維摩経 ゆいまぎょう の教義



方便品第二

虚妄なる身体の儚さを知り、如来の法身を希求する

維摩尊者(ヴィマラキールティ)は、古代インドのヴァイシャーリー大都城に住む資産家であり、在家の仏教者である。過去生において多くの諸仏に仕え、深い智慧と雄弁さを身に備えておられた。仏陀と同じ行状に立ち、心の大いなること海の如きであった。世俗にありながらも心は執着から離れ、常に純潔の行を実践し、衆生を導くために巧みな方便を用いられた。

ある時、維摩尊者は巧みなる方便により自らに病気を現された。そして、見舞いに訪れた幾千人もの人々を前に、この身体の虚妄なることと、如来の法身について説かれた。

維摩尊者は以下のように説かれた。この身体は非常に頼りなく、泡沫や泡、陽炎のように儚く、煩悩や渇愛から生じている。この身体は顚倒した誤った考えから生じており、夢や影のように虚妄なるものである。過去の宿業や様々な因縁によって存在している。この身体は雲のように混乱し、稲光の閃光のように刹那ごとに滅し、永遠に留まることはない。そこに主体はなく、外界の条件や因縁によって生じているのである。この身体には永遠不滅の実体はなく、自然原理によって構成された空なる存在である。そこには「我」も「我がもの」もない。また、この身体は不浄であり、常に病に悩まされ、老いや死に向かい、死を結末とするものである。だからこそ、この身体に執着するのではなく、如来の身体を願い求めなければならない。

そして、維摩尊者は如来の法身について次のように説かれた。

如来の身体とは、永遠不滅の真理そのもの(法身)であり、量り知れない多くの功徳と*智慧から生じるものである。布施、持戒、*三昧(瞑想)、智慧、解脱、解脱したことを自覚する知見から生じ、慈しみや憐れみ、喜び、平等な心といった*四無量心など、すべての徳から如来の法身が生じる。また、精進、忍耐、*四種の禅定、*八種の解脱、三昧といった修行や、仏に特有の智慧である*十力、仏に備わる十八の特質である*十八不共法、  *六波羅蜜の完成された徳もまた、如来の法身を生じさせるものである。

さらに、悪を断ち切り、善を積み、真実に基づいて生きること、放縦に流れない善の心(不放逸)も如来の法身を生じるものである。人々はその如来の法身に対して強い尊敬と渇望の念を抱くべきである。そして、仏身を得て、一切衆生の病を断じようと欲するならば、正に最高の悟りである*阿耨多羅三藐三菩提心(あのくたらさんみゃくさんぼだいしん)を発(おこ)すべきである。

* 三昧 さんまい ・・・心が一つの対象に集中し、深い安定や平静な状態に至る瞑想の境地を指す。心が散乱せず、完全に専念している状態を表し、これにより智慧を得たり、悟りに至るとされている。

* 四無量心 しむりょうしん ・・・四つのはかり知れない利他の心。慈(いつくしみ)、悲(あわれみ)、喜(他者を幸福にするよろこび)、捨(すべてのとらわれを捨てる)の四つの心で、人々を覚りに導くこと。

* 六波羅蜜 ろくはらみつ ・・・
布施 ふせ ・・・財施、法施(真理を教えること)、無為施(恐怖を除き安心を与えること)の三種
持戒 じかい ・・・戒律を守ること
忍辱 にんにく ・・・苦難に耐え忍ぶこと
精進 しょうじん ・・・たゆまず仏道を実践すること
禅定 ぜんじょう ・・・深い瞑想により精神を統一させること。

* 智慧 ちえ ・・・般若。真理を見極め覚りを完成させる智慧。




仏国品第一

仏国品第一 仏国土の浄化

世尊は法輪を転じ、菩薩たちに対して仏国土の浄化の意義を説かれ、仏国土とは、菩薩が衆生を成熟させるために建立するものであり、衆生の利益こそが仏国土の本質であると示された。さらに、仏国土の浄化は心の浄化に他ならないと説かれ、如来の国土は常に清浄であり、無明に覆われた衆生の虚妄の視点がその清浄を見失わせることを説かれた。本章に於いては心の浄化こそが衆生を導き、悟りに至る道を開くものであることが説かれる。

仏国土とは何か

仏国土とは、*菩薩が直心により衆生を悟りへ導く場であり、俗世そのものを指す。菩薩の修行によって、衆生の心が清浄となり、それに応じて仏国土も清浄となる。菩薩が*六波羅蜜を実践し、衆生を悟りへと導くことで仏国土は清らかに保たれ清浄な衆生が誕生する。仏国土とは、菩薩が人々を仏の智慧に導くために具現化される国である。


   
用語説明

*直心・・・ひたむきに仏道に向かう心。いつわりのまじらない心。

*六波羅蜜・・・
 布施・・・財施、法施(真理を教えること)、無為施(恐怖を除き安心を与えること)の三種
 持戒・・・戒律を守ること
 忍辱・・・苦難に耐え忍ぶこと
 精進・・・たゆまず仏道を実践すること
 禅定・・・瞑想により精神を統一させること
 智慧・・・般若。真理を見極め悟りを完成させる智慧


 

仏国土へと導く菩薩の心とは

仏国土は、菩薩の持つ純粋な心によって成る。
清純な心(直心)を持つ菩薩が仏となるとき、その国には偽りのない人が生まれる。
そして、深く道を求める心を持つ菩薩が仏となると、その国には功徳を備えた人が生まれる。悟りを求めて世の人を救おうとする心*(菩提心)を持つ菩薩が仏となると、その国には大乗の教えを奉ずる人が生まれる。

   

用語説明


*菩提心・・・悟りを求める心、悟りを得たいと願う心。大乗仏教特有の用語。特に、利他を強調した求道心をいう。「菩提心」は大乗仏教の菩薩の唯一の心で、一切の誓願を達成させる威神力(いじんりき)を持つと考えられた。


 

菩薩の行ないによって現れる仏国土とは

菩薩の行いによって現れる仏国土とは、菩薩が修行する徳に応じて、相応する善を行う人々が集まる国である。
*十善を行う人々が集う国を具現化する。*六波羅蜜を修める菩薩も、それぞれ対応する善を実践する人々が集まる国を形成する。*四無量心や*">四摂法、*方便、*三十七道品を修めた菩薩もまた、相応する徳を持つ人々が生まれる国を作る。

   

用語説明


*布施・・・貪りの心を離れて仏・僧・貧乏な人などに衣食などの物資を施すこと(財施)。教えを説き与えること(法施)。色々な恐怖から逃れさせること(無畏施)。

*十善・・・十悪を犯さないこと。不殺生・ 不偸盗 ふちゅうとう ・不邪淫・不妄語・不両舌・ 不悪口 ふあっく 不綺語 ふきご 不貪欲 ふとんよく 不瞋恚 ふしんに ・不邪見。

*三十二相・・・仏が身に具えている勝れた容貌形相で、そのなかで特に顕著で見易いもの三十二相を選んだもの。

*四無量心・・・四つのはかり知れない利他の心。 いつくしみ あわれみ 、喜(他者を幸福にするよろこび)、捨(すべてのとらわれを捨てる)の四つの心で、人々を悟りに導くこと


 

仏国土の完成とは何か

全ての功徳を他に振り向けて与える*(廻向)心を修め菩薩が仏となるとき、一切の功徳の備わった国が得られる。また、八つの障碍*(八難)を除くことを教えることにより、罪の報いによって導かれる三つの世界*(三悪道)や、八つの苦難が消滅する。自ら戒めをよく護り、他人の過ちをけなすことのない菩薩が仏となるとき、その国には戒めをおかしたという人はいない。十種の善(十善)を行なう菩薩が仏となるとき、その国には若死にがなく、財産に恵まれ、貞操を守り、言葉に真実がこもり、いつも温和に話し、和して、よく争いや訴えをおさめ、利他であり、妬みや怒りなく、正見を供えた人が生まれる。

   

