東洋哲学研究会

2021.10.03

論語 子罕第九 16

論語勉強会議事録

2021年10月03日(日)11:00~12:00

開催場所:春秋館

議事内容:今回も引き続き、「孝」について議論致しました。

テキスト「論語の講義」諸橋轍次


論語 子罕第九 16

子曰、出則事公卿、入則事父兄、喪事不敢不勉、不爲酒困。何有於我哉。

いわ く、 でては すなわ こう けい つか え、 りては すなわ 父兄 ふけい つか え、 こと あえ つと めずんばあらず、 さけ みだれ さず。 なに われ らんや。

2017.06.11

中庸章句序

論語勉強会議事録

2017年6月11日(日)15:56~18:13

開催場所:春秋館

議事内容:本日は『中庸章句序』及び『中庸』第一章を学びました。

テキスト『中庸』 宇野哲人 全訳注


概要

今回から『中庸』を読み始めました。今回は前半の『中庸章句序』までの議論です。

『中庸』について

『中庸』は四書の一つで、『大学』と同様、もともと『礼記』の中の一篇でした。孔子様の孫・子思様の手になるものと伝えられています。『大学』が「初学の入徳の門」であるのに対して、『中庸』は学問の「本源、極致の処」を述べたもの、すなわち、「学び始めの大学、学び納めの中庸」と言われています。

『中庸』の内容は、身近な「中庸」の徳とそれを基礎づける「誠」を説くものとされています。全体の構成を三つに分けた場合、一番目が「天の命ずるを、これ性と謂う」で始まる第1章で、全体の総論となっています。二番目は、第二章から朱子章句による第二十章前半までで、孔子様のお話や尭・舜・禹の徳治政治等、儒家の実践的な教説を多く収録し、具体的実践的な各論となっています。そして三番目に、「誠」について説かれています。『大学』で、まず「意を誠にする」ことを学びましたが、『中庸』で、「誠」とは「最高絶対の徳目として、宇宙万物の存在にまでも影響を及ぼすその窮極的な根源性」(金谷治氏)であることが説き明かされ、「誠」の深遠なる根拠に触れることとなり、参加者は、期待に胸を膨らませて『中庸』に臨みました。

『中庸章句序』について

朱子は、『大学』と同様、『中庸』についても独自の解釈を施し、『中庸章句』となしています。その『章句序』は、聖王から脈々と伝えられてきた道統に対する朱子の切々たる思いが、子思様の使命に託して語られていると感じます。『論語』堯白第二十において、堯帝が舜帝へ、舜帝が禹帝へ位を譲られる時、「まことの中を執れ」と伝えたとされています。それに対して、朱子は、舜帝は、「人心れ危く道心惟れ微なり、惟れ精惟れ一、允に厥の中を執れ」と三言をもって、禹帝に伝えられたと言います。すなわち、私たちの心は、「肉体の影響を受けている人心」と「本来具有する道義の心」からなっていて、人の心は肉体の欲によって迷いやすく、そのために危うく、「本来具有する道義の心」は物欲に覆われて明らかにし難いため、微妙である。そのため、いずれが人心でいずれが道心か精密に考察してまじえないこと、本心の正を守って失わないことが説かれています。

「惟精」は、「いずれが人心でいずれが道心か精密に考察してまじえないこと」と解説されていますが、それがもし「考察」すなわち思考・理性に依拠するものであるならば、春秋館で教えていただいている自法は思考・理性のみに頼るものではないので、「惟れ精惟れ一」と同じものといえませんが、他方、何か通じるものがあるようにも感じました。

2017.06.11

『中庸』第一章

論語勉強会議事録

開催日時:2017年6月11日(日)15:56~18:13 

開催場所:春秋館

議事内容:本日は『中庸章句序』及び『中庸』第一章を学びました。

テキスト『大学・中庸』金谷治 訳注


概要

後半は、『中庸』第一章について議論しました。第一章は、『中庸』全体の総論という位置づけです。『大学』で説かれた「慎独」(なぜ君子は独りを慎むのか)がここで説き明かされます。第一章を一つずつ読み解いていきます。

