雛人形の由来

神道と日本文化

雛人形

三月は 弥生 やよい 、「弥」には、いよいよ、「生」には生い茂るという意味があります。春の語源は、「 る」という説もあります。「張る」は草木が芽吹くことで、水があふれ出る「 みなぎ る」にも通じます。

桃の節句

三月三日は、「桃の節句」です。雛人形を飾り女児の成長を祝う行事は、江戸時代になって飾り人形が庶民化するようになり一般的になりました。

本来は、「 上巳 じょうし の節句」といい、一般的になるまでは、上巳の節句を女児の節句とする考え方はなく、上巳の節句の人形は「ひとがた」で、 はら えのためのものでした。

平安時代『源氏物語』「 須磨 すま 巻」には、次のような場面が描かれています。

三月朔日 ついたち の日に、浜辺で 陰陽師 おんみょうじ が「ひとかた」で祓えを行ない、船に沢山の「ひとかた」を乗せて流しています。

一方、平安時代には、雛遊びとして、女児が「 ひな 人形」で遊び、この人形を子供の枕元において、子供のお守りにしました。これも「ひとかた」の一種で、 わざわい を雛人形が子供に代わって受け止めてくれると考えたのです。

室町時代になってから、こうした考え方に変化が起きました。

建内記 けんだいき 』という記録によると、一四四〇年三月三日の条で、上巳の祓えのための「人形」が贈られ、それを祓えのために枕元に置きました。

これまでは、この人形は子供の わざわい にな ったと考え、手元に置いたままにせず、時期がくれば捨てるなどされたのですが、この人形は捨てられず、お寺に持っていき 祈祷 きとう してもらい、翌年の上巳の祓えにも使ったという記載があります。

昔のことなので想像ですが、おそらくその人形は、一年で捨てるには惜しいような出来栄えだったのでしょう。

こうしたことから、祓えからお守りとしての雛人形の性格が強くなっていったと考えられています。

桃の花と磯遊び

三月三日が、本来は祓え行事だったことは、現代の雛人形には面影がありませんが、桃の花を飾ることや、雛祭りに蛤(はまぐり)のお吸い物を作ることに残っています。

桃は、『古事記』の 伊邪那岐命 いざなぎのみこと 伊邪那美命 いざなみのみこと の神話の中に登場します。伊邪那岐命が 黄泉国 よみのくに に、亡くなった伊邪那美命を探しに行き、既に黄泉国の住人となってしまった伊邪那美命から逃げる時、追っ手の黄泉醜女(よもつしこめ)に桃の実を投げて退散させます。

桃には、古代から邪霊を祓う力があると考えられていたのです。

上巳の節句には、「 磯遊 いそあそ び」の風習があり、昭和三十年代までは、全国の広範囲で行なわれていました。

節句磯 せっくいそそ 」「 浜下 はまお り」など、地方によって色々な呼び方がありますが、浜で潮水を三回すくって顔や手を洗う、家に残った病人のために海水を んで帰り手足を洗う、といった風習に みそぎ や祓えの名残を垣間見ることが出来ます。

雛祭りの御馳走として、蛤のお吸い物をつくりますが、海辺に出る風習が薄らいでも、食べ物に伝統が残っているのです。

上巳の節句は、祓えの「ひとかた」が飾り人形となることで、大きく変化しましたが、祓えの要素を残しつつ、現代に受け継がれています。

雛人形

雛人形は、江戸時代に雛人形を売る雛市が立つようになってから広まりました。

江戸では、 貞享 じょうきょう 年間(一六八四~八八)に、現在の東京都中央区日本橋周辺の中橋や人形町、千代田区の こうじ 町あたりに二月二十七日から三月二日まで立つようになりました。

江戸時代末の 天保 てんぽう 年間(一八三〇~四四)には、同じ期間に、 浅草萱町 あさくさかやちょう 牛込神楽坂上 うしごめかぐらさかうえ などにも雛市が立ち、江戸の雛市は百年余りの間に倍増したとのことです。

そして、雛市は江戸だけでなく、京都の四条、大坂では 御堂 みどう (東西本願寺別院)前にも立つようになり、やがて全国に広がりました。

雛人形が、世相を反映して作られる流行は、以前からあったようです。

今のように、男雛を向かって左に置くのは、昭和三年(一九二八)の昭和天皇即位の大礼時の、天皇皇后両陛下の御座の位置に なら ってのことです。

江戸時代から大正時代に描かれた絵には、大方が男雛が向かって右に描かれています。

また、段飾り、平飾りなど、地方によって色々な飾り方があったようです。