維摩経 の教義
維摩経とは
維摩経 只管なる菩薩道
維摩経の教義は、釈尊の本来の教えを根底に据えつつ、俗世に生きる者が如何にして仏道を歩むべきかを示す、崇高で深遠な教えである。この教えは、悟りへの道を進む者が、煩悩に満ちた現世においても、智慧と慈悲を実践し、仏果を目指す姿勢を説いている。
空の本質と縁起の理法
釈尊の教えにおいて、すべての現象が「空」であると説かれるが、維摩経はこの「空」の教えをさらに深化させる。空とは、実体のないものであり、すべてが縁起によって成り立つものである。現世に生きる者は、日々の煩悩に囚われることなく、この空の理法を理解し、無常なるものに対して執着を離れるべきである。縁起の法則を知ることで、すべての事象が因果の連鎖にあることを悟り、無明を断つ智慧を得ることができる。
菩薩道の実践と大乗の精神
維摩経は、大乗仏教の精神を体現するものであり、釈尊の慈悲の教えを具体的に示している。菩薩道とは、自己の解脱を超えて、あらゆる衆生を救済することを目的とする道である。俗世に生きる者は、この大乗の精神を心に抱き、他者の苦しみに共感し、その救済のために尽力すべきである。これは、大慈悲心(大悲)をもって生きることであり、衆生と共に歩みながら、共に悟りへと至る道を示すものである。
智慧と方便の融合
釈尊は智慧の重要性を説かれたが、維摩経においては、智慧と方便の融合が強調されている。智慧は物事の本質を見極める力であり、方便はその智慧を用いて衆生を救済するための手段である。現世に生きる者は、単に智慧を追い求めるのではなく、その智慧をどのように実践に結びつけるかを考えなければならない。智慧に支えられた方便を用いて、他者を導き、共に悟りの道を進むことが仏道を歩む者の使命である。
無我と無相の理解
釈尊の教えにおいて、無我の理解は解脱の鍵である。維摩経は、この無我をさらに深め、無相という概念を示している。無我とは、自己という固定された実体が存在しないことを理解することであり、無相とは、すべての現象が固定された形を持たないことを示している。俗世に生きる者は、この無我と無相の真理を深く理解し、自己への執着を断ち切ることで、心の平安と解脱を得ることができる。
菩薩の行動範囲と現世での実践
維摩経は、菩薩の行動範囲を明示し、俗世に生きる者が如何にして仏道を実践すべきかを教えている。菩薩は、煩悩に囚われず、無常の世界においても智慧と慈悲をもって行動する存在である。現世に生きる者は、この菩薩の精神を手本に、苦しみや困難に直面しても動揺せず、常に仏道を歩むべきである。これは、涅槃を目指しながらも、衆生の救済を第一に考える菩薩道の実践である。
涅槃の超越と菩薩の誓願
釈尊は涅槃の境地を説かれたが、維摩経は、菩薩が涅槃に安住することなく、衆生のために輪廻にとどまることを教えている。これは、菩薩が無限の誓願をもって衆生を救済するために生きる姿勢を示している。現世に生きる者もまた、この菩薩の誓願を胸に刻み、自己の解脱だけを求めるのではなく、他者の苦しみを共に背負いながら、共に悟りへと至る道を歩むべきである。
仏国土の荘厳と衆生救済
維摩経は、悟りを得た菩薩が仏国土を荘厳する力を持つことを説いている。仏国土とは、悟りを得た者が住まう理想郷であり、その国土は菩薩の功徳と智慧によって輝きを増す。俗世に生きる者は、自らの行ないと智慧を通じて、仏国土を荘厳し、その光輝を通じてさらに多くの衆生を救済することを目指すべきである。これは、釈尊の教えを実践し、現世においても仏の国土を築くための道である。
維摩経は、釈尊の本来の教えを忠実に受け継ぎつつ、仏道を歩む者が如何にして俗世においても悟りへの道を歩むべきかを示している。仏道を歩む者は、この教えを深く理解し、実践し、真の解脱と衆生救済を同時に成就することを目指すことが望まれる。
続いて維摩経の内容を、維摩尊者が登場される「方便品第二」から掲載する。
方便品第二
虚妄なる身体の儚さを知り、如来の法身を希求する
維摩尊者(ヴィマラキールティ)は、古代インドのヴァイシャーリー大都城に住む資産家であり、在家の仏教者である。過去生において多くの諸仏に仕え、深い智慧と雄弁さを身に備えておられた。仏陀と同じ行状に立ち、心の大いなること海の如きであった。世俗にありながらも心は執着から離れ、常に純潔の行を実践し、衆生を導くために巧みな方便を用いられた。
ある時、維摩尊者は巧みなる方便により自らに病気を現された。そして、見舞いに訪れた国王や大臣、長者、在家信者、バラモン、そのほか、多くの王子や官吏たち幾千人もの人々を前に、この身体の虚妄なることと、如来の法身について説かれた。
維摩尊者は次のように説かれた。この身体は非常に頼りなく、泡沫や泡、陽炎のように儚く、煩悩や渇愛から生じている。この身体は顚倒した誤った考えから生じており、夢や影のように虚妄なるものである。過去の宿業や様々な因縁によって存在している。この身体は雲のように混乱し、稲光の閃光のように刹那ごとに滅し、永遠に留まることはない。そこに主体はなく、外界の条件や因縁によって生じているのである。この身体には永遠不滅の実体はなく、自然原理によって構成された空なる存在である。そこには「我」も「我がもの」もない。また、この身体は不浄であり、常に病に悩まされ、老いや死に向かい、死を結末とするものである。だからこそ、この身体に執着するのではなく、如来の身体を願い求めなければならない。
そして、維摩尊者は如来の法身について次のように説かれた。
如来の身体とは、永遠不滅の真理そのもの(法身)であり、量り知れない多くの功徳と*智慧から生じるものである。布施、持戒、*三昧(瞑想)、智慧、解脱、解脱したことを自覚する知見から生じ、慈しみや憐れみ、喜び、平等な心といった*四無量心など、すべての徳から如来の法身が生じる。また、精進、忍耐、*四種の禅定、*八種の解脱、三昧といった修行や、仏に特有の智慧である*十力、仏に備わる十八の特質である*十八不共法、 *六波羅蜜の完成された徳もまた、如来の法身を生じさせるものである。
さらに、悪を断ち切り、善を積み、真実に基づいて生きること、放縦に流れない善の心(不放逸)も如来の法身を生じるものである。人々はその如来の法身に対して強い尊敬と渇望の念を抱くべきである。そして、仏身を得て、一切衆生の病を断じようと欲するならば、正に最高の悟りである*
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*四種の禅定・・・四禅。仏教の修行において瞑想や禅定の過程で到達する4つの精神的な集中状態(禅定)を指す。初禅、第二禅、第三禅、第四禅の四つの段階を経ることで、煩悩や感覚的な束縛から解放され、悟りに向かって進むための基礎が築かれます。
*八種の解脱・・・八解脱。仏教の修行において、煩悩や執着から解放されるための8つの瞑想のステップを指す。
