七夕の由来
七月の祭り
七月を 文月 といいます。文月の語源は、短冊に歌や字を書き、書道の上達を祈った七夕の行事にちなみ、「 文披月 」が転じたとする説が有力とされています。
その他、稲穂が 膨 らむ月であるため、「 穂含月 」「 含月 」からきたという説もあります。
古代、毎年季節の変わり目にあたり祝事をする日「 節日 」が、『 養老令 』(七五七年に施行された基本法令)に定められており、七月七日の 七夕 もその節日の一つでした。
七夕の由来
七夕の伝説は、中国に古くから伝わるお話で、 牽牛星 (鷲座のアルタイル)と 織女星 (琴座のヴェガ)の二星が、一年に一度七月七日が晴れていれば天の河を渡って会えるというものです。
日本でも、年に一度神様の訪れを、水辺の機屋で待ち、神と共に過ごす聖なる乙女 棚機女 の伝説があり、中国の織女星伝説と習合したとされています。
七夕の物語は、日本最古、七世紀後半から 編纂 された歌集『万葉集』に百三十二首も詠(うた)われ(天武・持統天皇の時代)、飛鳥時代には既に日本に根付いていたと考えられます。
また、六世紀中頃中国の長江中流域の年中行事を記した『 荊楚歳時記 』には、七夕の日、各家では『 乞巧奠 』といって、女性が、庭に置いた机に酒や食べ物、 瓜 をお供えし、 針孔 に色糸を通して裁縫の上達を祈ったと記されています。奠とは、供え物の意味です。これが日本にも伝わり、裁縫や書道の上達を祈る祭りが行なわれるようになりました。
正倉院には、銀、鋼、鉄製の七本の針と、白、黄、赤、三色の束が残され、このうち鉄の大針の 孔 には、赤糸が通されたまま残っており、奈良時代には、『 荊楚歳時記 』の 乞巧奠 のような行事が日本の宮中でも行なわれていたと思われます。現在でも、京都の 冷泉家 では、古代に近い形の乞巧奠の行事が行なわれています。
一般には、七夕の日に、短冊に歌や願い事を書き、笹竹に飾り、翌朝には川や海に流す行事が行なわれてきました。
地方によっては、笹竹ではなく馬などの人形が使われたり、 松明 をともす地域もあります。
また、「 七日盆 」といって、七月七日から始まるお盆の行事と習合して、神様や先祖を迎え、夜を過ごした後に送るという意味をもったものと考えられています。