「天の命ずるをこれ性と謂い、性に したが うをこれ道と謂い、道を修むるをこれ教えと謂う。」

人には、「天」すなわち宇宙の主宰者、天地万物創造の神の命により、生れつき具わっているものがあり、それを「性」といいます。その性に従うものを「道」といいます。人には天命により生れつき具わった「性」がありますが、その行ないが「道」と一致しないことがあるため、「教え」によって「道」を修める必要があります。

『大学』では、人は「意を誠にする」ことで本能的に善と不善とを感じ分けられると説かれていました。なんとなれば、人には、天命によって先天的に「性」が具わっているからです。しかし、聖人でない限り、その「性」は明らかとなっていません。それ故、切磋琢磨の詩に描かれているように、君子はひたすらに道徳を学び修養を重ね、自らに具わった明徳を明らかにしようと努めます。

「道は 須臾 しゅゆ はな からざるなり。離るべきは道に非ざるなり。 」

「道」は、ほんのひと時でも離れることがないものです。また、離られるものは「道」ではありません。つまり、「道」とは森羅万象ことごとくを貫き、極微なるものに及び、網羅されるものであると感じられます。

の故に君子その ざる所を 戒慎 かいしん し、その聞かざる所を 恐懼 きょうく す。隠れたるより あらは るるは く、 かす かなるより あらわ なるは莫し、是の故に君子その独りを慎むなり。」

そのため、君子は自分が見ることのないものにも常に我が身を戒め慎み、聞こえないものにも常に恐懼します。なぜならば、隠れているものであっても現れないことはなく、微かなものであっても顕われないものはないからです。それ故、君子はその独りを慎しみます。

『大学』で、曽子様が「十目の視る所、十手の指さす所、其れ厳なるかな」と言って、常に戦々兢々として身を慎まれていたことが思い浮かびます。修行不足の凡夫には思いも寄らないことが、「道」に反することとなるのが伺えます。意を誠にし、独りを慎しみ、常に戒慎恐懼する者でなければ、わからないものと想像されます。

「喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中と謂ふ。発して皆な節に あた る、これを と謂う。中は天下の大本なり。和は天下の達道なり。 中和 ちゅうか を致して、天地 くらい し、万物育す。」

「喜・怒・哀・楽の感情が動き出す前の平静な状態」を「中」といい、「感情が動き出したが、それらがみな然るべき節度にぴたりとかなっている状態」を「和」といいます。「中」こそが、「世界じゅうの万事万物の偉大な根本」であり、「和」こそが「世界じゅういつでもどこでも通用する道」です。「中と和とを実行しておしきわめれば、人間世界だけでなく、天地宇宙のあり方も正しい状態に落ち着き、あらゆるものが健全な生育をとげることになる」(金谷氏)と説かれます。

つまり、喜怒哀楽の感情の偏り、過不足によって平静な状態が乱され、調和を失うことが説き明かされます。『大学』の「正心」「修身」で説かれていたことと符号する内容です。

春秋館で学んでいる自法は、まさにこの「和」の状態へ導くものといっていいかもしれません。自法を続けると本当の豊かな感情がでるようになると教わっています。

いまままで『大学』を通して、いかにして己を修めるかを見てきましたが、『中庸』を通してより根源的な視点から脩己・明明徳についてあらためて考えていきたいと思います。

2017.06.04

『大学』旧本 第五章続~第六章

論語勉強会議事録

2017年6月4日(日) 14:10~16:05

開催場所:春秋館

議事内容:本日は『大学』旧本第五章続~第六章を学びました。

テキスト『大学・中庸』 金谷治訳注


概要

『大学』旧本の第五章~第六章は、大学章句の伝九章~伝六章に該当し、同じ内容です。今回二度目の議論となります。

今回議論していて浮かび上がってきたことは、戦後の日本では、家庭内でも学校でも社会でも、道徳を教え、学び、実践することがほとんど見られなくなったのではないかということでした。

日本では、古くより『論語』などを通じて儒教・儒学を学んできました。江戸時代においては、上は主君・幕臣・藩士などが、幕府・各藩が奨励する儒教をたしなみ、下は庶民が寺子屋などで儒教を学んでいました。それは単なる知識や学問ではなく、自分たちの日々の行動・生きざまを律する教えであり、精神的支柱をなしていたものと思われます。

『大学』は、自らを修め、家庭内を和合し、社会を調和し、国を治めるにあたって、それらが一つの根本的な原理(道理)に貫かれていることを教えてくれます。そしてそれは自然の原理(天理)に通じるものと考えられます。故に、格物・致知が説かれたのだと思います。