*十力・・・仏陀が悟りを得た後に持つとされる10の特別な智慧や力を指す。
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仏国品第一
菩薩の清らかな心によって仏の国は現れる
アームラパーリーの森で多くの菩薩や出家者や信者たちを前に説法をされていた釈迦牟尼仏陀に、リッチャビ族の五百人の若者を代表し宝積菩薩(ラトナーカラ)が、菩薩たちにとって仏の国土の完全な浄化とは何でしょうかと質問すると、世尊は御答えになった。
菩薩にとって、衆生こそが仏国土であり、菩薩が衆生を導き利益を与えることで仏国土が成り立つこと、菩薩は清純な心である直心に従うとき、正しい行ないをなすようになり、すると深く道を求める心である深心が得られる、次には心も悪を捨てて善に従うようになり、教えの通りに行なうようになり、得られた功徳を他に振り向けて与えて廻向するようになり、すると巧みな手立てがなされるようになり、世の人たちを正しく導くようになり、そうなることで仏の国も清浄となり、説かれる教えも清浄となり、智慧も心も清浄となり全ての功徳も清浄となる。
であるから仏国土を清浄と望むときには、その心を清浄にしなければならない、と説かれた。
そのとき、智慧第一の舎利弗尊者は、世尊の不可思議な力によって疑問を抱き、この世が不浄であるということは、世尊が菩薩であられたときに御心が清浄でなかったからなのだろうかと心に思った。
それを察知された世尊が日や月が不浄であるから目の見えない人がそれを見ないのか?と問われると、それを聞いた梵天王は、心に分別があるため、仏の智慧を持たない者にはこの世界が不浄に見えるが、仏の智慧で見ると仏国土の清浄さが見えるのだと述べた。
そのとき世尊は不可思議な力を使い、清らかで荘厳なる仏国土を現し、この仏の国土はいつもこのように清浄であり、衆生を悟りに導くために一時的に不浄に見せているに過ぎないこと、心が清浄であれば、その荘厳なる世界を見ることができることを説かれた。
これを受けて、説法に集っていた人々は、現象である*有為法はすべて無常であることを理解し、それぞれ真理に目覚め、心の安らぎである*無生法忍を得るとともに、最高の悟りを求める心を起こした。
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弟子品第三
維摩尊者は世尊(釈迦牟尼仏陀)の十大弟子たちに向け、彼らを論破する形で、仏教の修行と悟りの本質を説く。
坐禅、説法、乞食、心の在り方など、弟子たち各々の修行の在り方に対して、それらの表面的な理解を超えた真理を示し、実相は空であり、日常生活の中で煩悩を超越し、本質を理解することが重要であると説示する。
悟りへと導く手立て
維摩尊者は、世の人々を巧みな方便を使って正しく悟りへと向かえるように教えを説いていた。ご自分が病気になったという方便を使い、各所から見舞いに来る様々な人々に対して説法した。しかし、その中には世尊の弟子たちは来ていなかった。
そこで、維摩尊者は、果たして世尊は弟子らを見舞いにはよこさないのだろうか、と思うと、その思いを察知された世尊は、弟子たちに見舞いに行くようにと言うのだった。しかし弟子たちは、以前、維摩尊者に厳しく論破されたことを思い出し、行くのを躊躇するのであった。維摩尊者が世尊の弟子たちに指摘、説法したことは自らの悟りを求める修行のみならず、衆生を悟りへと導く修行の重要性であった。
1. 智慧第一の舎利弗(シャーリープトラ)尊者に説いた正しい坐禅とは
真の坐禅とは、この*三界に身をおきながらも、心身の働きを現わさず、心の働きを滅した状態(滅尽定)で、全ての日常において正しく立ち居振る舞うことである。
悟りを達成した感覚を持っていても、外からの見た目はごく普通の人でありなさい。
心が常に内にこもるのではなく、また外に向かい乱れることなくいることである。
*邪見に陥ることを恐れ避けるのではなく、*三十七道品を修して悟りへと至れるよう、そのように生きることである。
維摩尊者は、煩悩にまみれた日常を捨てて静かな場所でただ坐禅をするのではなく、凡俗の日常を凡夫としてごく当たり前に生きながら、悟りへの道をひたすらに歩むことが真の坐禅なのだ、ということを説かれた。
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2. 神通第一の大目連(マウドガリヤーヤナ)尊者に説いた正しい説法とは
説法とは法を説くこと。法とは真理のことである。法とは、衆生の汚れを離れた清浄なものであり、我執はなく、生死を離れ、不生不滅である。また、認識・判断することなく、形なく、因も無いゆえに縁も生じず、実体のないものである。
ならば、そのような法をどうして説くことができるのであろうか。
法とは、相(かたち)のないものであるから、説くことも聞くこともできないものだという、これらのことを真に分かった上で大いなる*慈悲をもって説くのである。それには、聞く側の能力をよく理解し、それぞれに合わせて説かなければならない。
仏陀への恩を胸に、法の真の意味を知り、解脱へと向かうために心を浄らかにすることに努める道を絶やさないために、そして、そのように衆生がその正しい道を歩んでいけるよう、慈悲の心をもって相手に合わせ伝え広めていかなければならないことの重要性を説かれた。
*慈悲・・・「慈」はサンスクリット語のマイトリーmaitrī(友情)で、深い慈しみの心、「悲」はカルナーkarunā(同情)で、深い憐 (あわれ) みの心をさす。
3. 頭陀第一の大迦葉(マハー・カーシャパ)尊者に説いた正しい乞食 平等心とは
貧富の家を区別し乞食に行く大迦葉にそのように偏ったことはすべきではないと諭した。
常に一切衆生を想い乞食すべきである。食す必要がない(涅槃)ために、食することの執着を断じるために、男女の差別なく教化するために、すべての人々が仏陀の子孫であるとの思いで乞食するのである。そして、施食は受けないことによって食すのである。
村には何もないとの思いで入り、見るもの、聞こえるもの、臭うもの、触れるもの、食するもの、それらについて良いとか嫌だとか、食するのに汚れているとかいないとかと分別(認識・判断)することなく食すのである。また、施食する者の受ける果報の大小はなく、優劣もない。すべては平等である。また、自他に本性はなく、すべてのものはその*実相は空であると知り、その分別する迷いの心*(八邪)を捨てずに、その心のままにそれを通して修行をし、正しい悟りへと向かわなければならない。
すべてのものは平等である。平等なる心のもとに慈悲心をもって修行、教化することの重要性を説かれた。
*実相は空・・・すべての存在の本質が実体を持たず、相対的であり、固定されたものではないことを示す。これは、現象の真実の姿が「空」であり、執着や固定観念を超越した境地であることを意味する。
