東洋哲学研究会

旧本第一章~第五章

2017.05.28

『大学』旧本第一章~第五章

論語勉強会議事録

2017年5月28日(日)

開催場所:春秋館

議事内容:本日は『大学』旧本第一章~第五章を学びました。

テキスト『大学・中庸』 金谷治訳注


概要

前回から、『礼記』の中にあった「大学」(旧本)を読み始めています。

旧本の第一章は、大学章句の経一章に該当します。今回はその後半から読みました。第一章前半にあった「物に本末あり、事に終始あり、先後する所を知れば則ち道に近し。」は、「大学」に一貫している考えです。その意味を理解することなくして、『大学』を理解することはできないのかもしれません。

第一章後半には、「天子より以て庶人に至るまで、 いつに是れ皆身を脩むるを以てもとと為す。」とあります。身を修めることなくして、家が調和し、国が治まり、天下が平らかになるということはないということです。「もとを知ることが、知のきわまり」ともあります。本を知り、本を正し、本を修めていくことが道理にかなった方法と理解しました。

旧本の第二章は、大学章句の伝首章~伝六章に該当します。朱子はここで大きく順番を並び替えています。旧本は、大学章句の伝六章、伝三章後半、伝首章、伝二章、伝三章前半、伝四章という順番になっています。つまり、もともと「意を誠にする」から始まっていました。今回旧本を読んだ感想として、旧本の方がすんなり読めるという意見が圧倒的でした。この順番でこの文脈でまとめて読むことで浮かび上がってくるものがありました。一方、朱子が章を並び替え、「大学」の中で説かれている「三綱領八条目」を浮彫にしたことによって、より精緻に解釈され、より明確に理解されるようになった面があるようにも思われます。

第二章 人は意を誠にし、自分を欺くことがなければ、本能的に美醜をかぎ分けるように、善悪を感じとることが出来る。だからこそ君子は独りを慎み、自ら恥じることのないよう自分を律する。一方、小人は人目がないところでは悪事をはたらき、君子に対しては悪事を隠し、善を見せようとするが、それはあえなく見通されてしまう。曾子様は、自らの規範に従うだけでなく、人から指摘されることのないよう、戦戦兢兢と自分を戒め、律しておられた。

衛の武公は、切るが如くみがくが如く、学問によって知を磨き、つが如くるが如く、徳性を修め、たゆまぬ努力を重ね、その結果、慎み深く、麗しい威儀を備えるに至った。武公のように盛徳至善の君子のことは、民はこれを愛慕し忘れることが出来ない。

歴代の聖王、周の文王・殷の湯王・堯帝は、みな明徳を明らかにしようとされた。君子は、修身においても、治国においても、日々新たに進歩し続け、至善を尽くしておられた。

人は、その止まるべきところ(至善)をわきまえている。人の君としては仁に止まり、人の臣としては敬に止まり、人の子としては孝に止まり、人の父としては慈に止まり、国人と交わる時には信に止まる。

君子が徳を明らかにし、民の心を畏服せしめ、おのずから恥じるに至らしめ、訴えをなくすこと。これが「本を知る」ということである。

第三章から第五章は、旧本も大学章句も同じ構成・内容です。ここに語られている内容は、在家にあって修行をしている私たちにとって日々遭遇する身近な状況であり、そこでどう自分の心を磨いていくのか、どう生きるべきか、春秋館で学んでいる行法(自観法)・教えを振り返ることが出来ました。

第三章 ここでは、感情に支配されることで、正心を得ることが出来ないと語られています。

第四章 身を修めるとは、一方に偏ることなく、中庸たるべきことを確認しました。

第五章 孝・弟・慈の道徳を実践できる者が、よく国を治めることができるということを確認しました。