5月のお祭り

五月を 皐月 さつき といいます。「さ」は、田の神に由来して神聖さを示しています。神話の時代、天照大御神から稲を頂きましたが、神々に供物として ささ げる神秘的な穀物である稲の、田植えの月であることから、五月を「さつき」と呼んだのでしょう。

五月五日、 端午 たんご の節句は、中国から伝わった 重陽 ちょうよう という考え方によります。一月一日、三月三日、七月七日のように、月と日が重なる日を縁起がよい日とみたのです。

旧暦では、四月から六月までが夏でした。この時期は、草木が芽吹き花々が咲き競い、旺盛な生命力を感じます。

六世紀頃の中国の古い書物『 荊楚歳時記 けいそさいじき 』に、中国の人々が健康や長寿を願って菖蒲を用いたとあります。日本でも、菖蒲など香りの強い植物に 魔除 まよ けの力を認めていたことが、奈良時代の『 続日本紀 しょくにほんぎ 』などに記載が見られます。

祭といえば葵祭

五月十五日に、京都で行なわれる賀茂祭は、祭儀にかかわる全ての人たち、また社殿の御簾(みす)や牛車に至るまで、二葉葵を飾ることから、「葵祭」と呼ばれています。

上賀茂神社と斎王桜

上賀茂神社(京都府)社殿と境内にある斎王桜

天皇陛下の祭祀である賀茂祭は、春日神社の春日祭、 石清水 いわしみず 八幡宮の石清水祭と共に、三勅祭(さんちょくさい)と呼ばれ、上賀茂神社( 賀茂別雷神社 かもわけいかづちじんじゃ )と、下賀茂神社( 賀茂御祖神社 かもみおやじんじゃ )で行なわれます。

同神社の伝承では、起源は、太古、 別雷神 わけいかづちのかみ が、現社殿の北北西にある 神山 こうやま に御降臨され奥山の 賢木 さかき を取り 阿礼 あれ (神様が降臨される際の しろ )に立て、種々の 綵色 いろあや (物に色をつけること)を飾り、走馬を行ない、祭を行なったとされます。

六世紀、欽明天皇の時代、日本中が風水被害にあい国民の窮状が はなは だしかったため、勅命により卜 部伊吉若日子 うらべのいきわかひこ (卜部氏は亀甲を焼いて吉凶を占う古代の氏族)が占い賀茂大神の たた りであると奏上しました。そこで、四月(旧暦)吉日を選び、馬に鈴を け、人々は 猪頭 いのがしら をかぶり、盛大に祭を行なったことが、賀茂祭の起こりであるとされています。

さらに後、奈良時代(七一一年)、元明天皇が、 国司 こくし (現在の知事)に、賀茂祭には毎年祭場に出向いて祭が無事行なわれているか検察せよと命ぜられました。

平安時代には、平城天皇が八〇七年、勅祭(勅命により行なわれる祭祀)として賀茂祭を始められ、嵯峨天皇が、八一〇年、伊勢の神宮の斎宮の制度にならって、斎院(斎王)を定められ、祭に奉仕することになりました。賀茂に斎院の置かれた期間は、八一〇年から一二一二年のおよそ四百年間で、三十五代に及びました。当時、伊勢の神宮と賀茂社の祭は、最重要とされました。

そのため、祭儀は一般の拝観が殆ど許されず、祭の当日、御所から社への様子を一目拝観しようと上皇・法皇(譲位したり出家した先の天皇)でさえ牛車を押し並べ、或いは桟敷を設けて見学しました。さらに、京や地方から上京してきた人達も加わり街は人で溢れたといわれています。

拝観場所をめぐる車争いのことが『源氏物語』にも描かれ、他にこの時代の日記・書物等に賀茂祭をただ「祭」とのみ記したものが多くあるのは、賀茂祭の祭儀がかくも盛大であったためでしょう。