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4. 解空第一の須菩提(スブーティ)尊者に説いた心の有り様とは
どのような心を乱されるような言動に直面しても惑わされ恐れてはならない。一切のものは化作(けさ)された幻影に過ぎないのである。
あらゆる一切のものは*自性を離れたものであり、その真相をみれば空無であり、また仏の*実相をみればまたそれも空無である。
ゆえに俗世の日常において、あらゆることに心が因われるべきではないということを説かれた。
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*実相・・・物事や現象の究極の真実の姿を指す。仏教においては、あらゆる現象が無常であり、無自性であるという真理を意味し、固定された実体や本質がないこと、すなわち空であることが示される。この理解により、執着や誤った見解から解放される智慧を得る。
5. 説法第一の富楼那(プールナ)尊者に説いた相手の心に合わせた説法とは
説法をする際には、無心の境に入り、相手の心をよく観察してから為すべきである。
広い道を行こうとしている人に狭い道を教えたり、太陽の光と蛍の光とを同じようなものとしたりしてはならない。そのように、衆生の能力(機根)を見ずに説法するのではなく、それぞれの機根に合わせて、その者たちが阿耨多羅三藐三菩提(正しい悟り)を得るために正しく歩めるよう説法しなければならない。
相手の能力に応じて各人に必要な説法をすることが、衆生を悟りへと導くためには重要であることを説かれた。
6. 論議第一の迦旃延 (カーティヤーヤナ)尊者に示した真理の教えとは
過去に生じたこともなく、未来に生じることもなく、現在に存在していることもなく、また過去に滅したこともなく、未来に滅することもなく、現在に滅することもないこと。すべてのものは生ずるのでも滅するのでもない。それが無常ということである。
また、この身を構成する五つの要素である色・受・想・行・識である*五陰は苦を生じる根本である。
そして、その身も心も因と縁によって仮に成り立っている*仮和合であり、故に自性なく、空なのである。
また、実体としての我が有ることと無いということは*不ニであるということ、それが無我である。
そして、自性も、他性も無いゆえに生じるものがない。本来存在するものがないということは寂滅(消滅)することもなく、寂滅(消滅)しないもの、それが寂滅(究極の悟り)である。
このように、無常、苦、空、無我、寂滅について説かれた。
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*不二・・・すべての対立や二元性を超えた究極の真理を指す。全ての存在が本質的に一つであり、煩悩と悟り、世俗と真理が本質的に一つであることを示す。悟りの境地において一切は不二であり、清らかな一体の真理に帰する。
7. 天眼第一の阿那律(アニルッダ)尊者に説いた真の天眼とは
真の天眼(神通を得た眼)とは、どのようなものであるのか。
もし*有為の世界が見えるなら、*外道の五神通と変わらない。また、*無為の世界が見えるとなると、それは本来、形がないのだから見ることはできない。
真の天眼を持つ者は釈迦牟尼仏陀のみであり、その真の天眼とは、一切の仏国土が見えている。それは、有為、無為ということ、また、見える、見えないといったように、すべてのことを二つに分けて見ない、分別して見ることはないものであると説かれた。
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8. 持律第一の優婆離(ウパーリ)尊者に説いた罪性への対処とは
なぜ罪を犯すのか。罪が心の内にあるのでも外にあるのでもなく、どこにあるのでもない。心もそれと同様であり、あらゆる一切のものがそのようであるのだ。もとより罪があるのではなく、*因縁所生であり汚れた心が罪を起こすのである。すべての人の本性である*真如は清浄である。そのように心が汚れなく清浄であれば、世のすべても清浄である。*顚倒する虚妄な分別それこそが汚れであり罪を起こすのである。
顚倒も妄想もなければ罪も起こらず、すべては清浄な世界となるのであると説かれた。
*因縁所生・・・すべての現象が原因と条件(因縁)によって生じることを示す仏教の基本的な教え。固定的な実体を持たず、相互依存によって成り立つ存在であり、この理解は無常と空の真理を表す。
*真如・・・物事や現象の究極の真理そのものを指し、あらゆる現象の背後にある変わらない本質を意味する。仏教においては、すべての存在が無常で無自性であるという真理を体現し、実相とも同義とされる。真如を悟ることにより、真実の智慧が得られ、迷いから解脱する道が開かれる。
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9. 密行第一の羅睺羅(ラーフラ)尊者に説いた真の出家とは
出家とは、出家することで何か利益を得るというものではなく、利益も功徳もないものである。出家するということは、形のないものであり、形を離れたものである。*涅槃を求め行く道であり、多くの魔を降伏し、五道(迷いの世界)を乗り越え、*五趣から救済し、*五眼を清め、*五根を整え、*五力を得る。悪を遠ざけ、*外道を説き伏せ、*仮名に執われず、自我に着することなく、心の内やすらかに法悦の喜びを抱き、人々の心を傷つけることなく、よく禅定し、あらゆる過ちから離れるのである。
そのような心で日々を生き、悟りへの道を歩み修するのである。それが真の出家であると説かれた。
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10. 多聞第一の阿難陀(アーナンダ)尊者に説いた仏の病の真の意味とは
本来、仏が病になることはない。如来の身体はあらゆる汚れのない*法身であり、生滅無常の*色身ではない。仏の病とは方便であり、仏の色身のみを見て衆生に語れば、衆生に誤った思いを抱かせ、道をはずさせてしまいかねない。
仏は、この世においては色身でもあり法身でもあることを忘れてはいけない。そして、仏は、*五濁にまみれた悪世において現われ、その中で凡俗の者たちと共にしながら衆生を教化し、救うのだということを説かれた。
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菩薩品第四
衆生もまた悟りへと至る
弥勒菩薩に説かれた悟りとは
釈迦牟尼世尊は次に弥勒菩薩に、維摩尊者の見舞いに行くよう御声をかけられたが、弥勒菩薩は過去に維摩尊者から言われたことにより見舞いを固辞するのだった。
