東洋哲学研究会

大学

2017.06.04

『大学』旧本 第五章続~第六章

論語勉強会議事録

2017年6月4日(日) 14:10~16:05

開催場所:春秋館

議事内容:本日は『大学』旧本第五章続~第六章を学びました。

テキスト『大学・中庸』 金谷治訳注


概要

『大学』旧本の第五章~第六章は、大学章句の伝九章~伝六章に該当し、同じ内容です。今回二度目の議論となります。

今回議論していて浮かび上がってきたことは、戦後の日本では、家庭内でも学校でも社会でも、道徳を教え、学び、実践することがほとんど見られなくなったのではないかということでした。

日本では、古くより『論語』などを通じて儒教・儒学を学んできました。江戸時代においては、上は主君・幕臣・藩士などが、幕府・各藩が奨励する儒教をたしなみ、下は庶民が寺子屋などで儒教を学んでいました。それは単なる知識や学問ではなく、自分たちの日々の行動・生きざまを律する教えであり、精神的支柱をなしていたものと思われます。

『大学』は、自らを修め、家庭内を和合し、社会を調和し、国を治めるにあたって、それらが一つの根本的な原理(道理)に貫かれていることを教えてくれます。そしてそれは自然の原理(天理)に通じるものと考えられます。故に、格物・致知が説かれたのだと思います。

かみ 老を老として而(乃)ち 民孝に興り、上長を長として而ち民弟(悌)に興り、上孤を恤みて而ち民倍かず。」

(上にたつ君主がその国の老人を老人として大切にしていると、天下の万民もまた孝行になろうとふるいたち、君主がその国の年長者を年長者として敬っていると、天下の万民もまた従順になろうとしてふるいたち、君主がその国の親なし子をあわれんで助けていると、天下の万民もむつみあって離れなくなる)

「徳は本なり、財は末なり。」

「国は利を以て利と為さず、義を以て利と為す」

『論語』『大学』などに説かれていること、これまでの日本に脈々と受け継がれた道徳(五常八徳)を、再びと日本に取り戻すことが急務と思われます。そのためにも、私たち一人ひとりが自分を磨くことに努めなければならないと受け止めました。

2017.05.28

『大学』旧本第一章~第五章

論語勉強会議事録

2017年5月28日(日)

開催場所:春秋館

議事内容:本日は『大学』旧本第一章~第五章を学びました。

テキスト『大学・中庸』 金谷治訳注


概要

前回から、『礼記』の中にあった「大学」(旧本)を読み始めています。

旧本の第一章は、大学章句の経一章に該当します。今回はその後半から読みました。第一章前半にあった「物に本末あり、事に終始あり、先後する所を知れば則ち道に近し。」は、「大学」に一貫している考えです。その意味を理解することなくして、『大学』を理解することはできないのかもしれません。

第一章後半には、「天子より以て庶人に至るまで、 いつに是れ皆身を脩むるを以てもとと為す。」とあります。身を修めることなくして、家が調和し、国が治まり、天下が平らかになるということはないということです。「もとを知ることが、知のきわまり」ともあります。本を知り、本を正し、本を修めていくことが道理にかなった方法と理解しました。

旧本の第二章は、大学章句の伝首章~伝六章に該当します。朱子はここで大きく順番を並び替えています。旧本は、大学章句の伝六章、伝三章後半、伝首章、伝二章、伝三章前半、伝四章という順番になっています。つまり、もともと「意を誠にする」から始まっていました。今回旧本を読んだ感想として、旧本の方がすんなり読めるという意見が圧倒的でした。この順番でこの文脈でまとめて読むことで浮かび上がってくるものがありました。一方、朱子が章を並び替え、「大学」の中で説かれている「三綱領八条目」を浮彫にしたことによって、より精緻に解釈され、より明確に理解されるようになった面があるようにも思われます。

