出させた事が、記されています。
大化の改新の新政権が、一時、「祓」を愚俗として禁止してしまいましたが、 天武 天皇が、「大祓へ」という新しい宗教儀礼として復興されました。
また、天武天皇の 詔 より、七○一年(ご崩御後)、大宝律令が制定されましたが、これは、日本史上初めて 律 (刑法)と 令 (行政法)がそろった本格的な法体系で、 神祇令 も制定され、 神祇官 が任命されました。
昔から行なわれていた様々な 祭祀 が、国家が行なうものとして定められました。古の時代は、「 政 」は、「 祀 り」で、祭政一致です。
制定されたお祭りには、
- 祈年 祭…豊作を祈る
- 鎮花 祭…桜が早く散ると疫病が流行ると言われ、早く散らないよう祈る
- 大忌 祭…水害がないよう祈る(奈良の広瀬神社で行なわれた)
- 風神 祭…台風など風の被害がないよう祈る(奈良の龍田神社で行なわれた)
- 道饗 祭…都に目に見えない悪いものが入って来ないよう祈る
などがあり、これらのお祭りと一緒に、「大祓」も制定されました。
平安時代には、親王をはじめ大臣以下百官が、都の 朱雀門 の前の広場に集まる大がかりなものでした。
『 大祓詞 』
東大寺二月堂修二会 お水送りの地 鵜の瀬(福井県小浜市)
祝詞 とは、神様に奏上する言葉であり、神饌 というお供え物をして、頂いている 御神徳 に対する 称辞 を申し上げ、新たな 恩頼 (威力・恩恵・加護)を祈願するものです。
言霊(ことだま)に対する信仰が根底にあります。
ところで、古代の朝廷では、祭祀の際、祝詞を奉唱するのは 中臣 氏、 幣帛 (お供え物)を 奉 るのは 忌部 氏と役割分担がされていました。
大祓 の祝詞である『 大祓詞 』は、古くは、 中臣祓 、 中臣祭文 とも呼ばれ、時代の変遷を経て、 陰陽道 や密教と習合し、呪文のような 御利益 が得られると 祈祷 の場で盛んに用いられたり、仏教に取り入れられました。例えば、東大寺 修二会 (お水取り)が有名です。
九六七年に施行された『 延喜式 』(養老律令に対する施行細則)に記載されている大祓詞には、 天 つ 罪 (農耕妨害罪、社会的大罪)や、 国 つ 罪 (道徳に反する個人的な罪)の詳細な内容が列挙されていますが、明治以降はそれが省略されています。
次頁に神宮はじめ神社本庁(神宮を 本宗 とする全国約八万の神社を包括する宗教法人)所属神社の『 大祓詞 』を上げました。
千三百年前のものとは、少しずつ形を変えながら、本質的なところは変わらず、唱えられ続けています。
尚、「高天原爾神留坐須皇賀親神漏岐神漏美乃命以知?・・・」という 万葉仮名 のものもあります。
厄除け祭などの祭事や、神社の朝拝や夕拝、禊を行なっている時など、折あるごとに唱えられる、とても身近な祝詞ですので、大意も合わせてご紹介致しましょう。
意味がはっきり分からない部分もあり、多くの人によって色々な解釈がされるようになりました。
例えば、「 天 祝詞 の 太祝詞事 を 宣 れ 此 く 宣 らば」で、太祝詞事は、この大祓詞であるという説(江戸時代の国学者、本居宣長(もとおりのりなが)が支持する説)と、「 宣 れ」と「 此 く」の間には、別の祝詞があるという説など諸説あります。
又、「天の 御蔭 、日の御蔭」で、「天」は、最初に登場する 皇祖 の男神様・女神様、又は、『古事記』の冒頭に登場される神々を、「日」は、天照大御神を示すという説などがあります。
祓を重んじる民族性
奈良時代から、確認されるだけでも千三百年の間、多くの人々に奏上されてきたわけですが、それだけ、日本人が、祓い、身を清めることを大切に思っていた 証 と言えます。
天照大御神 の御心と一緒になって、国家の平安と国民の幸福を願う、 古 の国家プロジェクトとしての大祓を想像しながら、お近くの神社にお参りされてはいかがでしょうか?
「 茅 の輪くぐり」や、 形代 を川に流す神事も行なわれます。