用語説明


* 廻向 えこう ・・・自分が行なった善をめぐらしひるがえして、衆生や自分のさとりのためにさしむけること。修行や善行の功徳を自らの利益のためだけでなく、他者や衆生の救済のために回し向ける行為。自己の悟りや浄土往生を願うと同時に、全ての存在が共に解脱に至るよう願う根本的な慈悲より生まれる実践。

*八難・・・仏法を学び悟りを得ることが極めて困難な八つの状況。地獄や餓鬼などの三悪道に生まれることや、仏法が存在しない時代や場所に生まれることなどが含まれる。

*三悪道・・・悪業の結果、人が ちていく三つの悪趣。地獄・餓鬼・畜生。三悪趣ともいう。


 

仏国土は如何にして清浄となるか

菩薩がその清純な心(直心)に従うとき、そこにはより正しい行ないをなし、深く道を求める心が得られてくる。すると心も悪を捨て善に従い、教えの通りに行なうようになり、得られた功徳を他に振り向けて与え廻向するようになり、巧みな手立て*(方便)がなされるようになる。
そのように巧みな手立てが備わるようになると菩薩は世の人達を正しく完成するようになり、仏国土は清浄となり、説かれる教えも智慧も、心も清浄となり、すべての功徳も清浄となる。

   

用語説明


*方便:維摩経で説かれる方便とは、菩薩が衆生を救済し、悟りへと導くために用いる巧みな手段である。菩薩の方便は、衆生の状況や理解に応じて自在に変化する。真理を柔軟に伝える智慧と慈悲の具体的な表現であり、最終的にはすべての衆生を悟りに至らせるための道である。


 

何故この世が不浄に見えるのか

それは心に高低があって、仏の智慧で観てはいないからに他ならない。そのために、この国を不浄と観ているに過ぎないのである。菩薩は世の全ての人に対して平等で、深く道を求める心も清浄である。仏の智慧によって観る時には、よくこの仏の国の清らかさを観る。現象的な存在*(有為法)はすべて無常であることを知って、真理を正しく観る眼を得ることにより、現象的な存在に執われることなく、煩悩は消滅し、この国の清浄を観るのである。

   

用語説明


* 有為法 ういほう :因縁の和合によって造作された現象的存在。永久不変の絶対的存在である「無為」に対する。


 




弟子品第三

維摩尊者は世尊(釈迦牟尼仏陀)の十大弟子たちに向け、彼らを論破する形で、仏教の修行と悟りの本質を説く。
坐禅、説法、乞食、心の在り方など、弟子たち各々の修行の在り方に対して、それらの表面的な理解を超えた真理を示し、実相は空であり、日常生活の中で煩悩を超越し、本質を理解することが重要であると説示する。

悟りへと導く手立て

維摩尊者は、世の人々を巧みな方便を使って正しく悟りへと向かえるように教えを説いていた。自分が病気になったという方便を使い、各所から見舞いに来る様々な人々に対して説法した。しかし、その中には世尊の弟子たちは来ていなかった。

そこで、維摩尊者は、果たして世尊は弟子らを見舞いにはよこさないのだろうか、と思うと、その思いを察知された世尊は、弟子たちに見舞いに行くようにと言うのだった。しかし弟子たちは、以前、維摩尊者に厳しく論破されたことを思い出し、行くのを躊躇するのであった。維摩尊者が世尊の弟子たちに指摘、説法したことは自らの悟りを求める修行のみならず、衆生を悟りへと導く修行の重要性であった。

1. 智慧第一の舎利弗(シャーリープトラ)尊者に説いた正しい坐禅とは

真の坐禅とは、この*三界に身をおきながらも、心身の働きを現わさず、心の働きを滅した状態(滅尽定)で、全ての日常において正しく立ち居振る舞うことである。
悟りを達成した感覚を持っていても、外からの見た目はごく普通の人でありなさい。
心が常に内にこもるのではなく、また外に向かい乱れることなくいることである。
*邪見に陥ることを恐れ避けるのではなく、*三十七道品を修して悟りへと至れるよう、そのように生きることである。

維摩尊者は、煩悩にまみれた日常を捨てて静かな場所でただ坐禅をするのではなく、凡俗の日常を凡夫としてごく当たり前に生きながら、悟りへの道をひたすらに歩むことが真の坐禅なのだ、ということを説かれた。

*三界(さんがい)・・・一切衆生が、生まれ、また死んで往来する世界。欲界・色界・無色界の三つの世界。

*邪見(じゃけん)・・・よこしまで間違った見方。

*三十七道品(さんじゅうしちどうほん)・・・悟りに至るための三十七の修行実践法のこと。四念処、四正道、四如意足、五根、五力、七覚支、八正道をいう。

2. 神通第一の大目連(マウドガリヤーヤナ)尊者に説いた正しい説法とは

説法とは法を説くこと。法とは真理のことである。法とは、衆生の汚れを離れた清浄なものであり、我執はなく、生死を離れ、不生不滅である。また、認識・判断することなく、形なく、因も無いゆえに縁も生じず、実体のないものである。
ならば、そのような法をどうして説くことができるのであろうか。
法とは、相(かたち)のないものであるから、説くことも聞くこともできないものだという、これらのことを真に分かった上で大いなる*慈悲をもって説くのである。それには、聞く側の能力をよく理解し、それぞれに合わせて説かなければならない。
仏陀への恩を胸に、法の真の意味を知り、解脱へと向かうために心を浄らかにすることに努める道を絶やさないために、そして、そのように衆生がその正しい道を歩んでいけるよう、慈悲の心をもって相手に合わせ伝え広めていかなければならないことの重要性を説かれた。

*慈悲・・・「慈」はサンスクリット語のマイトリーmaitrī(友情)で、深い慈しみの心、「悲」はカルナーkarunā(同情)で、深い憐 (あわれ) みの心をさす。

3. 頭陀第一の大迦葉(マハー・カーシャパ)尊者に説いた正しい乞食 平等心とは

貧富の家を区別し乞食に行く大迦葉にそのように偏ったことはすべきではないと諭した。
常に一切衆生を想い乞食すべきである。食す必要がない(涅槃)ために、食することの執着を断じるために、男女の差別なく教化するために、すべての人々が仏陀の子孫であるとの思いで乞食するのである。そして、施食は受けないことによって食すのである。
村には何もないとの思いで入り、見るもの、聞こえるもの、臭うもの、触れるもの、食するもの、それらについて良いとか嫌だとか、食するのに汚れているとかいないとかと分別(認識・判断)することなく食すのである。また、施食する者の受ける果報の大小はなく、優劣もない。すべては平等である。また、自他に本性はなく、すべてのものはその*実相は空であると知り、その分別する迷いの心*(八邪)を捨てずに、その心のままにそれを通して修行をし、正しい悟りへと向かわなければならない。
すべてのものは平等である。平等なる心のもとに慈悲心をもって修行、教化することの重要性を説かれた。

*実相は空・・・すべての存在の本質が実体を持たず、相対的であり、固定されたものではないことを示す。これは、現象の真実の姿が「空」であり、執着や固定観念を超越した境地であることを意味する。

*八邪(はちじゃ)・・・邪見、邪思、邪語、邪業、邪命、邪精進、邪念、邪定のこと。八正道の反対。

4. 解空第一の須菩提(スブーティ)尊者に説いた心の有り様とは

どのような心を乱されるような言動に直面しても惑わされ恐れてはならない。一切のものは化作(けさ)された幻影に過ぎないのである。
あらゆる一切のものは*自性を離れたものであり、その真相をみれば空無であり、また仏の*実相をみればまたそれも空無である。
ゆえに俗世の日常において、あらゆることに心が因われるべきではないということを説かれた。

*自性・・・事物や現象がそれ自体として持つ固有の本質や特性を指す。仏教の教えでは、この自性が実体として存在するものではなく、すべての現象は縁起によって成立し、独立した実体や本質を持たないとする。

*実相・・・物事や現象の究極の真実の姿を指す。仏教においては、あらゆる現象が無常であり、無自性であるという真理を意味し、固定された実体や本質がないこと、すなわち空であることが示される。この理解により、執着や誤った見解から解放される智慧を得る。