第二章 人は意を誠にし、自分を欺くことがなければ、本能的に美醜をかぎ分けるように、善悪を感じとることが出来る。だからこそ君子は独りを慎み、自ら恥じることのないよう自分を律する。一方、小人は人目がないところでは悪事をはたらき、君子に対しては悪事を隠し、善を見せようとするが、それはあえなく見通されてしまう。曾子様は、自らの規範に従うだけでなく、人から指摘されることのないよう、戦戦兢兢と自分を戒め、律しておられた。

衛の武公は、切るが如くみがくが如く、学問によって知を磨き、つが如くるが如く、徳性を修め、たゆまぬ努力を重ね、その結果、慎み深く、麗しい威儀を備えるに至った。武公のように盛徳至善の君子のことは、民はこれを愛慕し忘れることが出来ない。

歴代の聖王、周の文王・殷の湯王・堯帝は、みな明徳を明らかにしようとされた。君子は、修身においても、治国においても、日々新たに進歩し続け、至善を尽くしておられた。

人は、その止まるべきところ(至善)をわきまえている。人の君としては仁に止まり、人の臣としては敬に止まり、人の子としては孝に止まり、人の父としては慈に止まり、国人と交わる時には信に止まる。

君子が徳を明らかにし、民の心を畏服せしめ、おのずから恥じるに至らしめ、訴えをなくすこと。これが「本を知る」ということである。

第三章から第五章は、旧本も大学章句も同じ構成・内容です。ここに語られている内容は、在家にあって修行をしている私たちにとって日々遭遇する身近な状況であり、そこでどう自分の心を磨いていくのか、どう生きるべきか、春秋館で学んでいる行法(自観法)・教えを振り返ることが出来ました。

第三章 ここでは、感情に支配されることで、正心を得ることが出来ないと語られています。

第四章 身を修めるとは、一方に偏ることなく、中庸たるべきことを確認しました。

第五章 孝・弟・慈の道徳を実践できる者が、よく国を治めることができるということを確認しました。 

2017.05.20

『大学』大学章句伝十章・旧本 第一章

論語研究会議事録

2017年5月20日(土) 16:58~19:10

開催場所:春秋館

議事内容:本日は『大学』大学章句伝十章と『大学』旧本 第一章途中までを学びました。

  テキスト『大学』 宇野哲人全訳注 

テキスト『大学・中庸』 金谷治訳注


概要

第十章の続きを読み、その後、『大学』旧本を最初から読み始めました。

第十章 ここでは、国家が財をなすことについて語られています。

魯の大夫・孟献子の言葉「馬乗を畜うものは鶏豚を察せず。伐氷の家は牛羊を畜わず。百乗の家は聚斂の臣を畜わず。その聚斂の臣あらんよりは、寧ろ盗臣あれ」とは、高位にある者は、家に鶏豚牛羊を飼って、庶民の職を奪ってはならぬ。人々から 膏血 こうけつ を絞りとるような家臣を持つくらいなら、自分の家の財物を盗む家臣を持つ方がよいという意味です。すなわち、国家を治める者は、己の私利を利とせず、万民の利をもって公義となすことが語られています。また、小人とは、義を求めず、利を求める者であるから、小人に国を治めさせたら、人民から 膏血 こうけつ を絞りとり、「民は窮して、財尽き、上は天の怒りにふれ、下は人の恨みを得て、天の災いと人の害と同時にくる(宇野氏)」ことが説かれています。

『大学』の冒頭にあった「物に本末あり、事に終始あり、先後する所を知れば則ち道に近し。」は万事に通じる道理であり、国家が財をなすことについてもその道理があてはまります。「徳が本で、財は末」、「仁者は財をもって身を発し、不仁者は身をもって財を発す。」「国、利をもって利と為さずして、義をもって利と為す。」これらは、道徳を本とし、道徳から始め、道徳を先んずるべきことを伝えています。道徳・修身を疎かにすることがあってはならないことは、現代にも通じる大事な教えです。