維摩尊者は、弥勒菩薩があと一生だけこの迷いの世界に居て、次にはこの上ない正しく完全な悟りである阿耨多羅三藐三菩提に到る「一生補処」を予言されていることに対し、過去・未来・現在のうち、どの生によって何を予言されているのかを問われた。更に尊者は、過去の生は過ぎ去り既に滅しており、未来の生もまた未だ到達していないと述べられ、人は瞬間瞬間に生まれ生老病死を繰り返し、時間や生死の概念は本質的に空であり、固定的なものではないと指摘された。また、あらゆる聖者に具わっている真如は、弥勒菩薩にも、一切の衆生にも平等に具わっており、あらゆる衆生が悟ることが悟りであり、あらゆる衆生が完全なる滅度に入らない限り、如来たちは完全なる滅度に入ることはないと説かれた上で、あらゆる存在は完全なる滅度に入り、涅槃の安らぎの本性を具えていることを説示された。そして、悟りとは何であるかについて様々に説かれ、虚妄分別した考えを捨てなければいけないとされ、悟りとは目に見えるものや、言葉で表せるものではなく、あらゆる場所に存在し、誰もがその中にあるが、それは、身体によっても、言葉によっても、心によっても悟ることはできないのである、と説かれた。
光厳菩薩(プラバーヴューハ)に説かれた悟りへと向かう修行道場とは
世尊は光厳菩薩に見舞いに行くよう御声をかけられたが、やはり光厳菩薩も慰問を辞退した。その理由は、嘗てヴァイシャ―リーの城門に入って来た維摩尊者に、光厳菩薩が、どこからいらしたのかと声をかけた際、尊者は悟りの道場から来たと言われ、悟りへと向かう道場とは何たるかを説かれた。維摩尊者は、日常の常住坐臥、一挙手一投足が修行の実践であり、悟りへと向かう修行場であると説かれたのであった。
無尽灯の法門の教え
次に世尊は、持世菩薩に御声をかけられたが、持世菩薩も見舞には行けないと嘗ての体験を語った。持世菩薩は、二千人の天女を引き連れて近づいて恭しく礼拝した悪魔のパーピーヤスを帝釈天と見間違え、悪魔から天女たちを侍女として与えると言われ、そのような戒律に背くものは出家僧には相応しくないと固辞した。正にその時、維摩尊者が現われて、それが悪魔であり、持世菩薩を惑わし乱そうとして近づいたことを暴き、悪魔に対し、天女たちを在家の尊者に与えるようにと説かれると、悪魔は恐れおののき姿を隠そうとしたが、尊者の神通力によって叶わず、尊者に天女を与えて悪魔の宮殿に戻って行った。
尊者が天女たちに向けて説法されると、天女たちは覚りへと向けて発心した。尊者は天女たちに法の喜びを楽しみ、もはや*五欲の楽しみを願ってはならないと説かれた。
天女たちの法の喜びとは何か、の問いに対し、尊者は、浄らかに信じ、真理の教えである法を聴くことを熱望すること、執着を去ること、布施、禅定、努力精進によって善なる果をもたらす行ない、智慧によって煩悩を断つこと、悟りを目標とし、定められた時でなければ悟りに至らないとすること、同学の人に親しみ、同学でない者にも憎悪なく衝突もしないこと、善なる友に対して奉仕し、悪しき友に対し悪の除去を行なうこと、*三十七道品を怠りなく行なう喜びなど、あらゆる法の喜びについて説かれたため天女たちは再びと五欲の楽しみを願うことはなかった。そして、尊者は、尽きることのない燈火について、悟りを求める菩薩の思いは減ることなく欠けることもなく増大し、あらゆる善き法も同様に、他者のために説き示せば説き示すほどに高まり強くなる、これが、尽きることのない灯であり無尽灯の法門にほかならない、と悪魔の宮殿に戻る天女たちに、そのように説かれ、天女たちは尊者を礼拝して悪魔の宮殿へと戻った。このような自在の力を持つ維摩尊者の見舞いに行くことに耐えられませんと、持世菩薩は語った。
*五欲の楽しみ・・・人間の五感(眼・耳・鼻・舌・身)を通じて得られる快楽
*
須達多(スダッタ)長者に説かれた正しい布施とは
世尊は、今度は須達多長者に向けて、維摩尊者の見舞いに行くように言われたが長者もまた、見舞いに行くことはできないと言うのだった。
ある時、長者が自分の父の邸宅にて、すべての貧しく困窮している人たちや、出家者や、バラモン、憐れむべき人や物乞いや乞食たちのために七日間の盛大な布施の催しを行なっていると、維摩尊者が現われて、このようなやり方の施しの催しは行なわれるべきではなく、法を施す催しを行なうべきであることを説かれた。
法の施しには七日間という期間もなければ、始まりも終わりもなく、法の施しによってあらゆる衆生が完成させられることを尊者は説かれた。そして更に、法の施しとは、*四無量心であり、*六波羅蜜の実践であり、*四摂法であることなど衆生を悟りへと導くあらゆる実践と手立てを示され、もし菩薩で、真実を解き与える施しを行なう人は、最も優れた施主であることを説かれた。その時、バラモンの二百人が至上最高の悟りへと発心し、長者の心もまた清浄となり維摩尊者の足元に礼拝し、身につけた何十万という瓔珞を捧げたものの、尊者は御受取りになられず、更にお納めくださいと御願いすると、尊者はそれらの瓔珞を二つに分けて半分をその催しのなかで一番気の毒な乞食に施され、もう半分を難勝如来に奉られた。そして尊者は不思議を現わされて、このように説かれた。もし平等の教えに入って智慧を起こし、正しいことはすべて行なって、悟りに向けての修行法をすべて行なうならば、それを真実を説き与える施しというと説示された。その御教えを拝聴し、その場のバラモンたち二百人が発心をし、私の心も清らかとなり、そういうわけで見舞いに行く任には堪えないことをお話しした。
更に、多くの菩薩もそれぞれ世尊に対し、かつての維摩尊者の経験を述べ、尊者の説法を讃え、いずれも見舞いに行く任にたえないことを申し述べた。
*四無量心・・・四つのはかり知れない利他の心。慈(いつくしみ)、悲(あわれみ)、喜(他者を幸福にするよろこび)、捨(すべてのとらわれを捨てる)の四つの心で、人々を覚りに導くこと。
*六波羅蜜・・・仏教における菩薩が悟りに至るために実践すべき六つの修行で、布施(施し)、持戒(戒律を守る)、忍辱(忍耐)、精進(努力)、禅定(集中)、智慧(正しい理解)のこと。
*
文殊師利問疾品第五
維摩尊者が文殊菩薩に菩薩の生き方を説く
文殊菩薩は釈迦牟尼世尊の御指示を請け維摩尊者の見舞いに赴き、そこには多くの菩薩や声聞、神々が同行した。維摩尊者は神通力を使って屋敷を空にし、文殊菩薩たちを迎えた。維摩尊者が、来るという姿をとらず見るという姿をとらずによく来ましたと迎えられると、文殊菩薩は既に来たものは来ることはなく、去ったものは去ることもなく、見られるものも更に見られることが無いと応じられた。文殊菩薩が病状を尋ねると、維摩尊者は世の人々を我が子のように愛するがゆえに、その身を病み、我が子の病が治れば菩薩の病もまた消える、と菩薩の病は広大な慈悲によって起こることをお話しになられた
維摩尊者の部屋を見て文殊菩薩は、なぜすべてが空っぽであるのかを尋ねると、それに対し尊者は、どの仏国土も本質的に空であることを説かれ、誤った思惟を離れた無分別の智は空であり、その思惟そのものもまた空であると示された。更に、文殊菩薩が空を何に求めればよいのと問われると、尊者は、空はこの生死の世界から離れたものではなく、生死の世界を通して求めるべきことを教えられた。