5. 説法第一の富楼那(プールナ)尊者に説いた相手の心に合わせた説法とは

説法をする際には、無心の境に入り、相手の心をよく観察してから為すべきである。
広い道を行こうとしている人に狭い道を教えたり、太陽の光と蛍の光とを同じようなものとしたりしてはならない。そのように、衆生の能力(機根)を見ずに説法するのではなく、それぞれの機根に合わせて、その者たちが阿耨多羅三藐三菩提(正しい悟り)を得るために正しく歩めるよう説法しなければならない。
相手の能力に応じて各人に必要な説法をすることが、衆生を悟りへと導くためには重要であることを説かれた。

6. 論議第一の大迦葉(カーティヤーヤナ)尊者に示した真理の教えとは

過去に生じたこともなく、未来に生じることもなく、現在に存在していることもなく、また過去に滅したこともなく、未来に滅することもなく、現在に滅することもないこと。すべてのものは生ずるのでも滅するのでもない。それが無常ということである。
また、この身を構成する五つの要素である色・受・想・行・識である*五陰は苦を生じる根本である。
そして、その身も心も因と縁によって仮に成り立っている*仮和合であり、故に自性なく、空なのである。
また、実体としての我が有ることと無いということは*不ニであるということ、それが無我である。
そして、自性も、他性も無いゆえに生じるものがない。本来存在するものがないということは寂滅(消滅)することもなく、寂滅(消滅)しないもの、それが寂滅(究極の悟り)である。
このように、無常、苦、空、無我、寂滅について説かれた。

*五陰(ごおん)・五蘊・・・身体を構成する5つの要素である色・受・想・行・識のこと。色は物質、身体のこと。受は感受作用。基本的な感覚。想は表象作用。感受したものを概念化するもの。行は意志作用。識は認識作用のこと。五蘊ともいう。

*仮和合(けわごう)・・・個々の事物は因と縁によって仮に集まってできたものであるということ。

*不二・・・すべての対立や二元性を超えた究極の真理を指す。全ての存在が本質的に一つであり、煩悩と悟り、世俗と真理が本質的に一つであることを示す。悟りの境地において一切は不二であり、清らかな一体の真理に帰する。

7. 天眼第一の阿那律(アニルッダ)尊者に説いた真の天眼とは

真の天眼(神通を得た眼)とは、どのようなものであるのか。
もし*有為の世界が見えるなら、*外道の五神通と変わらない。また、*無為の世界が見えるとなると、それは本来、形がないのだから見ることはできない。
真の天眼を持つ者は釈迦牟尼仏陀のみであり、その真の天眼とは、一切の仏国土が見えている。それは、有為、無為ということ、また、見える、見えないといったように、すべてのことを二つに分けて見ない、分別して見ることはないものであると説かれた。

*有為(うい)・・・因縁によって生滅する現象世界。

*外道(げどう)の五神通(ごじんつう)・・・悟りを得る正しい道から外れた道における超能力

*無為(むい)・・・因縁を離れた不生不滅の永遠絶対の真実。真理。

8. 持律第一の優婆離(ウパーリ)尊者に説いた罪性への対処とは

なぜ罪を犯すのか。罪が心の内にあるのでも外にあるのでもなく、どこにあるのでもない。心もそれと同様であり、あらゆる一切のものがそのようであるのだ。もとより罪があるのではなく、*因縁所生であり汚れた心が罪を起こすのである。すべての人の本性である*真如は清浄である。そのように心が汚れなく清浄であれば、世のすべても清浄である。*顚倒する虚妄な分別それこそが汚れであり罪を起こすのである。
顚倒も妄想もなければ罪も起こらず、すべては清浄な世界となるのであると説かれた。

*因縁所生・・・すべての現象が原因と条件(因縁)によって生じることを示す仏教の基本的な教え。固定的な実体を持たず、相互依存によって成り立つ存在であり、この理解は無常と空の真理を表す。

*真如・・・物事や現象の究極の真理そのものを指し、あらゆる現象の背後にある変わらない本質を意味する。仏教においては、すべての存在が無常で無自性であるという真理を体現し、実相とも同義とされる。真如を悟ることにより、真実の智慧が得られ、迷いから解脱する道が開かれる。

*顚倒する虚妄な分別・・・物事の真実の姿を誤って捉え、逆さまに認識することを指す。これは、無常を常とし、苦を楽とし、無我を我とするような、錯覚や誤解を生む原因となる。

9. 密行第一の羅睺羅(ラーフラ)尊者に説いた真の出家とは

出家とは、出家することで何か利益を得るというものではなく、利益も功徳もないものである。出家するということは、形のないものであり、形を離れたものである。*涅槃を求め行く道であり、多くの魔を降伏し、五道(迷いの世界)を乗り越え、*五趣から救済し、*五眼を清め、*五根を整え、*五力を得る。悪を遠ざけ、*外道を説き伏せ、*仮名に執われず、自我に着することなく、心の内やすらかに法悦の喜びを抱き、人々の心を傷つけることなく、よく禅定し、あらゆる過ちから離れるのである。
そのような心で日々を生き、悟りへの道を歩み修するのである。それが真の出家であると説かれた。

*涅槃・・・生死を超越し、煩悩の消滅により到達する究極の安らぎと解脱の境地を指す。

*五趣(ごしゅ)・・・善悪の業因によって衆生が死後に赴く、地獄・餓鬼・畜生・人・天の5つの世界。

*五眼(ごげん)・・・肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼のこと。修行の段階に応じて具わる五つの能力を眼に喩えたもの。

*五根(ごこん)・・・眼・耳・鼻・舌・身の五つの感覚器官のこと。

*五力(ごりき)・・・悟りに至らせる五つの力。信力・精進力・念力・定力・慧力のこと。

*外道(げどう)・・・仏教以外の教え、またそれを信奉する人々

*仮名(けみょう)・・・因縁によって生じた実体のない、名だけのもの。仮に名前をつけたもの。

10. 多聞第一の阿難陀(アーナンダ)尊者に説いた仏の病の真の意味とは

本来、仏が病になることはない。如来の身体はあらゆる汚れのない*法身であり、生滅無常の*色身ではない。仏の病とは方便であり、仏の色身のみを見て衆生に語れば、衆生に誤った思いを抱かせ、道をはずさせてしまいかねない。
仏は、この世においては色身でもあり法身でもあることを忘れてはいけない。そして、仏は、*五濁にまみれた悪世において現われ、その中で凡俗の者たちと共にしながら衆生を教化し、救うのだということを説かれた。

* 法身 ほっしん ・・・永遠不滅の真理そのものとしての仏陀の本体。

* 色身 しきしん ・・・現実の身体のこと。

* 五濁 ごじょく ・・・末法の世において仏法が衰退し、世の中が混乱し、衆生の心が迷い乱れる五つの要因を指す。具体的には、劫濁(時代の乱れ)、見濁(誤った見解)、煩悩濁(煩悩の増大)、衆生濁(衆生の堕落)、命濁(生命の短縮)があり、これらが衆生の苦しみを増大させるとされる。




菩薩品第四

衆生もまた悟りへと至る・・・弥勒菩薩に説かれた悟りとは

釈迦牟尼世尊は次に弥勒菩薩に、維摩尊者の見舞いに行くよう御声をかけられるが、弥勒菩薩は過去に維摩尊者にこのように言われたことで見舞いには行けないとお伝えする。

維摩尊者は、弥勒菩薩があと一生だけこの迷いの世界に居て、次にはこの上ない正しく完全な覚りである阿耨多羅三藐三菩提に到る一生補処を予言されていることに対して、過去・未来・現在のうち、どの生によって何を予言されているのかを問われた。そして維摩尊者は、過去の生は過ぎ去り既に滅しており、未来の生もまた未だ到達していないと仰り、人は瞬間瞬間に生まれ生老病死を繰り返し、時間や生死の概念は本質的に空であり、固定的なものではないということを指摘された。また、あらゆる聖者に具わっているあるがままの真理は、弥勒菩薩にも全ての衆生にも平等に具わっており、あらゆる衆生が悟ることが悟りであり、あらゆる衆生が完全なる滅度に入らない限り、如来たちは完全なる滅度に入ることは決してないことを説かれ、あらゆる存在は完全なる滅度に入っており、涅槃の安らぎの本性を具えていることを説示された。尊者は、悟りとは何であるかについて様々に説かれ、虚妄分別した考えを捨てなければいけないとされ、覚りとは目に見えるものや、言葉で表せるものではなく、あらゆる場所に存在し、誰もがその中にいるけれどもそれは、身体によっても、言葉によっても、心によっても覚ることはできないことを説かれた。