ここまで朱子の手になる『大学章句』を読んできましたが、あらためて『大学』旧本を読むことにしました。『大学章句』と異なる点は、『大学章句』では、各論が「格物致知」で始まっていたのに対して、旧本は「意を誠にす」から始まります。また、『大学章句』では「新民」としていたのに対して、旧本では「親民」としています。これらの点についてもう一度議論しました。自分たちで答えを導くことは容易ではありませんが、二宮尊徳(金次郎)のように、『大学』を繰り返し読み、その語るところをいずれわがものにし、わが国を、道徳を重んじる国へとしたいというのは、春秋館に学ぶ私たち参加者一同に共通の思いです。

2017.05.14

『大学』大学章句 伝九章~伝十章

論語勉強会議事録

2017年5月14日(日)

開催場所:春秋館

議事内容:本日は『大学』大学章句 伝九章~伝十章を学びました。

テキスト『大学』 宇野哲人全訳注


概要

『大学』大学章句より、伝九章と伝十章を読みました。

伝九章 「その国を治めんと欲する者は、先ずその家をととのう」について語っています。徳者が国を治める徳治政治を理想とする儒学においては、君主がまず自らを修め、その修得した徳をもって自らの家を斉えることが治国の土台となることが説かれます。君主が家の中で、孝をもって親に事え、弟をもって兄に事え、慈をもって子を慈しむことが出来れば、国にあって国民は、君主の徳に感化されて、忠をもって君主に従い、順をもって長者に従い、我が子を慈しむように衆人を使うことが出来るといいます。君主の家が仁であれば、国全体も仁となり、君主の家が譲であれば、国全体も譲となる。しかるに、たった一人君主が利を貪れば、国中みな利を争って乱をなすようになる。君主に恕の心がなければ、民衆を諭すことは出来ない。

古の聖王・堯舜、国を滅ぼした暴虐なラストエンペラー・桀紂を通して、君主の徳が治国の要諦であることを学ぶとともに、家の中で実践される徳(孝・弟・慈)が社会秩序の基盤をなし、家こそが徳を養う修身の場であり、「家斉いて后国治まる」ことが読み取れました。

伝十章 続いて「古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ずその国を治める」について語っています。君主は民衆から仰ぎ見られる身であり、常に慎み、己を推して人に及ぼしおもいやり(絜矩けっくの道、すなわち忠恕)、「民の好むところはこれを好み、民の悪むところはこれを悪みて、よく民心に応じた政治」をすることで国を得、民衆の心を失えば、天命が去り、国を失う。民心に応じた政治とは、民衆に迎合する政治を指すのではなく、君主は自ら徳を慎み、君主の徳に感化された民衆が求めるところの政治を指すと考えられます。

君主に徳があれば、民衆はこれに帰服し、民衆が帰服すれば、領土が広まり、領土が広まれば、財が自然と多くなり、財が多くなれば、国の用が供される。「徳が本で、財は末」であることが説かれます。古典が説く徳を求めることを忘れ、利益のみを追求している現在の風潮に危うさを感じます。

本人は技能がなくとも、才徳ある人を用いることができる人を大臣とすれば、国家は繫栄し、嫉妬にかられ、才徳ある人を用いることができない人を君主が登用すれば、国を危うくすることになると説かれています。「忠信もってこれを得、驕泰きょうたいもってこれを失う」も、現在に通じる教えと受け止めました。

2017.04.23

『大学』大学章句伝六章~伝八章

論語勉強会議事録

2017年4月23日(日)

開催場所:春秋館

議事内容:本日は『大学』大学章句 伝六章~伝八章を学びました。

テキスト『大学』 宇野哲人全訳注


概要

もともと『礼記』の中にあった「大学」は、伝六章「誠意」から各論が始まっていました。今回は、その伝六章から読み始めました。

伝六章 本来人には善をなし悪を去る本性が具わっているため、意を誠にし、自らを欺くことがなければ、善をなし悪を去ると語られています。それはまるで悪臭をにくむがごとく、好色を好むがごとく、本能として具わっているものであり、君子はそのため独り慎み、己を律し、己の中に本然的に具わる善悪の基準を問うことが説かれています。