かみ 老を老として而(乃)ち 民孝に興り、上長を長として而ち民弟(悌)に興り、上孤を恤みて而ち民倍かず。」

(上にたつ君主がその国の老人を老人として大切にしていると、天下の万民もまた孝行になろうとふるいたち、君主がその国の年長者を年長者として敬っていると、天下の万民もまた従順になろうとしてふるいたち、君主がその国の親なし子をあわれんで助けていると、天下の万民もむつみあって離れなくなる)

「徳は本なり、財は末なり。」

「国は利を以て利と為さず、義を以て利と為す」

『論語』『大学』などに説かれていること、これまでの日本に脈々と受け継がれた道徳(五常八徳)を、再びと日本に取り戻すことが急務と思われます。そのためにも、私たち一人ひとりが自分を磨くことに努めなければならないと受け止めました。

2017.05.28

『大学』旧本第一章~第五章

論語勉強会議事録

2017年5月28日(日)

開催場所:春秋館

議事内容:本日は『大学』旧本第一章~第五章を学びました。

テキスト『大学・中庸』 金谷治訳注


概要

前回から、『礼記』の中にあった「大学」(旧本)を読み始めています。

旧本の第一章は、大学章句の経一章に該当します。今回はその後半から読みました。第一章前半にあった「物に本末あり、事に終始あり、先後する所を知れば則ち道に近し。」は、「大学」に一貫している考えです。その意味を理解することなくして、『大学』を理解することはできないのかもしれません。

第一章後半には、「天子より以て庶人に至るまで、 いつに是れ皆身を脩むるを以てもとと為す。」とあります。身を修めることなくして、家が調和し、国が治まり、天下が平らかになるということはないということです。「もとを知ることが、知のきわまり」ともあります。本を知り、本を正し、本を修めていくことが道理にかなった方法と理解しました。

旧本の第二章は、大学章句の伝首章~伝六章に該当します。朱子はここで大きく順番を並び替えています。旧本は、大学章句の伝六章、伝三章後半、伝首章、伝二章、伝三章前半、伝四章という順番になっています。つまり、もともと「意を誠にする」から始まっていました。今回旧本を読んだ感想として、旧本の方がすんなり読めるという意見が圧倒的でした。この順番でこの文脈でまとめて読むことで浮かび上がってくるものがありました。一方、朱子が章を並び替え、「大学」の中で説かれている「三綱領八条目」を浮彫にしたことによって、より精緻に解釈され、より明確に理解されるようになった面があるようにも思われます。

第二章 人は意を誠にし、自分を欺くことがなければ、本能的に美醜をかぎ分けるように、善悪を感じとることが出来る。だからこそ君子は独りを慎み、自ら恥じることのないよう自分を律する。一方、小人は人目がないところでは悪事をはたらき、君子に対しては悪事を隠し、善を見せようとするが、それはあえなく見通されてしまう。曾子様は、自らの規範に従うだけでなく、人から指摘されることのないよう、戦戦兢兢と自分を戒め、律しておられた。

衛の武公は、切るが如くみがくが如く、学問によって知を磨き、つが如くるが如く、徳性を修め、たゆまぬ努力を重ね、その結果、慎み深く、麗しい威儀を備えるに至った。武公のように盛徳至善の君子のことは、民はこれを愛慕し忘れることが出来ない。

歴代の聖王、周の文王・殷の湯王・堯帝は、みな明徳を明らかにしようとされた。君子は、修身においても、治国においても、日々新たに進歩し続け、至善を尽くしておられた。

人は、その止まるべきところ(至善)をわきまえている。人の君としては仁に止まり、人の臣としては敬に止まり、人の子としては孝に止まり、人の父としては慈に止まり、国人と交わる時には信に止まる。

君子が徳を明らかにし、民の心を畏服せしめ、おのずから恥じるに至らしめ、訴えをなくすこと。これが「本を知る」ということである。

第三章から第五章は、旧本も大学章句も同じ構成・内容です。ここに語られている内容は、在家にあって修行をしている私たちにとって日々遭遇する身近な状況であり、そこでどう自分の心を磨いていくのか、どう生きるべきか、春秋館で学んでいる行法(自観法)・教えを振り返ることが出来ました。