ただ、ほかの祭と同様、朝廷の力が低下した室町時代中期頃から次第に衰微し、応仁の大乱以降は廃絶してしまいました。

しかし、江戸幕府や明治天皇によって再興され、昭和三十一年には、斎王に代わる「斎王代」を中心とする女人列も復興され、現在に続いています。

双葉葵

双葉葵

立葵の花

立葵の花 いろいろな種類がある

祭祀の発展形を示す

葵祭が大変興味深い点は、葵祭という一つの祭に、古代からの祭祀の発展が見られることです。

太古の人々は、自然やその変化に、神々の存在を感じ、万物に神が宿ると感じていたと考えられます。

また、大神神社の 三輪山 みわやま 、春日大社の 御蓋山 みかさやま 、この上賀茂神社の神山など山への信仰がありました。

そして、大自然から神様をお招きし、感謝と祈りを捧げる祭祀を行なうようになりました。神様に、祭祀の度に御降臨して頂き、その際に、依り代として、 磐座 いわくら (岩)・ 神籬 ひもろぎ (常緑樹やそれを囲った物など)を用意するようになりました。

その後、祭の時のみ御降臨される神様から、常にいて頂く「常在」の形に変化していきました。その神様のお住まいとして、神社が作られるようになったのです。社殿の建設には、常在の寺院を持つ仏教の影響もあったといわれています。

ところで、葵祭では、五月十五日の社頭の儀(神社での祭祀)に先立って、古来から、上賀茂神社では 御阿礼神事 みあれしんじ 、下賀茂神社では 御蔭山御生神事 みかげやまみあれしんじ と称し、神様においで頂く神事を行なっています。

御阿礼神事は深夜に行なわれ、秘儀として奉仕する神職たちによって代々伝えられてきました。

神様に降臨して頂く神山と、本殿とを結ぶ線上、本殿の後方、五百メートルのところに、 御阿礼所 みあれどころ と呼ばれる依り代が作られます。

四方を垣根で囲って、その内部に、「 阿礼木 あれぎ 」という榊を立て、その根元に、丸太二本を斜め前方に扇状に出した「 休間木 おやまぎ 」を取り付けます。

中世の記録によると、山から御越し頂いた神様を、御阿礼所の阿礼木に 御遷 うつ しした後、 しゃく を打ちながら秘歌を声に出さずに歌いながら、さらに本殿まで御遷り頂いたようです。また、下賀茂神社の御蔭山御生神事(御蔭祭)は、昼間に行なわれます。御蔭山に祀られている御蔭神社において、祭神の 荒御魂 あらみたま (荒々しいほどに活力のある状態)を 生木 あれき に遷し、神馬の背に乗せて、 錦蓋 きんがい (御神体を覆う絹の布)で覆い鉾などの神宝類を捧げ持った神職と共に神幸します。

このように両社ともに新たな神霊を迎えることによって、賀茂祭を行なうことが可能となるのです。

このように上賀茂神社で、祭祀の三段階の発展として、神山「 磐座 いわくら 祭祀」→御阿礼所「 神籬 ひもろぎ 祭祀」→上賀茂神社本殿「社殿祭祀」という流れが、一つの祭の中に見てとることができます。

御阿礼神事は深夜に行なわれ、秘儀として奉仕する神職たちによって代々伝えられてきました。

神様に降臨して頂く神山と、本殿とを結ぶ線上、本殿の後方、五百メートルのところに、 御阿礼所 みあれどころ と呼ばれる依り代が作られます。

四方を垣根で囲って、その内部に、「 阿礼木 あれぎ 」という榊を立て、その根元に、丸太二本を斜め前方に扇状に出した「 休間木 おやまぎ 」を取り付けます。

中世の記録によると、山から御越し頂いた神様を、御阿礼所の阿礼木に 御遷 うつ しした後、 しゃく を打ちながら秘歌を声に出さずに歌いながら、さらに本殿まで御遷り頂いたようです。また、下賀茂神社の御蔭山御生神事(御蔭祭)は、昼間に行なわれます。御蔭山に祀られている御蔭神社において、祭神の 荒御魂 あらみたま (荒々しいほどに活力のある状態)を 生木 あれき に遷し、神馬の背に乗せて、 錦蓋 きんがい (御神体を覆う絹の布)で覆い鉾などの神宝類を捧げ持った神職と共に神幸します。

このように両社ともに新たな神霊を迎えることによって、賀茂祭を行なうことが可能となるのです。

このように上賀茂神社で、祭祀の三段階の発展として、神山「 磐座 いわくら 祭祀」→御阿礼所「 神籬 ひもろぎ 祭祀」→上賀茂神社本殿「社殿祭祀」という流れが、一つの祭の中に見てとることができます。

葵祭 斎王代

葵祭「路頭の儀」では約8キロ、平安装束をまとった人々が練り歩く
上賀茂神社境内に入った斎王代と女人列