数え年「正月が誕生日」
古来日本では、年齢を数え年で数えていました。数え年では、生まれた日で一歳になり、翌年のお正月で二歳となります。
日本人全てが元旦に一緒に一つ年をとると考えられてきました。七五三、厄年祓い、年祝いなどは、数え年で行なうのが通例です。
長寿を祝う儀式を「年祝い」といい、 還暦 (六十歳)、 古稀 (七十歳)、 喜寿 (七十七歳)、 傘寿 (八十歳)、 米寿 (八十八歳)、ruby> 卒寿 (九十歳)、 白寿 (九十九歳)です。還暦は、十干十二支の組み合わせが六十年で一巡して初めに戻る、つまり暦がもとに還る、これが呼称の由来になっています。
広い意味で年祝いには、幼児期から始まる人生儀礼も含まれます。
ある年齢に達した者が、神事に参与する資格が得られる例が多くみられます。三・五・七歳の子供が、 稚児 (祭礼などの行列に美しく装って練り歩く児童)や 神役 (神に仕える役目)に選ばれたり、十三歳や二十五歳で神輿担ぎやその他の役割を与えられたり、四十二歳、六十一歳という厄年に地域の祭礼組織の一員に迎え入れられたりしました。
昔、村落社会で宗教的な役割を与えられるということは、社会的に認められることを意味していました。
「 髪上祝 」は、数え十三歳の少女に行ないます。自分の生まれた時の干支が初めて一巡する年であり、身も心も大人の女性へと成長する年齢です。日本女性を「 大和撫子 」「 手弱女 ぶり」と 称 えてきたように、心清らかで、勇気・機転・情愛を持ち合わせた大人の女性に成長してほしいと願いお祓いします。
「 元服祝 」は、数え十五歳の少年に行ないます。かつて武家の子息は元服(十五歳)を迎えると、神社で武運長久を祈りました。一人前の男として社会の仲間入りを果たすことを意味します。強い身体と精神力を持った「 益荒男 」として、雄々しく男らしく成長するよう願いお祓いします。
数え年の風習に従って、年祝いはお正月に参拝された時に行ないます。
日本人全員がお誕生日を迎えた数え年でのお正月は、 目出度 さも格別だったことでしょう。
節会 や 節供
古代の朝廷では、季節の節目である節日を法律(養老雑令)で規定し、毎年宮中で年中行事を行ないました。
一月一日元旦節会
一月七日白馬節会 ―宮中の 紫宸殿 で白馬を 天覧 ののち、群臣に 宴 を 賜 わる儀式。この日に青馬を見ると年中の邪気が除かれるという中国の故事によります。
一月十六日踏歌節会 (天皇陛下が歌舞をご覧になります)
三月三日曲水宴 ―庭園の曲水に 沿 って参会者が座り、上流から流される杯が自分の前を通り過ぎる前に詩歌を詠む 宴 です。
五月五日端午節会
七月七日相撲節会 ―宮中相撲。現存する最古の記録は、聖武天皇の七二六年です。
九月九日重陽節会 ―邪気を払ってくれるといわれる菊に長寿を祈る日。陽つまり奇数の中で一番大きな九が重なる日という意味で重陽といわれます。
新嘗祭や大嘗祭の翌日豊明節会 ―天皇陛下が紫宸殿に出て新穀を召し上がられ、群臣にも賜りました。
また、平安以降、神宮や有力な二十二社では、年中行事として、農耕祭祀、節日神事、仏教法会が共通して行なわれてきました。節日神事として、節供(節句)の日に、季節の品々を神前にお供えしました。
一月一日白散 ―白散とは新しい年の健康を祈って、 屠蘇 酒などと共に元日に服用する散薬で、 白朮 ・ 桔梗 ・ 細辛 などを刻み、等分に調合したものです)
一月七日七草
三月三日草餅・桃花
五月五日菖蒲
七月七日麦縄 ・素麺
九月九日菊花
「節」というのは、中国からきた言葉で、中国の風習が日本に伝来しました。有史以来、日本は様々な事柄を諸外国から取り入れて、独自の発展を遂げたように、日本のお祭りに取り入れられたのでした。
古代の相撲節会を知ると昭和天皇の天覧相撲が身近に感じます。また、一月一日に白散という薬を神様にお供えしたとは、健康を祈る気持ちは、昔も今も変わらないと痛感します。
なお、江戸幕府は、江戸時代の初期に、五節供を決めて、この日は必ず目上の者の家に祝賀に行くべきと定めたということです。国民が休日になる祝祭日が出来たのは、明治期に入ってからです。