第三章 ここでは、感情に支配されることで、正心を得ることが出来ないと語られています。

第四章 身を修めるとは、一方に偏ることなく、中庸たるべきことを確認しました。

第五章 孝・弟・慈の道徳を実践できる者が、よく国を治めることができるということを確認しました。 

2017.05.20

『大学』大学章句伝十章・旧本 第一章

論語研究会議事録

2017年5月20日(土) 16:58~19:10

開催場所:春秋館

議事内容:本日は『大学』大学章句伝十章と『大学』旧本 第一章途中までを学びました。

  テキスト『大学』 宇野哲人全訳注 

テキスト『大学・中庸』 金谷治訳注


概要

第十章の続きを読み、その後、『大学』旧本を最初から読み始めました。

第十章 ここでは、国家が財をなすことについて語られています。

魯の大夫・孟献子の言葉「馬乗を畜うものは鶏豚を察せず。伐氷の家は牛羊を畜わず。百乗の家は聚斂の臣を畜わず。その聚斂の臣あらんよりは、寧ろ盗臣あれ」とは、高位にある者は、家に鶏豚牛羊を飼って、庶民の職を奪ってはならぬ。人々から 膏血 こうけつ を絞りとるような家臣を持つくらいなら、自分の家の財物を盗む家臣を持つ方がよいという意味です。すなわち、国家を治める者は、己の私利を利とせず、万民の利をもって公義となすことが語られています。また、小人とは、義を求めず、利を求める者であるから、小人に国を治めさせたら、人民から 膏血 こうけつ を絞りとり、「民は窮して、財尽き、上は天の怒りにふれ、下は人の恨みを得て、天の災いと人の害と同時にくる(宇野氏)」ことが説かれています。

『大学』の冒頭にあった「物に本末あり、事に終始あり、先後する所を知れば則ち道に近し。」は万事に通じる道理であり、国家が財をなすことについてもその道理があてはまります。「徳が本で、財は末」、「仁者は財をもって身を発し、不仁者は身をもって財を発す。」「国、利をもって利と為さずして、義をもって利と為す。」これらは、道徳を本とし、道徳から始め、道徳を先んずるべきことを伝えています。道徳・修身を疎かにすることがあってはならないことは、現代にも通じる大事な教えです。

ここまで朱子の手になる『大学章句』を読んできましたが、あらためて『大学』旧本を読むことにしました。『大学章句』と異なる点は、『大学章句』では、各論が「格物致知」で始まっていたのに対して、旧本は「意を誠にす」から始まります。また、『大学章句』では「新民」としていたのに対して、旧本では「親民」としています。これらの点についてもう一度議論しました。自分たちで答えを導くことは容易ではありませんが、二宮尊徳(金次郎)のように、『大学』を繰り返し読み、その語るところをいずれわがものにし、わが国を、道徳を重んじる国へとしたいというのは、春秋館に学ぶ私たち参加者一同に共通の思いです。

2017.05.14

『大学』大学章句 伝九章~伝十章

論語勉強会議事録

2017年5月14日(日)

開催場所:春秋館

議事内容:本日は『大学』大学章句 伝九章~伝十章を学びました。

テキスト『大学』 宇野哲人全訳注


概要

『大学』大学章句より、伝九章と伝十章を読みました。

伝九章 「その国を治めんと欲する者は、先ずその家をととのう」について語っています。徳者が国を治める徳治政治を理想とする儒学においては、君主がまず自らを修め、その修得した徳をもって自らの家を斉えることが治国の土台となることが説かれます。君主が家の中で、孝をもって親に事え、弟をもって兄に事え、慈をもって子を慈しむことが出来れば、国にあって国民は、君主の徳に感化されて、忠をもって君主に従い、順をもって長者に従い、我が子を慈しむように衆人を使うことが出来るといいます。君主の家が仁であれば、国全体も仁となり、君主の家が譲であれば、国全体も譲となる。しかるに、たった一人君主が利を貪れば、国中みな利を争って乱をなすようになる。君主に恕の心がなければ、民衆を諭すことは出来ない。

古の聖王・堯舜、国を滅ぼした暴虐なラストエンペラー・桀紂を通して、君主の徳が治国の要諦であることを学ぶとともに、家の中で実践される徳(孝・弟・慈)が社会秩序の基盤をなし、家こそが徳を養う修身の場であり、「家斉いて后国治まる」ことが読み取れました。

