節分祭

節分

節分

二月を 如月 きさらぎ といいます。昔、あまりに寒いので「着た上に更に重ねて着た」(着更着)ことに由来するといわれています。

歳神様をお正月にお迎え

古来日本では、今でいう旧正月に新年を むか えていました。

お正月が三日間お休みになるのは、 歳神 としがみ をお迎えするためで、年の初めに神様が家々を訪れ、一年の実りと幸せをもたらして下さる大切な日と考えられてきました。神様をお迎えするため家を綺麗にし、家内が清浄になった証拠として 注連 しめ 飾りを下げたのです。

古くは、この時期に先祖も来訪すると信じられていました。吉田兼好の『 徒然草 つれづれぐさ 』(鎌倉時代末期の書といわれている)には「 たま まつるわざ」と、お正月に先祖のみたまが帰ってくると信じた、当時の東国の信仰が記されています。

新年(旧正月)の三が日は、神様や祖先をお迎えするため家で過ごし、三が日が過ぎると、人々は 初詣 はつもうで に出かけました。初詣は江戸時代より始まったもので、その年に最良の方位にある神社や仏閣にお参りすれば一年間の幸運が頂けるという 恵方参えほうまいに起源を発しています。

しかし、明治時代以降は、欧米に合わせる形で太陽暦が採用されたため、それまで太陰暦で行なわれていたお正月が一カ月近くずれることになりました。当時、農業関係者を中心にかなりの抵抗があったそうです。

現在、日本では旧正月に新年を祝うことは、中華街を除いてあまりされませんが、中国・朝鮮・ベトナム・シンガポール・マレーシア・インドネシア・ブルネイ・モンゴル等では、盛大に旧正月をお祝いする風習が残っています。

太陰暦での旧正月の日付は、年やその国(位置)によって違い、毎年一月二十二日~二月十九日の間を移動しています。今年の旧正月は二月八日です。

節分

もともと節分とは、立春、立夏、立秋、立冬など、季節の改まる前日のことを呼びましたが、次第に立春の前日だけを指すようになりました。
古代中国では、 大晦日 おおみそか に、邪鬼や疫病を追い払うために、鬼の面をかぶった人を桃の木で作った弓矢で追い払う 追儺ついな という行事がありました。

儺とは化け物のことです。

奈良時代にこれが日本に伝わり、平安時代には宮中で大晦日の行事として盛んに行なわれるようになりました。この頃には、 ひいらぎ の枝に いわし の頭を刺して家の門にかかげる、独特の飾りも広まっていったようです。

柊は毒草で刺(とげ)があり、鰯は 生臭物 なまぐさもの のため、魔除けの効果があると信じられたのです。

豆まきの行事が定着したのは、室町時代中期以降で、江戸時代になると一般の人々の間にも広まりました。本来、旧暦では大晦日の行事でしたが、新暦になり、立春前日に行なう、節分の行事に変わっていったということです。

ちなみに、「鬼は外、福は内」と豆をまくのは、季節の変わり目は、鬼などの妖怪や悪霊が集まり、疫病や災いをもたらすと考えられていたためです。また、「豆をまく」というのは、農作業で畑に豆をまく動作を表わしているともいわれています。

吉田神社の節分祭

節分祭で有名なのは、京都の吉田神社です。室町時代より行なわれ、例年約五十万人の参拝者が訪れます。

二月三日の節分当日祭を中心に、三日間にわたって行なわれます。

二日、午後六時からの「追儺式」では、四つの黄金の目のお面をかぶった 方相氏 そうほうし と呼ばれる者が 陰陽師祭文 おんみょうじさいもん を唱え、 ほこ たて を持ち、赤鬼・青鬼・黄鬼の者を追い払って、人々の幸福と平和を祈願します。

三日午後十一時からの 火炉かろでは、本社前広場に山のように積み上げられた古い御札や御守を き上げます。

また、この節分祭中、当神社で頂く神札神符は 梔子 くちなし 色(少し赤みある黄色)です。この色は、 いにしえ より魔除けの力があるとされています。

京都・吉田神社「火炉祭(節分祭)」

吉田神社の火炉祭
御札など高く積み上げられ焚き上げを多くの参拝者が周囲で見守っている