光厳菩薩(プラバーヴューハ)に説かれた悟りへと向かう修行道場とは

世尊は光厳菩薩に見舞いに行くよう御声をかけられたが、やはり光厳菩薩も慰問を辞退した。その理由は、嘗てヴァイシャ―リーの城門に入って来た維摩尊者に、光厳菩薩が、どこからいらしたのかと声をかけた際、尊者は悟りの道場から来たと言われ、悟りへと向かう道場とは何たるかを説かれた。維摩尊者は、日常の常住坐臥、一挙手一投足が修行の実践であり、悟りへと向かう修行場であると説かれたのであった。

持世菩薩(ジャガティンダラ)を悩乱する悪魔

次に世尊は、持世菩薩に御声をかけられたが、持世菩薩は嘗ての体験として、ご自身に近づいてきて恭しく礼拝した悪魔のパーピーヤスを帝釈天と見間違え、維摩尊者に窘められたことを語った。持世菩薩が悪魔から天女たちを侍女として与えると言われ、それは出家に相応しくないと固辞している処に、維摩尊者が現われて、それが悪魔であり、持世菩薩を悩乱させるために近づいたことを暴いたこと、そして悪魔に対して天女たちを出家にではなく、在家の尊者たちに与えるようにと説かれると、悪魔は恐れおののき姿を隠そうとしたが、尊者の神通力によって叶わず、天女を与えて悪魔の宮殿に戻って行った。

維摩尊者は今度は天女たちに向けて説法され、天女たちは覚りへと向けて発心した。尊者は天女たちにあなたたちは今、覚りを求める心を発した。あなたたちは今、法という楽園の喜びに満足するべきである。色・声・香・味・触 を対象とする五つの世俗的欲望*(五欲)の喜びに満足するべきではないと説かれた。

天女たちの法の喜びとは何かの問いに対し、尊者は、浄らかに信じること、真理の教え(法)を聴くことを熱望すること、執着を去ること、布施、禅定、努力精進によって善なる果をもたらす行ない、智慧によって煩悩を断つこと、悟りを目標とし、定められた時でなければ悟りに至らないとすること、同学の人に親しみ、同学でない者にも憎悪なく衝突もしないこと、善なる友に対して奉仕し、悪しき友に対し悪の除去を行なうこと、三十七道品を怠りなく行なう喜びなど、あらゆる法の喜びについて天女たちに説かれた。

そして、尊者は、尽きることのない燈火について、悟りを求める菩薩の思いは減ることなく欠けることもなく増大し、あらゆる善き法も同様に、他者のために説き示せば説き示すほどに高まり強くなる、これが、尽きることのない燈火であり、無尽燈の法門にほかならない、そのように説かれたので、維摩尊者の見舞いに行くことに耐えられませんと、持世菩薩は語った。

須達多長者(スダッタ)に説かれた正しい布施とは

釈迦牟尼仏陀は、今度は須達多長者に向けて、維摩尊者の見舞いに行くように言われたが長者もまた、見舞いに行くことはできないと言うのだった。

ある時、長者が自分の父の邸宅にて、すべての貧しく困窮している人たちや、出家者や、バラモン、憐れむべき人や物乞いや乞食 たちのために七日間の盛大な布施の催しを行なっていると、維摩尊者が現われて、このようなやり方の施しの催しは行なわれるべきではなく、法を施す催しを行なうべきであることを説かれた。

法の施しには七日間という期間もなければ、始まりも終わりもなく、法の施しによってあらゆる衆生が完成させられることを尊者は説かれた。そして更に、法の施しとは、四無量心であり、六波羅蜜の実践であり、四摂法であることなど衆生を悟りへと導くあらゆる実践と手立てを示され、もし菩薩で、真実を解き与える施しを行なう人は、最も優れた施主であることを説かれた。その時、バラモンの二百人が至上最高の悟りへと発心し、私もまた心も清浄になり維摩尊者の足元に礼拝して身につけた何十万という瓔珞を捧げたものの、尊者は御受取りになられず、更にお納めくださいと御願いすると、尊者はそれらの瓔珞を二つに分けて半分をその催しのなかで一番気の毒な乞食に施され、もう半分を難勝如来に奉られた。維摩尊者は不思議を現わされて、このように説かれた。もし平等の教えに入って智慧を起こし、正しいことはすべて行なって、悟りに向けての修行法をすべて行なうならば、それを真実を説き与える催しと言うと説示された。その御教えを拝聴し、その場のバラモンたち二百人が発心をし、私の心も清浄となり、そういうわけで見舞いに行く任には堪えないことをお話しした。

更に、多くの菩薩もそれぞれ、釈迦牟尼仏陀に向かって、かつての維摩尊者の経験を述べ、尊者の説法を讃え、いずれも見舞いに行く任にたえないことを申し述べた。




文殊師利問疾品第五

維摩居士が文殊菩薩に菩薩の生き方を説く

文殊菩薩は釈迦牟尼世尊の御指示を請け維摩尊者の見舞いに赴き、そこには多くの菩薩や声聞、神々が同行した。維摩尊者は神通力を使って屋敷を空にし、文殊菩薩たちを迎えた。維摩尊者が、来るという姿をとらず見るという姿をとらずによく来ましたと迎えられると、文殊菩薩は既に来たものは来ることはなく、去ったものは去ることもなく、見られるものも更に見られることが無いと応じられた。文殊菩薩が病状を尋ねると、維摩尊者は世の人々を我が子のように愛するがゆえに、その身を病み、我が子の病が治れば菩薩の病もまた消える、と菩薩の病は広大な慈悲によって起こることをお話しになられた

維摩尊者の部屋を見て文殊菩薩は、なぜすべてが空っぽであるのかを尋ねると、それに対し尊者は、どの仏国土も本質的に空であることを説かれ、誤った思惟を離れた無分別の智は空でありであり、その思惟そのものもまた空であると示された。更に、文殊菩薩が空を何に求めればよいのと問われると、尊者は、空はこの生死の世界から離れたものではなく、生死の世界を通して求めるべきことを教えられた。

文殊菩薩は維摩尊者に対し、どのようにお慰めすれば宜しいでしょうかと尋ねると、尊者は、身の儚さを説くとしても、その身を嫌う様に説いてはならず、身の苦しみは説いても悟りを願い求めることに結びつけてはいけないと説かれ、原理は説いたとしても現在の苦を嫌うための安楽として涅槃を求めるように導くことを戒められた。

そしてまた、病の菩薩への見舞いには、罪を悔い改めるように説いても、その罪が終わったものと捉えてはいけないこと、菩薩が自らの病を通して世の人の病を憐み、この世の苦しみを知らせ、世の人の修めた功徳を思い出させ、正しい生活を念じさせ、憂いや悩みを起こさせず、精進の心を起こさせて、医王となってさまざまな病を治療することが必要だと、そのように菩薩を慰め喜ばせることであると話された。

次いで、病の菩薩は心をどのように整えて克服すべきかの文殊菩薩の質問に対し尊者は説かれた。

病にも肉体にも実体が無い、病とは絶対なる自性があるとの執着から起こり、肉体は物質的な仮和合であり、ただ物質が生じ滅するだけであり、そこに我はない。物質的なものに対する想念も虚妄分別であり、主体的存在とする我や属するものとしての我所から離れる必要がある。そのためには、相対する二つのものから離れ主観・客観のさまざまな存在を心から消し去って心を平等にすることである。平等が得られても空に対する執われが残るが、それもまた空である。その境地に至る菩薩は苦楽を感受することがないが、衆生のために苦しみや楽しみを感受することを止めず、私は既に苦しみを克服したのであるから、世の全ての人の苦しみを克服させてあげるのが当然であると思い、病の根源を断ち切ることを目的として世の人を教え導く。

