祈年祭 2月17日

祈年祭

2月17日 五穀豊穣を祈る祈年祭が行なわれる 「年」は「稲」を表わす

神代に、天照大御神が、 高天原 たかまのはら でとれた稲を降臨する 邇邇芸命 ににぎのみこと に持たされて以来、日本人は稲作りを生業とし、米を主食としてきました。

それゆえ、古くは、二月四日(旧暦)に、 祈年祭 としごいのまつり が行なわれました。

五穀豊穣を願う祭りで、秋の収穫祭である 新嘗祭 にいなめさい と対となる大切なお祭りです。

「年」とは穀物(稲)を意味します。穀物は、年に一回 みの ることから、転じて穀物の成熟すること、もしくは穀物そのものを意味するようになりました。

祈年祭では、豊穣と共に天皇陛下のご安泰や国家の安康も祈りますが、その起源は定かではありません。

古語拾遺 こごしゅうい 』(八〇七年成立、古代に祭祀を担当した氏族である 斎部 いんべ 氏が記した歴史書)には、天地主神が御歳神の たたり おそ れて豊穣を祈ったという説が記載されています。また『 年中行事秘抄 ねんちゅうぎょうじひしょう 』(朝廷の年中行事儀式について書かれた公文書)には、天武天皇四年に始まったとあります。

祈年祭が、法律で実施が規定されたのは大宝令(七〇一年制定、日本史上初の本格的な律令:法律)が最初で、奈良時代の『 延喜神名式 えんぎじんみょうしき 』によると、神宮を始め全国二八六一社の神々に 幣帛 へいはく (神前へのお供え)が奉られていました。

詳しくは、朝廷の百官(多くの臣下)を神祇官の 齋院 さいいん (お祀りの場所)に集め、中臣氏が祝詞を奏上し、忌部(齋部)氏が幣帛を有力神社の神主に授け、神宮へは勅使が派遣されたようです。しかし、平安時代の初期から、衰退し始め、応仁の乱(一四六七年)頃には行なわれなくなってしまいました。

それが、明治二年に本格的に再興されました。二月四日に宮中で 頒幣 はんぺい の儀(幣帛を神々に奉る)が行なわれ、各神社では主に二月十七日に行なわれますが、地域や神社によって執行日は違います。

食料自給率が四割を切り、米作りが身近でない人口が増えた現代だからこそ、食事への感謝を起源とする祈年祭には、是非とも祈りを捧げたいものです。