文殊菩薩が、維摩尊者に対し、どのようにお慰めすれば宜しいでしょうかと尋ねると、尊者は、身の儚さを説くとしても、その身を嫌う様に説いてはならず、身の苦しみは説いても悟りを願い求めることに結びつけてはいけないと説かれ、苦を嫌うための安楽として涅槃を求めるように導くことを戒められた。
そしてまた、病の菩薩への見舞いには、罪を悔い改めるように説いても、その罪が終わったものと捉えてはいけないこと、菩薩が自らの病を通して世の人の病を憐み、この世の苦しみを知らせ、世の人の修めた功徳を思い出させ、正しい生活を念じさせ、憂いや悩みを起こさせず、精進の心を起こさせて、*医王となってさまざまな病を治療するように、と、そのように菩薩を慰め喜ばせることであると話された。
次いで、病の菩薩は心をどのように整えて克服すべきかの文殊菩薩の質問に対し尊者は説かれた。
病にも肉体にも実体が無い、病とは絶対なる*自性があるとの執着から起こり、肉体は物質的な仮和合であり、ただ物質が生じ滅しているだけであり、そこに我はない。物質的なものに対する想念も虚妄分別であり、主体的存在とする我や属するものとしての我所から離れる必要がある。そのためには、相対する二つのものから離れ主観・客観のさまざまな存在を心から消し去って心を平等にすることである。平等が得られても空に対する執われが残るが、それもまた空である。その境地に至る菩薩は苦楽を感受することがないが、衆生のために苦しみや楽しみを感受することを止めず、自らは既に苦しみを克服したのであるから、世の全ての人の苦しみを克服させてあげるのが当然であると思い、病の根源を断ち切ることを目的として世の人を教え導く。
病の菩薩は自らの病が実在ではないことを観察し衆生の病もまた実在しないと内観する。もし執着から慈悲の心を起こした場合はただちにそれを捨てる。執われによる慈悲の心には生死を厭う心があるが、執われを去れば、どこに生まれても束縛がなく衆生のために法を説き彼らを束縛から解放する。
自らが束縛から解放されていてはじめて菩薩は衆生を解放させることができる。
煩悩にまみれて善を行なえば智慧なく束縛となり、煩悩を離れて善を行ない功徳を衆生の悟りへと向けて廻向するならば智慧のある手立てとなり解放となる。衆生を捨てて自分だけが悟りを開かないことを、手立てと名付ける。菩薩は迷いの世界に留まっていても汚れに染まることなく、悟りの境界にあっても悟ることがない。すべては空であると悟っていても、悟りの境界に入らず衆生のなかに入り、世のすべての人を慈しみ愛していても、その愛情に執われない。そして維摩尊者は、菩薩の生き方をさまざまに説かれ、仏となって教えを説き、悟りの境界に入りながらもなお、菩薩の修行を捨てないのが菩薩の行ないであることを説かれた。そして文殊菩薩につき従って来た大勢の人々のうち八千人の天上の神々が最高至上の仏の悟りを求める心を起こした。
*医王・・・優れた医師が病人に適切な治療を施すように、仏や菩薩が衆生を病(苦)から救済するたとえ。苦の因を煩悩や無明とつきとめ、苦を滅する道を説き悟りへと至らせる仏の慈悲と救済の役割を象徴する表現。 釈迦牟尼仏陀は大医王とも呼ばれた。
*
不思議品第六
法を求める者の在り方、 そして不可思議解脱の境地
舎利弗尊者に対して、維摩尊者は法を求める者の在り方を説かれ、そして「不可思議」という解脱に住する菩薩の境地を示される。
維摩尊者は法を求めることについて、次のように舎利弗尊者に説かれた。
法を求める人は、身体を構成する肉体、感受作用、表象作用、意志作用、認識作用や、構成要素、認識の場を求めることはなく、輪廻の迷いの世界である欲界・色界・無色界の三界を求めることもない。また、仏陀(仏)や真理の教え(法)・教団(僧)の三宝への執着から法を求めるのでもない。
法は戯論(けろん)を離れたものであり、言葉を離れたものである。それゆえ、言葉による無益な議論をする人は、法ではなく無益な議論を求めている。
法は寂滅であり、塵垢を離れている。もし法や涅槃へ執着するのであれば、それは法ではなく塵垢を求めているのである。また、法は感覚の対象ではなく、取捨の対象でもない。法をとらえたり、見捨てたりする者は、法ではなく取捨を求めているのである。
法は見られず、聞かれず、考えられず、知られない。それゆえ、見・聞・思・知に向かって行動する者は、法ではなくそれらの行為を求めているのである。また、法は無為なるものであり、有為を離れている。有為を行動範囲とする者は、法ではなく有為に執することを求めているのである。
それ故に、舎利弗尊者よ、今、法を求めるならば、あなたはいかなる法も求めるべきではない。これこそが、真に法を求める者の在り方であるのだ。
その後、維摩尊者は遠い世界から巨大な師子座を呼び寄せ、それを小さな家に収められた。この不思議な出来事に驚く舎利弗尊者に対し、維摩尊者は「不可思議」という解脱に住している菩薩の境地について語られる。
この境地に住する菩薩は、巨大な須弥山を芥子の実の殻に収めたとしよう。しかしながら、芥子粒の大きさはそのままで、須弥山のながめもそのままである。また、この菩薩は時間を自在に操り、七日を果てしなく長い時間(一劫)のように、一劫を七日のように感じさせることもできる。さらに、悪魔たちのすべてが、不可思議という解脱に住した菩薩であり、衆生を悟りへ向け成熟させるために、巧みなる方便によって悪魔の働きをなしているのである。
観衆生品第七
菩薩は衆生の本性を知り大慈悲を以て法を説く
この章では、人間(衆生)とはどのような存在かが説かれている。菩薩は衆生をどのように見るのですか、と文殊菩薩が維摩尊者に尋ねた。維摩尊者は、一切衆生を実体のない空と観るべしと答え、恰も水に映る月のように、蜃気楼の中の水のように、と儚い幻であることを様々な例を挙げてお説きになった。
では、その実体のない空なる衆生に、どのように慈(慈しみ)が生じるのか、と更に文殊菩薩は尋ねる。
維摩尊者は、衆生をそのように観る時、我はまさに衆生のために法を説くべきであると思う、あらゆることに囚われず物事をありのままに観るが故に、衆生を救うための真実の慈しみが、一切衆生に対して生じるのである、と答えられ、続けて、悲(悲れみ)とは、菩薩が積んだ*善根を一切衆生に与え、共にすることであり、喜(喜び)とは、他の者を益することがあれば、歓喜し悔いることのないことであり、捨(差別なく平等に利すること)とは、自ら作った功徳さえも望むことなく、慈・悲・喜のこころにとらわれず、他を利するために捨てて顧みないことであると、*四無量心を説かれた。