伝十章 続いて「古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ずその国を治める」について語っています。君主は民衆から仰ぎ見られる身であり、常に慎み、己を推して人に及ぼしおもいやり(絜矩けっくの道、すなわち忠恕)、「民の好むところはこれを好み、民の悪むところはこれを悪みて、よく民心に応じた政治」をすることで国を得、民衆の心を失えば、天命が去り、国を失う。民心に応じた政治とは、民衆に迎合する政治を指すのではなく、君主は自ら徳を慎み、君主の徳に感化された民衆が求めるところの政治を指すと考えられます。

君主に徳があれば、民衆はこれに帰服し、民衆が帰服すれば、領土が広まり、領土が広まれば、財が自然と多くなり、財が多くなれば、国の用が供される。「徳が本で、財は末」であることが説かれます。古典が説く徳を求めることを忘れ、利益のみを追求している現在の風潮に危うさを感じます。

本人は技能がなくとも、才徳ある人を用いることができる人を大臣とすれば、国家は繫栄し、嫉妬にかられ、才徳ある人を用いることができない人を君主が登用すれば、国を危うくすることになると説かれています。「忠信もってこれを得、驕泰きょうたいもってこれを失う」も、現在に通じる教えと受け止めました。

2017.04.23

『大学』大学章句伝六章~伝八章

論語勉強会議事録

2017年4月23日(日)

開催場所:春秋館

議事内容:本日は『大学』大学章句 伝六章~伝八章を学びました。

テキスト『大学』 宇野哲人全訳注


概要

もともと『礼記』の中にあった「大学」は、伝六章「誠意」から各論が始まっていました。今回は、その伝六章から読み始めました。

伝六章 本来人には善をなし悪を去る本性が具わっているため、意を誠にし、自らを欺くことがなければ、善をなし悪を去ると語られています。それはまるで悪臭をにくむがごとく、好色を好むがごとく、本能として具わっているものであり、君子はそのため独り慎み、己を律し、己の中に本然的に具わる善悪の基準を問うことが説かれています。

一方、小人は、人目がなければ、自分が悪いことをしても知られることがないだろうと考え、不善をなし、結果として自らを欺くこととなる。そのような小人であっても、自らを欺いていることに対してやましさを覚え、君子を見れば、不善を覆い隠し、善を顕わそうとする。だが、いくら不善を隠し、善を装っても、肺肝を見るが如く、その真実の姿(ごまかし)は看破される。

曾子様は、多くの人が見、多くの人が指さすところのものは、厳密にして、正しく批判する(十目の視る所、十手の指す所、それ厳なるか)といって、自らを律しておられました。ここで曾子様がいうところは、単に人目があるから正しい行ないをするということではなく、自らの基準に従って意を誠にして行いを律しても、なお自らは気づかない点があるため、人の指摘に謙虚に耳を傾けて、自らを省みて、己を律しようとされたのではないかと思われます。

そうして道徳を重ねていくことで、その人の身に潤いが生じ、心は広々として、動きも ゆた かに暢び暢びとしてくるといいます。

己の中に善悪の基準が本然的に具わっていることがわかっていても、現実の自分は善悪の判断を誤ってしまうのではないかという意見がありました。自らの奥底に具わっているものを信じ、意を誠にして自らを欺くことなく、「十目の視る所、十手の指す所、それ厳なるか」という曾子様に従って、人の指摘に謙虚に耳を傾け、終始自らを省みることは、「大学」が私たちに教える指針として受けとめ、実践していくことが肝要です。

伝七章 ここでは「身を修めるとは、心を正すことにあり」と説かれます。怒り、恐れ、好み楽しみ、憂うことがあれば、心を正しくすることができない。過度の感情に左右されていては、心は乱れ、正しく保つことができず、身を修めることができなくなります。自らの感情に陥った時、大きく判断を過ち、道を踏み外し、自分の身を危うくしてしまうということだと思います。

伝八章 ここでは「その家を ととの うるはその身を修むるにあり」と説かれます。家庭の中が調和がとれて整うために、その中の人が身を修めていなければいけないということです。親愛の情であれ、賤しみにくむ心であれ、畏敬、哀矜、敖惰いずれの心であれ、一方に偏ってしまうと正しい判断はできない、正しい判断ができないと、家庭の中は不和となり、調和をもって整えることができないということでないでしょうか。