病の根源とは何か。それは、対象に対し心が働きを起こすことであり、その対象とは迷いの世界である。その心のはたらきを断つには、すべてに捉われぬ無所得であることであり、そのためには相対的な考えである二見を離れることである。病の菩薩は自らの病が実在ではないことを観察し衆生の病もまた実在しないと内観する。もし執着から慈悲の心を起こした場合はただちにそれを捨てる。執われによる慈悲の心には生死を厭う心があるが執われを去れば、どこに生まれても束縛がなく衆生のために法を説き彼らを束縛から解放する。自らが束縛から解放されていてはじめて菩薩は衆生を解放させることができる。

煩悩にまみれて善を行なえば智慧なく束縛となり、煩悩を離れて善を行ない悟りへと向けて*廻向するならば智慧のある手立てとなり解放となる。衆生を捨てて自分だけが悟りを開かないことを、手立てと名付ける。菩薩は迷いの世界に留まっていても汚れに染まることなく、悟りの境界にあっても悟ることがない。すべては空であると悟っていても、悟りの境界に入らず衆生のなかに入り、世のすべての人を慈しみ愛していても、その愛情に執われない。そして維摩尊者は、菩薩の生き方をさまざまに説かれ、仏となって教えを説き、悟りの境界に入りながらもなお、菩薩の修行を捨てないのが菩薩の行ないであることを説かれた。そして文殊菩薩につき従って来た大勢の人々のうち八千人の天上の神々が最高至上の仏の悟りを求める心を起こした。




不思議品第六

維摩尊者の方便により「空」となった部屋で、舎利弗尊者が座席を気にする場面から、法を求める者の姿勢が説かれてゆく。法は色・受・想・行・識の五蘊や三界に執着するものではなく、あらゆる執着から離れた「空」の境地にある。維摩尊者は、この「不可思議」という解脱に住する菩薩の力を示し、無限の存在と非存在の中で法の本質を超越する姿を表現し、智慧と方便を以て執着を超克し真理を悟る道を示す。

不可思議という解脱

本章では、仏教の深遠な教えが劇的な展開の中で語られる。

舞台は、維摩尊者の小さな部屋である。舎利弗尊者が座席を探していることに対し、維摩尊者は鋭い問いかけをする。「法を求める者として来たのか、座席を求める者として来たのか?」この問いは、形式的な宗教行為と真の悟りの探求の違いを浮き彫りにする。




観衆生品第七

維摩尊者は「一切衆生を実体のない空と観るべし」と説き、菩薩は全ての存在を幻の如く捉えるべきであると説示する。一切の現象が無常であり、実体を持たない「空」であることを悟り、虚妄な分別を離れ、煩悩を離れて真の智慧に至ることを目指すことを説く。さらに、空なるものの中にあっても菩薩の慈・悲・喜・捨の実践は、衆生を救済し続ける無限の慈悲にあるのだと菩薩の境地を示す。

迷える衆生は実体のない幻であるとは
どのようなことか

菩薩は、一切衆生は「実体のない空なるもの」と観るべきである。それは恰も、水に映る月のように、蜃気楼の中の水のように、自然原理の他にあるはずのない元素のように、*六根の他にあるはずのない第七の根のように、無色界における色のように、*有身見を断じて*預流(須陀洹)の流れに入った者が、身体が存在するという誤った見解(有身見)を持つように、*不還(阿那含)に至った者が母胎に生を受けるように、*阿羅漢が*三毒を持つように、*無生法忍の菩薩が嫉妬・破戒・悪意・傷害の心を持つように、如来が煩悩の残存を持つように、涅槃にある者が再び肉体を受けるように、衆生とは、まさにこのように、ありえないものである。


*六根…眼・耳・鼻・舌・身・意
*有身見・・・自己や他者に対して固有の実体や固定された存在を持つと考える誤った見解。
*預流・・・仏教において悟りへの最初の段階を指す。この段階に達した人は、輪廻から解脱への道を確実に歩み始めたとされ、悟りへの不退転の状態にあるとされる。
*不還(阿那含)・・・仏教における四向四果の第三段階を指す。この段階に達した人は、欲界に二度と生まれ変わることがないとされる。
*阿羅漢・・・仏教における修行の最高段階を指す。この境地に達した者は、もはや生まれ変わることはなく、完全な悟りを得たとされる。
*三毒・・・苦しみや迷いを生じさせる根本的な要因で、善根を害する三つの毒。1.貪欲(むさぼり) 2.瞋恚(いかり) 3.愚痴(無明、おろかさ)。
*無生法忍・・・一切の事物・事象は空であり、生じたり滅したりしないことを覚ること。三法忍の一つ。*

*四無量心の「慈しみ(慈無量心)」の実践とは

一切衆生を実体のない空なるものと見るならば、菩薩は、どのように慈(慈しみ)を行じるのか。
菩薩が衆生をこのように観る時、「我はまさに衆生のために法(真理の教え) を説くべきである」と考える。真実の慈しみが、一切衆生に対して生じるのである。

生ぜられるものがないから、*寂滅の慈を行じ、煩悩がないから、煩悩の火に焼かれない慈を行じ、*三世は等しいから等しい慈を行じ、対立が起こらないゆえに争うことのない慈を行じ、内とも外とも交わらないから*不二の慈を行じ、究極においては尽きているから不壊の慈を行じ、菩薩の心は毀(やぶ)れることがないから堅固な慈を行じ、万物の本性は清らかであるから清浄な慈を行じ、菩薩の心は虚空のごとくであるから無辺の慈を行じ、煩悩の賊を打ち破っているから最上の聖者の慈を行じ、衆生を安んずるゆえに菩薩の慈を行じる。

真如を悟っているゆえに如来の慈を行じ、衆生を目覚めさせるがゆえに仏の慈を行じ、無因にして悟りを得ているゆえに自然の慈を行じ、物事の本質は等しく*一味であるがゆえに悟りの慈を行じ、諸々の愛欲を断じているから無益の慈を行じ、大乗によって衆生を導くから大悲の慈を行じ、空・無我を観ずるゆえに*懈怠のない慈を行じる。

物惜しみのないゆえに*法施の慈を行じ、戒律を破った人を導くゆえに持戒の慈を行じ、自他を護るゆえに忍辱の慈を行じ、一切衆生を担い運ぶゆえに精進の慈を行じ、味(感覚的喜び)に耽溺しないゆえに禅定の慈を行じ、衆生を導くべき時を知るから智慧の慈を行じ、一切のものに悟りへの門を示すゆえに方便の慈を行じ、直き心が清浄であるゆえに偽りのない慈を行じ、*雑行なきゆえに深心の慈を行じ、*虚仮なきゆえに誑(たばか)りのない慈を行じ、人々に仏の楽を与えるために安楽の慈を行じる。
菩薩の慈はこのようなものである。

*四無量心・・・四つのはかり知れない利他の心。慈(いつくしみ)、悲(あわれみ)、喜(他者を幸福にするよろこび)、捨(すべてのとらわれを捨てる)の四つの心で、人々を悟りに導くこと。
*寂滅・・・迷いを離れた悟りの境界。
*三世・・・過去・現在・未来
*不二・・・相反するように見えるものも対立する二つのものではなく絶対平等であること。
*一味・・・現象は様々に異なって見えても、実は本質はすべて同じで平等であること。
*懈怠・・・怠り怠けること。
*法施・・・人に仏法を説いて聞かせること。三施の一つ。
*虚仮(こけ)・・・偽り、実の伴わないこと。
*雑行(ぞうぎょう)・・・人を悟りに導く正しい行ない(正行)以外の様々な行ない。

