5月のお祭り

五月を 皐月 さつき といいます。「さ」は、田の神に由来して神聖さを示しています。神話の時代、天照大御神から稲を頂きましたが、神々に供物として ささ げる神秘的な穀物である稲の、田植えの月であることから、五月を「さつき」と呼んだのでしょう。

五月五日、 端午 たんご の節句は、中国から伝わった 重陽 ちょうよう という考え方によります。一月一日、三月三日、七月七日のように、月と日が重なる日を縁起がよい日とみたのです。

旧暦では、四月から六月までが夏でした。この時期は、草木が芽吹き花々が咲き競い、旺盛な生命力を感じます。

六世紀頃の中国の古い書物『 荊楚歳時記 けいそさいじき 』に、中国の人々が健康や長寿を願って菖蒲を用いたとあります。日本でも、菖蒲など香りの強い植物に 魔除 まよ けの力を認めていたことが、奈良時代の『 続日本紀 しょくにほんぎ 』などに記載が見られます。

神田祭

神田祭は、葵祭と同じく五月に行なわれる、東京都の神田に鎮座する神田明神(神田神社)の例祭です。

神田明神は、七三〇年、 大己貴命 おおなむちのみこと 大国主命 おおくにぬしのみこと の別称)と 少彦名命 すくなびこなのみこと (大国主命と共に国造りした)を御祭神に現在の大手町に創建され、江戸(東京)で最も古い神社の一つですが、創祀由緒は諸説あり定かではありません。

中世に、平将門(たいらのまさかど)を葬った墳墓(将門塚)周辺で天変地異が頻発し、人々を恐れさせたため、神田明神の第三番目の御祭神として、平将門を迎え、鎮座しました。

慶長五年(一六〇〇)、天下分け目の関ヶ原の戦いで、徳川家康が合戦に臨む際、戦勝のご祈祷を行なったところ、九月十五日、神田祭の日(当時)に勝利し、これ以降、将軍家より縁起の良い祭礼として守護され、一六一六年には、江戸城の裏鬼門守護地となる現在地に遷座されました。

江戸時代には永田町の日枝神社で行なわれる山王祭とともに、神輿の神幸行列が江戸城内に入り、将軍が閲覧し、「天下祭」と呼ばれました。

大正十二年(一九二三)関東大震災により社殿が焼失してしまいましたが、昭和九年(一九三四)当時としては珍しい鉄骨鉄筋コンクリート、総朱漆塗の社殿が再建されました。そのため、東京大空襲ではわずかな損傷で戦災を逃れました。

昭和五十九年(一九八四)、朝敵として明治七年に別殿に出された将門の神霊が一一〇年ぶりに本殿に戻りました。

神田祭

神田明神(東京都)の神田祭
大小二百の神輿が練り歩く

神田祭は、神田、日本橋、大手・丸の内、秋葉原を神輿が巡行する「神幸祭」と、百基の氏子町神輿が神社に入る「神輿宮入」が行なわれ、一週間にわたり大変な賑わいです。

神田明神は、東京の中心地にあり、氏子である住民が減少し、一時は、存続が危ぶまれた時期がありました。

しかし、商店街の人々が、新しく転居してきた新住民を根強く勧誘し、新しい企画など盛り込むなどして、継続されるようになりました。

街興 まちおこ しで、祭の再興が成功した例として、他の地域からも注目されています。