また、文殊菩薩が、菩薩は生死の恐怖にとらわれたときは何を拠り所とすればよいか、と尋ねる。それに答えて、維摩尊者は、生死の恐怖の中にあるときは如来の功徳の力を頼りとすることであり、そのときには一切衆生を救い解脱させることに専念すべきである、とお答えになる。そして、一切衆生を救おうと思うなら、衆生の煩悩を除くことであり、そうするには、心を正し正念することである、そのためには不生不滅(常住不変の悟りの境地)を念じて行じるべきであると説かれた。そして、煩悩は、身体が貪りの心(貪欲)を根源としている故であり、貪りの心は誤った見解(*虚妄分別)を根源としている故であり、最終的に、根拠のないこと(無住)を根源として、あらゆる迷いや煩悩が生じていることを明かされた。
そこに姿を現わした天女が撒いた花が、大弟子たちの身体に付いて落ちない。舎利弗尊者は、身を飾る花は出家者に相応しくないと、その花を取り除こうとするが、天女は「分別や執着のある人には花が付き、それらを断じた菩薩には花は付かない」と説く。人が恐れを抱くときに悪鬼が付け入るように、生死を恐れているから色声香味触の五欲が心に付け入る。生死の恐れを離れた者に、一切の五欲は何も成すことはないのである。
*善根・・・善い果報をもたらす行ない。
*四無量心・・・四つのはかり知れない利他の心。慈(いつくしみ)、悲(あわれみ)、喜(他者を幸福にするよろこび)、捨(すべてのとらわれを捨てる)の四つの心で、人々を悟りに導くこと。
*
仏道品第八
あらゆる煩悩が無上の悟りへと導く
悟りの道は決して俗世を離れたものでなく、煩悩の中にいてこそ無上の悟りへと発心できる。菩薩は、衆生に大悲をもち、あらゆる道が悟りへと至るのであるから智慧と方便をもって人々を救おうとすることを説かれた。
文殊菩薩が維摩尊者に、菩薩はどのようにして仏道に達するのか、と問うと、維摩尊者は、もしも菩薩が煩悩に迷う道(非道)に行くなら仏道に達する。菩薩は*五逆の悪人のところへ行っても悩みや怒りがなく、地獄に至っても罪穢れを離れている。菩薩は、衆生が輪廻する三界のうち欲界以上の色界、そして無色界に行っても特に勝れているとは思わずその道に入らない。教えを聞く、自利を目指す*声聞のすがたを示すけれど、人々のために未聞の法(大乗の法)を説く。一人で悟る*独覚のすがたを示すけれど、大悲で衆生を教化する。涅槃のすがたを現しているけれども、生死輪廻の世界を断ずることがない、と説かれた。
維摩尊者は文殊菩薩に、では、何が悟りを開く種となるかと問うと、文殊菩薩は、誤った見解やすべての煩悩が悟りを開く種になる、とし、さらに次のように説かれた。
無為を見て、凡夫の位を離れる境地に安住する者は、無上の悟りである阿耨多羅三藐三菩提を求める心を起こすことができない。煩悩の家である有為に住む者こそが仏たるべき特性を生ずる。高地の陸地ではなく、低地の湿っている泥沼の中から蓮華が生じるようなものである。煩悩の大海に入らなければ、一切智(全てを照らす仏の智慧)という宝を得ることができない。
このとき、大迦葉(マハー・カーシャパ)尊者は、文殊菩薩に感嘆の言葉を発して次のように答えられた。
凡夫は仏法を聞いて無上の悟りに向けて心を発(おこ)して*三宝を断たないが、自らの悟りのみを求める声聞たちは、仏の特性である*十力(じゅうりき)、*四無畏(しむい)を聞いても無上の悟りを求める心を発すことができない。
次に、普現色身菩薩が維摩尊者に、あなたの父母、妻子は誰か、どこにいるのかと問うと、維摩尊者は、次のように、詩句をもって答えられた。
菩薩にとって智慧の完成(般若波羅蜜)が母である。巧なる方便が父である。その母と父から菩薩は生まれる。法の喜びを妻となし、慈悲の心を娘となす。真理と法が二人の息子であり、空についての思索が家である。あらゆる煩悩が従順な弟子であり、悟りに導く*七覚支(しちかくし)が友人であり、*六波羅蜜(ろくはらみつ)が伴侶、人をまとめる*四摂法(ししょうぼう)が*伎女である。それは最高の大いなる乗り物(大乗)であり、悟りを求める心(菩提心)が御者であり、その行く先である*八正道は安穏である。菩薩は、いかなる手段によってでも、衆生が法を喜ぶようにあらゆる方便をもって行動する。悟りに至る道は無量であって行いも限りない。菩薩の智慧はきわまりなく、無数の人々を救い解放する、と説かれた。
*五逆の悪人(五逆罪)・・・1.母親を殺す罪 2.父親を殺す罪 3.阿羅漢を殺す罪 4.仏の身体に傷をつけて血を流させる罪 5.教団を分裂させる罪。
*声聞・・・教えを聴聞する修行者。
*独覚(縁覚)・・・師なくして独自に悟りを開いた修行者。大乗仏教では声聞と独覚を二乗と称する。
*三宝・・・仏教において最も重要とされる、教主である仏(仏陀)と、その教えである法(ダルマ)と、それを奉ずる人々の集団である僧(サンガ)を三つの宝に譬えたもの。
*十力・・・仏に特有な10種の智力。1.処非処智力(しょひしょちりき)(道理と非道理とを弁別する力)、2.業異熟智力(ごういじゅくちりき)(業とその果報を知る力)、3.静慮解説等持等至智力(じょうりょげだつとうじとうしちりき)(諸々の禅定を知る力)、4.根上下智力(こんじょうげちりき)(衆生の機根の優劣を知る力)、5.種種勝解智力(しゅじゅしょうげちりき)(衆生の種々の望みを知る力)、6.種種界智力(しゅじゅかいちりき)(衆生の種々の本性を知る力)、7.遍趣行智力(へんしゅぎょうちりき)(衆生が地獄や人天、涅槃など種々に赴くことになるその行因を知る力)、8.宿住随念智力(しゅくじゅうずいねんちりき)(自他の過去世を思い起こす力)、死生智力(ししょうちりき)(衆生がこの世で死に、業とその果報が相続して、かの世に生まれることを知る力)、10.漏尽智力(ろじんちりき)(煩悩を断じた境地とそこに到る方途を知る力)。
*四無畏・・・仏が説法をする際にもつ4種類のゆるぎない自信。正等覚無畏(しょうとうがくむい)(諸法に対して完全な悟りを得ている自信)、漏永尽無畏(ろようじんむい)(すべての煩悩を断じている自信)、説障法無畏(せつしょうぼうむい)(染法(ぜんぼう)という汚れや迷いが仏道の障害となることを説く自信)、説出道無畏(せつしゅつどうむい)(苦しみから解放される道を説く自信)
*七覚支・・・悟りへと導く七つの要素。1.念 2.択法 3.精進 4.喜 5.軽安 6.定 7.捨。
*六波羅蜜・・・仏教における菩薩が悟りに至るために実践すべき六つの修行で、布施(施し)、持戒(戒律を守る)、忍辱(忍耐)、精進(努力)、禅定(集中)、智慧(正しい理解)のこと。
*
*伎女・・・伎楽を奏する女性。
*八正道・・・苦の滅に導く八つの正しい実践徳目。1.正見 2.正思 3.正語 4.正業 5.正命 6.正精進 7.正念 8.正定。
入不二法門品第九
絶対平等の不ニの法門
維摩尊者が、菩薩たちに絶対平等の境地である*不二の*法門に入るとは、どのようなことかを問うた。