一方、小人は、人目がなければ、自分が悪いことをしても知られることがないだろうと考え、不善をなし、結果として自らを欺くこととなる。そのような小人であっても、自らを欺いていることに対してやましさを覚え、君子を見れば、不善を覆い隠し、善を顕わそうとする。だが、いくら不善を隠し、善を装っても、肺肝を見るが如く、その真実の姿(ごまかし)は看破される。

曾子様は、多くの人が見、多くの人が指さすところのものは、厳密にして、正しく批判する(十目の視る所、十手の指す所、それ厳なるか)といって、自らを律しておられました。ここで曾子様がいうところは、単に人目があるから正しい行ないをするということではなく、自らの基準に従って意を誠にして行いを律しても、なお自らは気づかない点があるため、人の指摘に謙虚に耳を傾けて、自らを省みて、己を律しようとされたのではないかと思われます。

そうして道徳を重ねていくことで、その人の身に潤いが生じ、心は広々として、動きも ゆた かに暢び暢びとしてくるといいます。

己の中に善悪の基準が本然的に具わっていることがわかっていても、現実の自分は善悪の判断を誤ってしまうのではないかという意見がありました。自らの奥底に具わっているものを信じ、意を誠にして自らを欺くことなく、「十目の視る所、十手の指す所、それ厳なるか」という曾子様に従って、人の指摘に謙虚に耳を傾け、終始自らを省みることは、「大学」が私たちに教える指針として受けとめ、実践していくことが肝要です。

伝七章 ここでは「身を修めるとは、心を正すことにあり」と説かれます。怒り、恐れ、好み楽しみ、憂うことがあれば、心を正しくすることができない。過度の感情に左右されていては、心は乱れ、正しく保つことができず、身を修めることができなくなります。自らの感情に陥った時、大きく判断を過ち、道を踏み外し、自分の身を危うくしてしまうということだと思います。

伝八章 ここでは「その家を ととの うるはその身を修むるにあり」と説かれます。家庭の中が調和がとれて整うために、その中の人が身を修めていなければいけないということです。親愛の情であれ、賤しみにくむ心であれ、畏敬、哀矜、敖惰いずれの心であれ、一方に偏ってしまうと正しい判断はできない、正しい判断ができないと、家庭の中は不和となり、調和をもって整えることができないということでないでしょうか。

ここまでは自らを修めることが説かれていました。この後の章では、治人について説かれます。

2017.04.16

『大学』大学章句 伝三章~伝五章

論語勉強会議事録

2017年4月16日(日)

開催場所:春秋館

議事内容:本日は『大学』大学章句 伝三章~伝五章を学びました。

テキスト「大学」宇野哲人全訳注


概要

朱子は、『礼記』の中にあった「大学」を章に分かち、順番を並び替え、格物致知(伝五章)について大幅に加筆しています。『礼記』では、もともと意を誠にすること(誠意)が最初に語られていました

「誠意」からはいっていく方がすんなり読めるという意見もありましたが、朱子の説いた儒学「朱子学」が後世に与えた影響を考え、まずは「大学章句」に従って読み進めることにしました。

「大学章句」を読むと、朱子が重視した「格物致知」とは一体何かという問題に直面します。そこで後半は、「格物致知」について議論しました。

「大学」では、「格物致知」について詳しく語られておらず、朱子が補遺を付けています。朱子が説く自己修養とは、居敬(自分の中にある理に基づいて、欲を抑えて言動をつつしむ)と格物窮理(外の物の一つ一つの理を極める)であることを確認しました。

しかしながら、「格物致知」をどのように実践すればいいのか、具体的なイメージを掴むまでには至りませんでした。「格物」とは、「六芸を窮め尽くす」(宇野氏)という解釈もありました。