四無量心の「悲れみ(悲無量心)」の実践とは

菩薩にとっての大いなる悲れみ(悲)とは、菩薩が積んだ*善根を一切衆生に与え、共にすることである。

*善根・・・善い果報をもたらす行ない。

四無量心の「喜び(喜無量心)」の実践とは

菩薩にとっての大いなる喜び(喜)とは、他の者を益することがあれば、歓喜し、悔いることのないことである。

四無量心の「平等(捨無量心)」の実践とは

菩薩にとって差別なく平等に利すること(捨)とは、自ら作った功徳さえも望むことなく、慈・悲・喜のこころにとらわれず、他を利するために捨てて顧みないことである。

諸法無我とは、どのようなことか

維摩尊者は文殊菩薩に次のように説き、一切のものは依って立つ根拠がない*無住という根源によって成立しており、根拠のないものを*妄想分別して恐怖にとらわれてはならないと説いた。

生死の恐怖にとらわれる菩薩は、如来の功徳の力により、一切衆生を救い解脱させることに住すべきである。衆生を救おうと欲するならば、正しく念うことを行じ、その煩悩を除くべきである。正しく念うことを行ずるには、不生不滅を行ずるべきである。悪が生じず(不生)、善が滅しない(不滅)。善と悪は身体を根源とし、身体は貪りを根源としている。貪りは虚妄なる分別を根源としており、虚妄なる分別は誤った顛倒の想いを根源としている。誤った想いは無住を根源としている。すなわち、無住という根源によって一切のものが成立しているのである。

*無住・・・住するところがない、よりどころがない状態
*虚妄分別・・・物事の真相を誤って見て、みだりに理解し判断すること。縁起によって生じたものを実体として誤認する心作用。

天女の花の散華の教え

維摩尊者の部屋に住む天女が説法を聞いてその姿を現し、天上の花を諸々の菩薩・大弟子たちの上に散じた。
菩薩たちの身体に落ちてきた花々は地面に落ちたが、大弟子たちに落ちてきた花々は身体に付いて落ちなかった。大弟子たちは、これらの花は修行僧にふさわしくないと考え神通力によって取り払おうとしたが、取り去ることができなかった。

天女は舎利弗尊者に、なぜ花を振り払おうとするのかと尋ねる。
舎利弗尊者は、花で身を飾るのは出家者にふさわしくないゆえにと答える。しかし、花には分別する働きはなく、花が身体に付いて落ちないのは舎利弗尊者に分別の心があるがゆえであり、出家していながら分別の心をおこすことこそ、出家者に相応しくない、と天女は説く。
一切の分別の心を断じている菩薩の身には花は付かないのである。人が恐れを抱くときに悪鬼が付け入るように、生死を恐れているから色声香味触の五欲が心に付け入る。生死の恐れを離れた者に、一切の五欲は何も成すことはないのである。

解脱とは何か

解脱は内でもなく外でもなく、その中間にあるものでもない。また、言葉を離れて語れるものでもない。なぜなら一切諸法(万物)は解脱の相を表しているからである。我はこれを獲得したとか、何かを悟っているというのは、増上慢の言である。

人々を救う教えの説かれる維摩尊者の部屋

俗なる娑婆世界にて衆生を救おうとする維摩尊者の部屋は、そこに入った者に、優れた方の説く正しい教えを聞いて悟りを求める心をおこさせる。
この部屋では常に*六波羅蜜による不退転の法が説かれ、多くの宝に満ちているがいくら施しを与えても尽きることがないなど、未曾有にして得難い法が現ずる。このように、ただ一人悟りを求めるのではなく、衆生を救おうとすることこそ素晴らしいものである。

*六波羅蜜・・・
 布施・・・財施、法施(真理を教えること)、無為施(恐怖を除き安心を与えること)の三種
 持戒・・・戒律を守ること
 忍辱・・・苦難に耐え忍ぶこと
 精進・・・たゆまず仏道を実践すること
 禅定・・・瞑想により精神を統一させること
 智慧・・・般若。真理を見極め悟りを完成させる智慧

ただ本願をもってのゆえに、こころのままに
衆生を教化する

舎利弗尊者は、天女の未来の生死や悟りの時期について問うが、天女はそれを超越した「無生法忍」の智慧によって答える。天女は、あらゆる存在が空であり、本質的に生まれもせず滅びもしないこと、悟りとは、何かに到達することではなく、悟ることがないという因によるものであることを示す。

維摩尊者は、天女が多くの仏陀に仕え、誓願の力によって自在に現れ、衆生を悟りへと導いている存在であることを示し、天女の存在が衆生救済の誓願によるものであることを強調する。
まさに菩薩は、迷いの俗なる世界である娑婆世界に止まり、生死を繰り返しつつ無限ともいえる長い時間をかけて、ただ衆生を救済せんと志すのである。


仏道品第八

維摩尊者は「非道を行く時、仏法に通達した道を行く」と説く。菩薩は、一見すると道に外れたように見える行為を通じて、煩悩を断ち切り、究極的には仏道を行ずる。菩薩はその大慈悲心により、人々を真に救うためにあらゆる場所へ出向き、法を説く。世俗のあらゆる煩悩や誤った道も、菩薩が真の智慧を持ち、煩悩に染まらない限り、悟りへの道と化すことを示す。


どのような道からも仏道に至ることができる

維摩尊者(ヴィマラキールティ)は、たとえ非道と呼ばれる迷いや罪の道を歩んでいても、菩薩は煩悩を離れ、他者を悟りに導くために大いなる慈悲(大悲)を持って行動することによって、最終的に仏道に達することができると説く。
菩薩は*五無間業(五逆罪)や地獄の道、畜生道などの苦難に満ちた世界を通る際にも、これらの試練を克服し、依然として清浄な心で仏道を歩み続ける。阿修羅道においては、慢心や傲慢さを捨て去り、夜摩道では、福徳や智慧を積み重ねることによって、仏道への道筋を守る。

*五無間業(五逆罪)とは、1.母親を殺す罪 2. 父親を殺す罪 3.阿羅漢(あらかん、解脱者)を殺す罪 4.仏の身体に傷をつけて血を流させる罪 5. 教団を分裂させる罪。これらの罪を犯すと無間地獄(苦しみが絶えない地獄)に堕ちるという。

*地獄道、畜生道、阿修羅道、夜摩道とは、六道輪廻の一部。六道輪廻は衆生が業によって生死を繰り返す六つの迷いの世界。地獄道、餓鬼道、畜生道、阿修羅道、人間道、天道。

輪廻を繰り返す世界から超越する

衆生が輪廻する三つの世界のうち、*欲界以上である、色界(清浄な物質的なものからなる世界)、そして無色界(物質を超えた世界)に達しても菩薩は満足することがなく、その道に入らない。菩薩は、無色界の境地に執着することなく、さらに超越した世界を追求する。

*欲界、色界、無色界とは、衆生が生まれて死に輪廻する領域としての三つの世界。
1.欲界はもっとも下にある、欲の盛んな世界で六欲天(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天)に分かれる。
2.色界は欲を離れた清らかな世界で、絶妙な物質(色)から成る。色界は四種の禅定を修して生まれる世界で初禅から第四禅まである。
3.無色界は物資の存在しない世界で四つの領域がある(空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処)。

*三毒(貪・瞋・癡)を克服する方法とは・・・菩薩はたとえ貪欲の道(貪)を歩む際にも、あらゆる欲望を制して、これを離れる心を持っている。憎悪の道(瞋)を歩む際にも、怒りを抑えて他者との衝突や対立を避け、全ての衆生に対して平和な心で接する。愚かさや無知の道(癡)を進む際にも、菩薩は智慧の心によって、物事の本質を洞察しこれを克服する。また、菩薩は物惜しみの道(慳貪)を歩む際にも、自己の内面と外面のあらゆるものを喜捨し、身体や生命をも惜しまない。