菩薩たちは、おのおのが、相反する対立を示して、その対立を超えることだと説いた。
いわく
生と滅は対立する。しかし、生ずることのないものは滅することもない。何ものも生ずることはないという真理を認める知を獲得することが、絶対平等である不二の法門に入ることである。
我れと我がものは対立する。しかし、我れがなければ我がものもない。我れと我がものと分別しないことが、絶対平等である不二の法門に入ることである。
智慧と愚かさは対立する。しかし、愚かさの本性は智慧であり、智慧もまた執着してはならないものである。一切のものを離れ、平等で相対するものがない。これが、絶対平等である不二の法門に入ることである。
闇と光は対立する。しかし、一切の心のはたらきが尽きた*滅受想定に入れば、闇もなく光もなく、すべてのものがこれと同じである。これが、絶対平等である不二の法門に入ることである。
文殊菩薩は、おのおのの菩薩が言葉巧みに不ニの法門に入ることを示したことをたたえた。
その上で、言葉なく、説くことも、示すことも、認知することもなく、一切の問と答えを離れることこそ不ニの法門に入ることであると説き、維摩尊者の説法を願った。
維摩尊者は黙念として語らず。一黙、響き雷の如し。
文殊菩薩は感嘆の言葉を発した。
一つの文字もなく、一つの言葉もない、これこそが絶対平等の不ニの法門である。
*不二・・・相反するように見えるものも対立する二つのものではなく絶対平等であること。
*法門・・・真理へ入る門、すなわち仏の教えのこと。
*滅受想定・・・滅尽定ともいい、感覚や心の働きが止んだ状態。
香積仏品第十
香飯を以て清浄なる法を衆生に示す
ここでは食という煩悩をもたらすものをもって衆生を導くことが語られる。
維摩尊者は、食事の時間を気にする舎利弗尊者を諫め、仏の説法を聴くのに欲望をもたらす食物を雑(まじ)えてはならない、と説く。そして維摩尊者は神通力をもって、この上ない香気を放つ衆香国に住する香積仏の食事を請来し、その香飯を振る舞い、衆生を導くのである。
声聞の一人は、この量では全員に行き渡らないのではないかとの疑念を発するが、維摩尊者は、*四大海の水は枯渇して尽きることがあっても、仏の大悲は決して尽き果てることはない。なぜなら、*戒・定・慧の三学、解脱・*解脱知見から生じた尽きることのない功徳を身に具えた仏の残り物であり、これを尽きさせることはできないからである、と説く。仏の智慧と福徳は無限であり、すべての衆生に平等に与えられ、衆生すべてを救う力を持つのである。
衆香国では、言葉ではなく香りをもって法が説かれるのに対して、俗世の娑婆世界では、衆生を導くためには、煩悩に囚われ悪業を重ねた結果、苦果を受けることを厳しい言葉で導く必要がある。因縁因果の理について、心に苦痛をおぼえるような言葉を聞くことによって初めて頑固で教化しがたい衆生は規律正しい生活(律)へと向かうのである。
こうして娑婆世界において「善を積み重ねる十種の法」を実践することで、菩薩は大いなる慈悲と智慧を培い、遂には仏国土に生まれる資格を得るのである。「善を積み重ねる十種の法」とは、すなわち、布施によって貧困の者たちを救う、浄戒により破戒者を導く、忍辱によって瞋恚(怒り)を抱く人々をやわらげる、精進によって怠惰な人々を導く、禅定によって心乱れた人々を導く、智慧によって愚癡(ぐち)(真理に冥く無知なこと)の人々を導く、修行の障害を除き仏道修行に向かい難い人々を救う、自らの悟りだけを求めている人に衆生を救う道を説く、善根を積み重ねて福徳のない人を救う、*四摂法によって衆生を悟りへ向けて成熟させる、である。
十善を為した菩薩が亡くなった後には、*八法を具えて無傷で浄土に生まれる。このように維摩尊者は説かれた。
*四大海・・・須弥山の四方を囲むとされる大海
*戒・定・慧の三学・・・持戒・三昧・智慧
*解脱知見・・・解脱したと自覚すること。戒・定・慧・解脱・解脱知見の五つを五分法神といい、仏と阿羅漢が具える徳性。
*
*八法・・・(1)あらゆる衆生のために利益をなし見返りを望まない、(2)一切衆生の苦しみを代わりに耐え忍びすべての善根を一切衆生に施与する、(3)一切衆生に対して憎悪することも衝突することもない、(4)すべての菩薩たちのことを仏に接するように見る、(5)いまだ聞いたことのない諸々の法や、かつて聞いたことのある諸々の法を聞いても、謗(そし)ることがない、(6)他者の利得を嫉(ねた)むことがなく自己の利得によって他者を蔑(さげす)むことがない、(7)自己の誤りを点検し他者の過失を譏らない、(8)常に変わらない心を持って様々な功徳を求める
菩薩行品第十一
菩薩は、現実を超越しながら、現実に苦しむ人々を救済する
そのときアームラパーリーのマンゴーの林の庭園で世尊が教えを説いておられた。そこに金色に輝く吉祥が現われたので、阿難尊者が世尊にお尋ねすると、世尊が、維摩と文殊が大勢の人々と一緒にここに来ようとしているからであると仰せになった。維摩尊者と文殊菩薩は、菩薩たちと共に世尊を訪れ、礼拝した。
さきほど維摩尊者の家で、香積仏から賜った食事を食べた人々からは、素晴らしい香気が香り続けたので、阿難尊者はこの香気がとどまる時間について尋ねたところ、維摩尊者は、七週間消化されるまで香るが、各々の境地によって消化され方が違うとして、次のように説かれた。
教えを聞くのみの修行僧がいまだ悟りを開く正しい位に入らないでこの食事を食べるならば、正しい位に入ることができた後に、消化される。
正しい位に入ってこの食事を食べる者は、心の解脱を得た後に、消化される。
大乗の心(菩提心)を起こさないでこの食事を食べる者は、発心した後に、消化される。
すでに発心してこの食事を食べる者は、いかなるものも生じることはないという道理を認識した後に、消化される。
いかなるものも生じることはないという道理を認識してこの食事を食べる者は、もう一生涯だけこの世につながれたのちに仏になる位に至った後に、消化される。
世尊は、菩薩のあるべき姿を次のように御説きになった。
この世には、*四種の魔と八万四千の煩悩の汚れがあって、生きとし生けるものどもを苦しめているが、諸仏はまさにこれらの煩悩を介して、仏の働きを成しとげる。これを「一切諸仏の法門に入る」と名づける。
「尽きることと尽きないこと」という解脱の法門がある。尽きるものとは、因縁の和合によって作られる有為のもの、尽きないものとは、因縁によって作られない常住絶対の無為のものである。菩薩は、有為をなくしてしまうこともないし、無為に住することもない。因縁によって作られたものでも捨ててしまわないし、常住絶対のものにも安住しない。広大な慈悲をもって世のひとびとを教え導き、「一切は空である」と見ることを修行しても、空と見ることをさとりとは考えないのである。
*四魔:生命を奪い、またその因縁となる四つのものを悪魔にたとえたもの。煩悩魔(百八の煩悩)、陰魔(身心すなわち五蘊)、死魔、天子魔(善行を妨げる)
