夏越の祓い
六月を 水無月 といいます。みなづきの「な」は「の」という助詞で、水の月という意味です。六月が、 禊 と関わりがあることによるようです。
禊の語源については、「身+ 注 く」、「身+ 濯 ぐ」、などがあげられ、< 身 >+水に関わる動詞である可能性が高いようです。
『万葉集』では、①「天の川原に出で立ちて 潔身而麻之乎 」(3-420)、②「明日香の川に 潔身為尓去 」(4-626)、③「三津の浜辺に 潔身四二由久 」(4-626異伝)、④「しのふ草祓へてましを行く水に 潔而益乎 」(6-948)、⑤「清き川原に身 身秡為 」(11-2403)の五例あり、いずれも水を利用して、罪や汚れを洗い清める意に用いられて、これが「みそぎ」のもとの意味と考えられています。
一方、 祓 は、罪をあがなうものを差し出したり、 人形 などを捨てることで、禊と祓は区別して用いられたり、禊祓と併せて用いられたりします。いずれにしても、人が知らず知らずのうちに犯した罪や 穢 れを取り除き災いを避けるというものです。
禊祓で飛躍
『古事記』によると、最初の禊は、 伊邪那岐命 が行なわれました。
黄泉 国からお帰りになった後、 竺紫 の 日向 の 橘 小門 の 阿波岐原 (所在未詳)で、禊をなさり、これにより、天照大御神、月読神、須佐之男命が誕生されました。
三貴神 と呼ばれ、伊邪那岐命から、それぞれ昼と夜、海を司ることを指名された重要な神様です。
その後、須佐之男命は、天上世界である高天原で大暴れをして、これに対し、天照大御神が有名な「 天 の 石屋戸 隠れ」をされてしまうのですが、須佐之男命は天上世界で犯した罪をあがなうため、最初の大祓を受けています。
そして、高天原を追放され地上に降りた須佐之男命は、これまでの 狼藉 者から、 八岐大蛇 を退治する英雄に変身していきます。
これらの神話では、穢れを祓うこで、マイナスをゼロにするのではなくプラスに転じています。
千三百年前の大祓
奈良時代に、 養老神祇令 (七一八年 編纂 、七五七年施行)という、今でいう法律が朝廷により定められましたが、これにより、法律で大祓をすることが定められました。
奈良県の朱雀門
中国、長安の朱雀門にならい、平城京、平安京などにおいて、大内裏外郭南面の中央に設けられた門。
毎年六月と十二月の三十日に、朝廷で天皇以下、全官人(役人)と家族が 朱雀門 の祓所に集まり、 中臣 氏という祝詞奏上を専門とする一族が大祓詞を奏上し、 卜部 という一族が祓を行なうように規定されました。
百人以上が集まったそうです。
奈良平城京について、少し説明を加えましょう。
入り口である 羅生門 をくぐると、約七十五メートルもの幅をもつ朱雀大路が真っ直ぐ北にのび、その四キロ先に平城宮の正門である朱雀門が建っていました。
朱雀門の前では外国使節の送迎を行なったり、正月には天皇がこの門まで出向き、新年のお祝いをすることもありました。
朱雀門の左右には高さ六メートルの築地塀がめぐらされ、百三十万平方メートルの広さの宮城をとりかこんでいました。
宮の正門としての権威を誇示していたと思われます。
この朱雀門で行なわれた大祓については、色々記録が残っており、朱雀門の側の堀の遺跡では、色々な大きさの 人形 が見つかっています。
その当時は、それぞれ自分で 人形 を持ち寄ったようです。
なぜ残っているのかというと、その当時の人形は木製だからで、また、伊勢の神宮の斎王の宮殿である斎宮からは、七十センチもの大きさの木製の人形も見つかっています。
その後、平安初期に、祓の細分化が進み、天皇陛下の大祓「 節折 」、朱雀門でのような公の大祓と共に、公家たちが盛んに個人的な大祓を行なうようになりました。
陰陽道の祖、安倍晴明
公家たちの個人的なお祓いを行なったとして、 陰陽師 が有名です。
陰陽道の祖といわれる安倍晴明(九二〇~一〇〇五)を祀る清明神社の由緒書きから一部紹介しましょう。
安倍晴明は、第八代の 孝元 天皇の皇子の血筋を引くといわれ、天文暦学に造詣が深く、宮殿内の異変や遠方での吉凶を言い当て、朝廷を始め多くの人々が信望を寄せたと伝えられています。
晴明は、 朱雀 、 村上 、 冷泉 、 円融 、 花山 、 一条 の六代の天皇の側近として仕え、村上天皇の御代に、唐へ渡り、帰国後、暦術、占法など日本独特の陰陽道を確立しました。