端午の節供

旧暦では入梅の頃

五月 さつき れの空に色鮮やかな鯉のぼりが泳ぐ姿は、とても清々しいものです。

東京タワーでは、四月の上旬から東京タワーの高さ三三三メートルにちなんで、鯉のぼり三三三匹を毎年正面玄関に飾っています。

五月は端午の節句関連の季節感あふれる行事が多いのですが、その発端には、 はらえ としての意味もあったとのことです。いろいろな行事の由来をご紹介しましょう。

鯉のぼり

鯉のぼり

『東都歳時記』(一八三八年)によると、五月五日に武家から町家まで七歳以下の男子がいる家では、座敷に かぶと 人形を、戸外に のぼり と紙の鯉形を飾ったとのことです。

鯉については、中国の黄河中流の竜門をのぼった鯉は竜になるという登竜門の伝説から、縁起が良いものと考えられたようです。

江戸の町から始まった紙の鯉のぼりは、その後、布製となって各地に広がりました。

しかし、旧暦の五月五日は今の こよみ の六月中旬、入梅の頃で今とは季節感が違うものでした。

邪気を祓ってくれる菖蒲

前述の『東都歳時記』や『日本歳時記』(一六八八年)などに登場する兜は、頭から菖蒲の葉を何本も垂らした菖蒲兜のようなものでした。

これをさかのぼると、奈良時代、五月五日の節に、天皇が宮廷に仕える者たちに、菖蒲のかずら(髪飾り)をして 参内 さんだい するように命じたということです。

七四七年五月には、 元正 げんしょう 上皇が、
 「昔は五日の節には、常に菖蒲をもってかずらとしていたのに今は行なわれていない。

今後は菖蒲の髪飾りをしないものは宮中に入れないことにする」という みことのり を出されています。

古代「菖蒲」と称されたアヤメやショウブは、その芳香が邪気や病、災厄を祓うと信じられたからでした。

この古代のかずらは、民間では、頭痛持ちの人は、端午に菖蒲を頭に巻くと頭痛が治るという風習として残りました。

また、京都上賀茂神社の五月五日の 競馬会 くらべうまえ 神事では、神事にかかわる神職たちは菖蒲を身につけます。

これらも邪気を祓うという由縁からです。

アヤメ

菖蒲

薬玉や粽による祓い

端午の節句の風習には、「 薬玉 くすだま 」という飾りもありました。『万葉集』や『源氏物語』、『延喜式』などの平安時代の文献にも登場し、公家たちが盛んに行なっていたようです。

菖蒲やヨモギなどを玉のように丸め、これに五色の糸を長く垂れ下げたもので、寝所の柱や 御簾 みす りました。

邪気や悪疫を退けたり長寿を願う まじな いで、小さな薬玉を作って身につけることもあったようです。

公家たちは、薬玉を端午に飾り、九月九日の重陽の節句までかけておき、これを菊の花と交換しました。

食べ物の ちまき にも、祓としての意味合いがあり、広島県の福山では、粽を居間の柱にかけておき、悪夢を見た朝にこれを見ると夢を消してくれるという「夢粽」という風習があったようです。

七月祇園祭の時に販売される粽は食べるものではなく、祓として玄関先に飾り、災難や疫病からその家の住人を守るためのものです。

端午の凧あげ

凧揚げ

凧あげ

五月には、全国で たこ あげが もよお されます。

由来は、中国の明と清の時代に清明節の前の厄祓いとして行なわれていた 紙鳶 とんび あげが関連するといわれています。

清明は、二十四節気の一つで、中国では先祖祭りの日、それに先立って紙鳶で災厄を祓ったのです。

江戸時代の記録では、凧あげの季節は地方によってさまざまだったようですが、その後、お正月と端午の節句が特に盛んになっていきました。

なお、セックは平安時代の言葉では、「せく」「せちく」と言い、祭りが行なわれる節の供え物の意味でした。

そのため江戸時代前期までは、セックを「節供」と書きました。