見阿閦仏品第十二
仏を観るとき
如来を見たいと欲する時どのように如来を見るか、の釈迦牟尼世尊の問いに対し、維摩尊者は、如来の本質は一切の相対的な存在や概念を超越し、空性であり肉体や感覚、思考に束縛されることなく、無相無為の境地にある。それゆえに眼に見えるものとしては捉えられないことを申し述べる。菩薩は、一切の執着や分別を離れることによって、真実の姿を見いだすべきであることが説かれる。
如来(仏)とはどのようなものか
世尊は維摩尊者に、あなたは仏を見たいと思う時、どのように仏を見るのか、とお尋ねになった。維摩尊者は答えられた。
仏は過去、未来、現在のいずれに存在しているものでもない。身体を構成する5つの要素である色・受・想・行・識のいずれでもない。自然原理から生じるものでもなく、虚空に等しいものである。眼・耳・鼻・舌・身・心を超え、*三界にはおられず、三つの煩悩である*三毒を離れ、解脱に通じる*三つの門(三解脱門)にしたがい、*三つの叡智(三明)をそなえる。知恵や認識によって知ることもできない。闇でもなく光でもない。名前やかたちもない。強くも弱くも、清くも穢れてもいない。はかることはできず、はかる限度を超えている。大きくも小さくもなく、見ることも聞くことも覚ることも知ることもできない。あらゆる煩悩を離れ、どのような智慧とも等しく、どのような人とも同じである。分別することなく、得ることなく、失うことなく、けがれなく、悩みなく、作ることなく、起こすことなく、生ずることなく、滅することがない。恐れなく、憂いなく、喜びなく、厭いもない。過去も未来も現在もない。どんな言葉でもはっきりと示すことはできない、と。
*三界・・・生あるものが輪廻を繰り返す三つの迷いの世界。欲界・色界・無色界の総称。
*三毒・・・仏教で取り除くべきとされる三つの根本的な煩悩。貪欲(貪り)・瞋恚(怒り)・愚痴(無知)。
*三つの門・・・解脱に至る三種の三昧。一切が空であると観ずる空解脱、一切に差別相のないことを観ずる無相解脱、さらに願求の念を離れる無願解脱の三種。
*三つの叡智・・・仏・菩薩などが持っているとされる六種の神通力のうち、宿命通(自他の過去世について自在に知る力)、天眼通(自他の未来世について自在に知る力)、漏尽通(煩悩が尽きて輪廻から脱したことを知る力)の総称。
菩薩の転生
舎利弗(シャーリープトラ)尊者は維摩尊者に、あなたはどこからここへ生まれ変わってきたのでしょうか、と尋ねた。維摩尊者は答えられた。なぜそのような事を聞くのか。あらゆる諸法は死ぬことも生まれることもない。死ぬということは、*虚妄なるものが壊れ滅びることであり、生まれるということは、虚妄なるものが存続する姿である。ただ、菩薩は死ぬが、善根を滅ぼすことはなく、生まれても悪を増大させることはない、と。
世尊は、維摩尊者は妙喜という世界の阿閦という如来のもとから生まれ変わってきたのだと仰った。舎利弗(シャーリープトラ)尊者は、清浄な如来の世界からこの汚れた世界にわざわざ来られたことに驚いた。それに対し、維摩尊者は、菩薩が娑婆世界に生まれ変わって来るのは、この世に光を生じ、煩悩の闇を除くためであることを説かれた。
*
法供養品第十三
法の供養
釈迦牟尼仏陀の下に、帝釈天は、「不可思議解脱」という法門に対する深い信仰を示す。それに応じられた世尊は、物質的なものを超えた法の供養というものを説かれる。
帝釈天は、この法門における「不可思議解脱」の神通を聞き、かつて聞いたことのない教えであると感銘を受ける。そして、この法門を会得し、受持し、読誦し、理解するものは、法の器となるのであり、瞑想の修行に専念する者たちはなおのこと、悪趣に陥ることがなくなり、あらゆる善趣への道が開かれるのであることを世尊に伝えた。さらに、この法門を説く者に対しては、一門の者とともに尊敬しお仕えすること、信じていないものには信を起こさせ、すでに信じている者に対しては、その得ている法を守護することを誓うのであった。
それを受けて、世尊は次のように語られた。
過去・未来・現在の世尊である仏陀たちの悟りは、この法門の中に説かれている。それ故に、この法門を会得し、読誦し、書写し、完全に理解する良家の子女は、この世において過去・未来・現在の世尊である仏陀たちに供養をなしたことになるのである。
さらに、この教えの重要性を強調し、物質的な供養や儀式を超える法供養の意義を説かれた。
たとえ無数のストゥーパ(仏塔)を建て、膨大な供養を行っても、その功徳は限りがある。しかし、『不可思議解脱』の法門を受持し、読誦し、理解する良家の子女があったならば、その福徳は、それを遥かに超えるものである。それは、諸仏世尊の悟りというものが、法によって生じるという原理に基づいており、したがって、法を理解し供養することが最高の供養となるのである。
嘱累品第十四
教えの敷衍を誓約する
釈迦牟尼仏陀は、弥勒菩薩に無上の悟りを伝授され、後々の世に於いても、この法門が流布され、消滅することがないようにと仰られた。そして更に修道の上で、陥りがちな点について次のように戒められた。
菩薩にも二種あり、言葉の表象や言葉の綾を好み囚われる者は修行したての菩薩であること、そして深遠な意味や内容であっても恐れず、よく本質を理解し、深く信頼して聞き説くことができる者は長く仏道修行を実践している者である。また、更に修行したての者にも二種あって、深遠な教えに対して恐れて疑いを抱く者と、深遠な経典を説く人に対して謹んで敬おうともせず悪口を言う者がある、と説かれた。
世尊は、また逆に、深遠な教えを信じる者であっても陥る可能性を説かれ戒められた。
一つは学びたての者を見下し軽蔑して教え導くことがない者。もう一つは深遠な教えを信じ理解していても、表面に拘って世俗的な財物は与えるが、真実の教えを説き与えようとしない者。そのような者は真理を認める知である*無生法忍に達することがない、と説かれた。
世尊の御言葉を聴き、弥勒菩薩は心より讃美して、後の世に至るまで法の守護を誓約された。
弥勒菩薩は、修道する菩薩たちの欠点を取り除き、未来に於いてこの法門を求める人達が、完全に理解して実践し、皆のために詳しく説き示せるように記憶力を与え、彼らの支えとなることを約束した。そして共に居た多くの菩薩たちも仏の悟りを流布することを誓約し、更に四天王たちもこの法門、大乗の教えが未来に行なわれ説かれるときに、その説法者にあらゆる方向から守護を与えることを誓った。
世尊が阿難尊者に対し、この経典を敷衍するように仰ると、阿難尊者は、その要をすでに記憶していることをお答えし、本経典の名前を御伺いした。
世尊はこれを『維摩尊者の説いた経』であり『不思議の悟りの境界』と呼ぶと仰られ、維摩尊者をはじめ、文殊菩薩、阿難尊者、偉大なる声聞たち、集っていた天上の神々、すべての聴衆たちは大きな悦びに包まれ、心から信じてこの教えを奉じ行なった。
*