茅の輪の起源
夏越 の祓として、 茅 の 輪 を境内に作り、それをくぐると厄除けになるというものがあります。
平安期の文献には記載がないのですが、 一条兼良 (関白太政大臣を経験し古典に通じた当代随一の学者)が一四二二年に著した『 公事根源 』に、「 水無月 の 夏越 しの 祓 する人は 千歳 の 命延 といふなり」と唱えながら、輪を越えることが記載されています。
茅の輪の起源は古く、『 備後国風土記 』に出てきます。風土記は、奈良時代初期に作られた各地方の古い伝承を集めた本です。
出雲国風土記の全て、 常陸 ・ 播磨 ・ 豊後 ・ 肥前 の各風土記の一部が現存しています。
『 備後国風土記 』そのものは現存していませんが、他の本の中に、引用されて残っており、 武塔神 と 蘇民将来 という人のお話です。
物語は、北の海の武塔神が南の海にいる神の娘を妻にしようと出発し、ある場所で日が暮れたので、宿を求めたところ、蘇民将来という兄弟がいて、裕福な弟は断り、貧しい暮らしをしていた兄は快く宿を貸して、粟殻(あわがら)の座布団と栗の飯で歓待しました。
そして、武塔神は南の海で何年か過ごした後、帰りに八人の御子神を連れて蘇民将来の家に寄り、自分を歓待した蘇民将来の家族には茅で作った輪を腰に着けさせ、これを着けた蘇民将来の家族を除いて、他の全員を殺し滅ぼしてしまいました。
この武塔神はスサノオの神と名乗り、今後、悪い流行病があった時は、蘇民将来の子孫として茅の輪を腰に着けている者は、病気から逃れることができると言ったというお話です。
八世紀末頃の「蘇民将来の子孫者」と書かれた木簡も発見されています。
祓具としてお守りとして
平安時代の 忠道 の漢詩集に、草を結んで輪にした「 菅抜 」を首にかけて、夕暮れの水辺で祓を行なったと 詠 まれています。
岡山県などで、戸口に茅の輪をつるすところもあります。東京都千代田区の 日枝 神社では、茅の輪くぐりをした時に茅を抜いて、小さな輪にして自宅に持ち帰り、厄除けにするという風習があるそうです。
さらに、出雲大社(いずもたいしゃ)の千家 国造 家で行なわれている茅の輪行事は、茅の輪といっても輪にしないで、太い縄のままで、祓えを受ける人が頭の上から目の前に降ろされてくる縄を縄跳びのようにして飛び越えることを三度行なうといいます。
また、茨城県の 鹿 神宮の大宮司家で行なわれている茅の輪の行事では、宮司が茅で作った剣を手に持ち、その頭越しに茅の縄を降ろして宮司が飛び越えるということです。
茅の輪については、いろいろな伝承や使われ方がされています。
腰に下げる茅の輪、首にかける「 菅抜 」、神社境内に設置される茅の輪など、 祓具 として、時にはお守りとして用いられます。長い日本の歴史の中でのこと、どのように変化していったのか、また地方地方での扱いの違いもあったのかもしれません。
文献からいうと、祓具としての方が、歴史は古いのではないかといわれています。
前述のように、最初に大祓をしたスサノオの神が、茅の輪の起源に関わっているということは、興味深い点です。