*三毒とは、苦しみや迷いを生じさせる根本的な要因で、善根を害する三つの毒。
1.貪欲(むさぼり)
2.瞋恚(いかり)
3.愚痴(無明、おろかさ)。

破戒と無智の道に行っても精進を続ける

破戒の道を行っても、あらゆる戒律に熟達し、頭陀行(衣食住に関する貪りを払い除く修行)を具え、少欲知足に立っていて、わずかな過失にも大いなる畏れを抱く。悪意による恨みや怒りの道を行っても、慈しみの中にいて、究極的には悪に染まらない心を持っている。
怠惰の道を行っても、善根を求めることに専念し、絶えず努力精進に取り組んでいる。錯乱した感覚器官の道を行っても、空虚ならざる禅定を行ない、本来の禅定の状態に入っている。
菩薩は、世俗的な知識から超世俗的な智慧までを深く理解し、無智の道を歩む中でも、智慧の完成(智慧波羅蜜)に達している。五欲(色・声・香・味・触)の泥沼から抜け出して、常に法を心に留めて忘れさせない*陀羅尼(ダーラニー)の力を得ている。
また、菩薩は、涅槃という悟りの境地に至ったとしても、輪廻の中で生き続け、他者を救う役割を果たし続ける。涅槃に安住することなく、輪廻の苦しみの中で他者を導く。

*ダーラニー(陀羅尼)とは、経典を記憶し、善法を保持する力。また、心の散乱を防いで集中するための呪文。

あらゆる煩悩が如来の種である

煩悩や誤った見解など、通常は悟りの障害とされるものが、実は如来(仏)を生じさせる種であり、基盤である。無明や*三毒(貪・瞋・痴)、*四顚倒、*五蓋など、あらゆる迷妄や悪しき行為が、修行によって転じられることで、如来となるための「種」となり得る。つまり、如来の家系とは、これらの煩悩や誤った見解を超克し、悟りへと至る道そのものである。

*三毒・・・煩悩の根本となる三つの心の働きを指す。貪(とん)は欲望や執着、瞋(じん)は怒りや憎しみ、痴(ち)は無知や迷妄を意味し、これらが私たちの苦しみや迷いを生み出す原因となる。

*四顚倒・・・真実を逆さまに捉える四つの誤った見解を指す。具体的には、無常を常と見なし、苦を楽と見なし、無我を我と見なし、不浄を浄と見なすこと。これらの誤解が、迷いや苦しみを生む原因となり、悟りを妨げる。

*五蓋・・・修行や悟りを妨げる五つの心の障害を指す。具体的には、貪欲(欲望)、瞋恚(怒り)、睡眠(怠け心)、掉悔(後悔と不安)、疑(疑念)のこと。これらが心を覆い、清らかな心を妨げる。

煩悩の汚泥の中から清らかな蓮華の花は咲く

無為に触れて正位(さとりの境界)に入った者は、もはや無常の悟り(阿耨多羅三藐三菩提)を求める心を起こすことはできない。煩悩の家である有為に住む衆生こそが、この上ない正しく完全な悟りに向けて心を発すことができる。
無為によって正位に達した者は、仏の諸々の特質(仏法)を生じることはない。煩悩の汚泥の中にいる衆生こそが、仏の諸々の特質を生じることができる。それは、蓮華が汚れた泥沼からよく育つようなものである。一切の煩悩が如来の種である。煩悩の大海に入らなければ、全知という宝を得ることはできない。

大いなる方便で衆生を導く菩薩の姿

菩薩は、智慧(般若波羅蜜)を母、方便を父として生まれ、慈悲を子供、法を妻とする存在である。そして、空の意味についての思索が家である。
煩悩を従順な弟子とし、*七覚支を友とし、*六波羅蜜を伴侶としながら、*四摂法が家の女たちである。菩薩は、衆生を導くために大いなる方便を用いる。菩薩は、八正道を進み、四魔(五陰魔・煩悩魔・死魔・天魔)を打ち破り、菩提の座に立ち、衆生に無常の真理を示す。菩薩は無限の知識と行動力を持ち、無限の生命を解放へと導く勇者であり、常に衆生を救うためのあらゆる手段を駆使する。

*七覚支・・・悟りを得るために不可欠な七つの修行要素を指す。これには、①念(正しい気づき)、②択法(正しい判断)、③精進(正しい努力)、④喜(喜び)、⑤軽安(心の軽やかさ)、⑥禅定(集中力)、⑦捨(平静)が含まれる。これらは仏道修行において重要な支柱となり、最終的な悟りに至る道を支えるものである。

*六波羅蜜・・・
 布施・・・財施、法施(真理を教えること)、無為施(恐怖を除き安心を与えること)の三種
 持戒・・・戒律を守ること
 忍辱・・・苦難に耐え忍ぶこと
 精進・・・たゆまず仏道を実践すること
 禅定・・・瞑想により精神を統一させること
 智慧・・・般若。真理を見極め悟りを完成させる智慧

*四摂法(ししょうぼう)・・・四つの徳行を指し、衆生を仏道に導き、共に救済へと至るための根本的な実践。他者との良好な関係を築き、仏道に導くために用いられる。
1.布施(ふせ)・・・他者に惜しみなく施しを与えること。物質的なものだけでなく、教えや心の支えを提供することも含まれる。
2.愛語(あいご)・・・優しい言葉を用いて他者に接し、心を和らげ、仏道に導く言葉を語ること。
3.利行(りぎょう)・・・他者の利益となる行動を実践し、他者を助け、利益をもたらすこと。
4.同事(どうじ)・・・他者と共に行動し、その立場に立って共感し、共に道を歩むこと。




入不二法門品第九

諸法の二元対立を超越し、真理に至る境地が維摩尊者の沈黙によって説かれる。菩薩たちが二元対立を超越する教えを述べ、それぞれの観点から「不二の法門」について語る。しかし、最終的に維摩尊者は、沈黙を以て「不二の法門」を示す。この沈黙にこそ、すべての対立や執着を超えた無分別智が具現され、言葉を超えた真理に達する境地が表現される。

不ニの法門とは

維摩尊者が、*絶対平等の境地である不二の法門に入るとは、どのようなことかを問うたとき、菩薩たちは、おのおのが、相反するように見える対立を示し、その対立を超えることが不ニの法門に入ることだと答えた。

いわく
生ずることと滅することは対立する。しかし、生ずることのないものは滅することもない。何ものも生ずることはないという真理を認める知*(無生法忍) を獲得することが、絶対平等である不二の法門に入ることである。

我れと我がものは対立する。しかし、我れがなければ我がものもない。我れと我がものと分別しないことが、絶対平等である不二の法門に入ることである。

智慧と愚かさは対立する。しかし、愚かさの本性は智慧であり、智慧もまた執着してはならないものである。一切のものを離れ、平等で相対するものがない。これが、絶対平等である不二の法門に入ることである。

仏、仏の教え(法)、教えを奉ずる僧団(衆)の三つは、それぞれ別のものとして対立する。しかし、仏とは教えであり、教えはそれを奉ずる僧団である。この三つの宝(三宝)はいずれも絶対の真実の現れであり、大空(虚空)のようなものである。すべてのものもまた、これに同じであると知って、よく行なうならば、これが、絶対平等である不二の法門に入ることである。

闇と光は対立する。しかし、一切の心のはたらきが尽きた静寂の境地*(滅受想定)に入れば、闇もなく光もなく、すべてのものがこれと同じである。これが、絶対平等である不二の法門に入ることである。

さらに多くの菩薩が対立するものと、その対立を超えて不ニの法門に入ることを言葉で示した。

文殊菩薩は、おのおのの菩薩が言葉巧みに不ニの法門に入ることを示したことをたたえた。しかし、その上で、言葉なく、説くことも、示すことも、認知することもなく、一切の問と答えを離れることこそ不ニの法門に入ることであると説き、最後に維摩尊者に不ニの法門に入るとはどのようなことかを問うた。