ここまでは自らを修めることが説かれていました。この後の章では、治人について説かれます。

2017.04.16

『大学』大学章句 伝三章~伝五章

論語勉強会議事録

2017年4月16日(日)

開催場所:春秋館

議事内容:本日は『大学』大学章句 伝三章~伝五章を学びました。

テキスト「大学」宇野哲人全訳注


概要

朱子は、『礼記』の中にあった「大学」を章に分かち、順番を並び替え、格物致知(伝五章)について大幅に加筆しています。『礼記』では、もともと意を誠にすること(誠意)が最初に語られていました

「誠意」からはいっていく方がすんなり読めるという意見もありましたが、朱子の説いた儒学「朱子学」が後世に与えた影響を考え、まずは「大学章句」に従って読み進めることにしました。

「大学章句」を読むと、朱子が重視した「格物致知」とは一体何かという問題に直面します。そこで後半は、「格物致知」について議論しました。

「大学」では、「格物致知」について詳しく語られておらず、朱子が補遺を付けています。朱子が説く自己修養とは、居敬(自分の中にある理に基づいて、欲を抑えて言動をつつしむ)と格物窮理(外の物の一つ一つの理を極める)であることを確認しました。

しかしながら、「格物致知」をどのように実践すればいいのか、具体的なイメージを掴むまでには至りませんでした。「格物」とは、「六芸を窮め尽くす」(宇野氏)という解釈もありました。

「大学」の中で、「書経」や「詩経」が多く引用されています。その引用を通して、具体的なイメージが伝えられているのかもしれません。

伝三章では、鳥でさえその止まるべきところを知っているのであるから、人として至善に止まることができなければ、鳥にも及ばないという孔子様の言葉と、周の文王は、常に間断なく自らの明徳を明らかに、止まるべきところに安んじていたことが語られています。すなわち、人の君となっては仁に止まり、人の臣となっては敬に止まり、人の子となっては孝に止まり、人の父となっては慈に止まり、国の民と交わっては信に止まる、と。

さらに「切磋琢磨」の由来となった『詩経』衛風淇澳篇の詩について語られています。学問と徳行を修め、慎み深い君子(衛の武公)の姿を詠んでいます。骨を切り出し象牙を磨くが如く、学問を修め知を磨き、玉をみがき石を磨くが如く、自らの徳性を修め、身を慎んで威儀を備え、その徳容は人々が忘れることができないほどだと讃えています。

「格物致知」とは、明徳を明らかにした先王聖人の言行を通して自然の理を学び、絶え間ない努力によって知を磨き、実践によって自らの中に具わる徳性を明らかにし、我がものとしていくものと語られているように感じられました。

2017.04.09

『大学』大学章句 経一章~伝二章

論語勉強会議事録

2017年4月9日(日)17:30~18:50

開催場所:春秋館

議事内容:本日は『大学』大学章句 経一章~伝二章を学びました。

テキスト『大学』 宇野哲人全訳注


概要

今回から朱子(朱熹)の大学章句に従って、『大学』の本文を読み始めました。朱子が私淑した宋の程明道・伊川両先生は、『大学』を「初学徳に入るの門なり」とし、『大学』を読んでから、『論語』『孟子』と読み進めるのがよいと説いています。

実に、『大学』では、儒学の教えが組織的に系統立てて説かれています。大学の道には、「明明徳」「親民(新民)」「止至善」の三つの大綱(三綱領)があり、己を修めて(修己)、人を治める(治人)ことが示されます。

すなわち、格物・致知から始まって、誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下へと展開します。天下を平らかとするもととなるのは、己を修めることであり、それによって、家が ととの い、国が治まることによって平天下が実現すると説かれています。

国の発展は、国民一人ひとりが道徳を身につけることにあり、教育こそが国の礎であり、家庭の安定が欠かせないものであることをあらためて認識しました。学び実践することで、自らの内に具わる普遍的なる基準を呼び覚まし、人として完成することを目指す。何を学び、何を身につけることが人生において最も大切なことか気づくことができたように思います。

各論に入って、伝一章で「明明徳」、伝二章で「新民」を読みました。