「大学」の中で、「書経」や「詩経」が多く引用されています。その引用を通して、具体的なイメージが伝えられているのかもしれません。

伝三章では、鳥でさえその止まるべきところを知っているのであるから、人として至善に止まることができなければ、鳥にも及ばないという孔子様の言葉と、周の文王は、常に間断なく自らの明徳を明らかに、止まるべきところに安んじていたことが語られています。すなわち、人の君となっては仁に止まり、人の臣となっては敬に止まり、人の子となっては孝に止まり、人の父となっては慈に止まり、国の民と交わっては信に止まる、と。

さらに「切磋琢磨」の由来となった『詩経』衛風淇澳篇の詩について語られています。学問と徳行を修め、慎み深い君子(衛の武公)の姿を詠んでいます。骨を切り出し象牙を磨くが如く、学問を修め知を磨き、玉をみがき石を磨くが如く、自らの徳性を修め、身を慎んで威儀を備え、その徳容は人々が忘れることができないほどだと讃えています。

「格物致知」とは、明徳を明らかにした先王聖人の言行を通して自然の理を学び、絶え間ない努力によって知を磨き、実践によって自らの中に具わる徳性を明らかにし、我がものとしていくものと語られているように感じられました。

2017.04.09

『大学』大学章句 経一章~伝二章

論語勉強会議事録

2017年4月9日(日)17:30~18:50

開催場所:春秋館

議事内容:本日は『大学』大学章句 経一章~伝二章を学びました。

テキスト『大学』 宇野哲人全訳注


概要

今回から朱子(朱熹)の大学章句に従って、『大学』の本文を読み始めました。朱子が私淑した宋の程明道・伊川両先生は、『大学』を「初学徳に入るの門なり」とし、『大学』を読んでから、『論語』『孟子』と読み進めるのがよいと説いています。

実に、『大学』では、儒学の教えが組織的に系統立てて説かれています。大学の道には、「明明徳」「親民(新民)」「止至善」の三つの大綱(三綱領)があり、己を修めて(修己)、人を治める(治人)ことが示されます。

すなわち、格物・致知から始まって、誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下へと展開します。天下を平らかとするもととなるのは、己を修めることであり、それによって、家が ととの い、国が治まることによって平天下が実現すると説かれています。

国の発展は、国民一人ひとりが道徳を身につけることにあり、教育こそが国の礎であり、家庭の安定が欠かせないものであることをあらためて認識しました。学び実践することで、自らの内に具わる普遍的なる基準を呼び覚まし、人として完成することを目指す。何を学び、何を身につけることが人生において最も大切なことか気づくことができたように思います。

各論に入って、伝一章で「明明徳」、伝二章で「新民」を読みました。

2017.04.02

『大学』大学章句序

論語勉強会議事録

2017年4月2日(日)16:04~18:20

開催場所:春秋館

議事内容:本日は『大学』大学章句序を学びました。

テキスト「大学」宇野哲人全訳注


概要

『大学』とは、儒教伝来の思想を最も組織的に叙述したもので、己を修めて人を治めること(修己治人)を説いています。すなわち、「学問をもって己の明徳を明らかにし、しこうしてこれを天下国家に明らかにする」ことを眼目とし、本書において、儒教の政治思想の根幹が極めて要領よくまとめられていると言われています。

これまで『論語』を通して孔子様の教え、儒教を学んできましたが、『大学』を読むことで、『論語』を通して一貫して語られていたことを、組織立った形で理解できることを確認しました。
二宮金次郎(尊徳)が薪を背負って読んでいたのが『大学』だったと伝えられています。日本人に大きな影響を与え、長くその精神的支柱をなしてきた儒教を学ぶことの意義をあらためて認識しました。

第一回の今回は、「 けだ し天の 生民 せいみん くだ すより、則ち すで にこれに与うるに仁義礼智の性をもってせざるは莫し(天は仁義礼智を全ての人に与えている)」という言葉から始まる、朱子の手になる「大学章句序」を読みました。その言葉に感銘を受け、それぞれの感想を語りあい、議論しました。