維摩尊者は問いに黙念として語らず。
一黙、響き雷の如し。

文殊菩薩は感嘆の言葉を発し維摩尊者をたたえた。一つの文字もなく、一つの言葉もない、これこそが絶対平等の不ニの法門である。

そのとき、ここに集った五千人の菩薩は絶対平等の境地に入り、真理をさとった安らぎ(無生法忍)を得た。

*絶対平等の境地とは・・・すべての現象や存在が本質的には区別や差異がなく、根源において一体であることを悟る境地である。これにより、執着や偏見を超越し、無分別智によって全てを平等に見る智慧が得られる。

*不二の法門とは・・・あらゆる対立や二元性を超越し、全ての現象が本質的に一つであることを悟る境地を指す。この教えにより、菩薩は善悪、是非、生死などの相対的な分別を超え、空(くう)という真理に基づいて平等な智慧を得る。不二の法門は、悟りへの道を示す重要な教義である。

*不二とは、相反するように見えるものも対立する二つのものではなく絶対平等であること。

*法門とは、真理へ入る門、すなわち仏の教えのこと。

*無生法忍とは、三法忍の一つ。すべてが生じることもなく滅することもないという真理を認識すること。

一切の現象が生起しないという真理(無生法)を深く理解し、動揺せずに受け入れる境地を指す。

*滅受想定・・・受(感受作用)と想(表象作用)の働きが完全に止滅し、心が深い寂静の境地に達した状態を指す。これは、最も高次の禅定の一つであり、煩悩や執着から完全に解放された境地。




香積仏品第十

維摩尊者は、もし菩薩が非道(煩悩に迷う誤った道)を行くなら、これが仏道に通達するということであると説く。ここでは食という煩悩をもたらすものをもって衆生を導くことが語られる。

残り物により衆生を導く

維摩尊者は、食事の時間を気にする舎利弗尊者を諫め、仏の説く*八解脱を聴くのに欲望をもたらす食物を雑(まじ)えてはならない、と説く。
そして維摩尊者は、ただちに*三昧に入って、神通力をもって、この上ない香気を放つ仏の衆香世界を示す。そこは香りに満ちた清浄な世界であり、仏が菩薩たちと共に坐り、香で作られた食事を摂っている。この世界には、ただ悟りに向かう菩薩たちが存在する。
維摩尊者は、香積仏の世界から食事を請来するために神通力を用い、一人の化作(けさ)された菩薩を生み出す。このように真の菩薩は、請来された食事により俗なる娑婆世界において仏の徳を現わし、衆生に真実の道を弘め、仏のみ名を広く知らせ、衆生を導こうと願うのである。

*八解脱・・・四無色定、滅尽定など、八種の禅定。貪りなどの煩悩を捨て去るとされる。

*三昧・・・心を一つの対象に集中させ、動揺せずに安定した状態に達することを指す。

仏の大悲には限りがない

香積仏の甘露味の食物を、維摩尊者は大弟子たちに振る舞う。
尽きることのない仏の食べ物を用い、その香気で世界を満たした。*四大海の水は枯渇して尽きることがあっても、仏の大悲は決して尽き果てることはない。なぜなら、*戒・定・慧の三学、解脱・*解脱知見から生じた尽きることのない功徳を身に具えた仏の残り物であり、これを尽きさせることはできないからである。
仏の智慧と福徳は無限であり、すべての衆生に平等に与えられ、衆生すべてを救う力を持っているのである。

*四大海・・・須弥山の四方を囲むとされる大海

*戒・定・慧の三学・・・持戒・三昧・智慧

*解脱知見・・・解脱したと自覚すること。戒・定・慧・解脱・解脱知見の五つを五分法神といい、仏と阿羅漢が具える徳性。

菩薩は苦をもって衆生を導く

頑固で教化しがたい衆生を導くために、菩薩は強い言葉を説いて、衆生の心を抑えつけ、調えられる。すなわち、様々な煩悩に囚われ悪業を重ねた結果、苦果を受けるということである。
例えば、地獄・餓鬼・畜生などの六道輪廻を繰り返すこと、*身口意による悪しき行為とそれによりどのような報いを受けるか、*十悪とはどのような行為で、それによる報いは何か、などである。このように、具体的に心に苦痛をおぼえるような教えを聴くことによって初めて、頑固な衆生は規律正しい生活(律)へと向かうのである。

*身口意(しんくい)の三業・・・行動・言語・精神の働き。日常の行為。

*十悪・・・身・口・意の三業が作る十種の悪。「殺生(せっしょう)」「偸盗(ちゅうとう)」「邪婬(じゃいん)」の身三、「妄語(もうご)」「綺語(きご)」「悪口(あっく)」「両舌(りょうぜつ)」の口四、「慳貪(けんどん)」「瞋恚(しんに)」「邪見(じゃけん)」の意三。

菩薩の「十種の善」とは何か

この俗なる世界は苦しみに満ちた場所である。
だからこそ、他の仏国土には存在しない「善を積み重ねる十種の法」を実践することで、菩薩たちは大いなる慈悲と智慧を培うことができる。この十種の法を実践することで、菩薩たちは悟りの道を進み、他者を救い、遂には完全に清められた仏国土に生まれる資格を得るのである。十種の善とは、すなわち、布施(貧困な者たちの中にあって布施を積み重ねること)、持戒を積み重ねることにより(浄戒)戒を破った人を導くこと、忍耐(忍辱)によって憎悪(瞋恚)を抱く人々をやわらげること、努力精進によって怠惰な人々を導くこと、禅定によって心の乱れた人々を導くこと、智慧によって無智な人々を導くこと、仏法修行の障碍を除く方法を説き八つの不遇(八難)に陥った人々を救うこと、智慧によって*愚癡の人を救うこと、善根を積み重ねて、福徳のない人を救うこと、*四摂法によって衆生を悟りへ向けて成熟させることである。

*愚癡(ぐち)・・・真理に暗く、無知なこと。根本煩悩である三毒の一つ。他は、貪欲(むさぼり)と瞋恚(怒り)

*四摂法(ししょうぼう)・・・四つの徳行を指し、衆生を仏道に導き、共に救済へと至るための根本的な実践。他者との良好な関係を築き、仏道に導くために用いられる。
1.布施(ふせ)・・・他者に惜しみなく施しを与えること。物質的なものだけでなく、教えや心の支えを提供することも含まれる。
2.愛語(あいご)・・・優しい言葉を用いて他者に接し、心を和らげ、仏道に導く言葉を語ること。
3.利行(りぎょう)・・・他者の利益となる行動を実践し、他者を助け、利益をもたらすこと。
4.同事(どうじ)・・・他者と共に行動し、その立場に立って共感し、共に道を歩むこと。

完成すべき八つの在り方とは何か

菩薩は、八つの在り方を完成すると、死んだ後に、行ないに傷もなくなって浄土に生まれる。八つの在り方とは、すなわち、(1)あらゆる衆生のために利益をなし、見返りを望まない。(2)あらゆる衆生の苦しみを彼らに代わって耐え忍び、すべての善根をあらゆる衆生のために施与する。(3)あらゆる衆生に対して憎悪することも衝突することもない。(4)すべての菩薩たちに対して仏に接するように見る。(5)いまだ聞いたことのない諸々の法や、かつて聞いたことのある諸々の法を聞いても、それらを謗(そし)ることがない。(6)他者の利得を嫉(ねた)むことがなく、自己の利得によって他者を蔑(さげす)むことがない。(7)自己の誤りを点検し、他者の過失を譏らない、(8)常に変わらない心を持って、様々な功徳を求める。

これらが、菩薩が清らかな仏国土に生まれるために備えるべき「八つの在り方」である。




菩薩行品第十一

アームラパーリーの園で説法をされる釈迦牟尼世尊の下に、維摩尊者と対話をしていた文殊菩薩が大いなる聴衆と共に訪れ礼拝した。其処では有為と無為の二元的対立を超越する菩薩行の教えが説かれる。有為の行いを尽きさせず、無為に留まることもない菩薩の行為は、煩悩の根を断つ一方で、無限の慈悲と智慧に基づき衆生を救済することにある。菩薩は、有為を尽きさせず、無為に住することなく、世俗と涅槃の二元を超越し、常に衆生を利益するための活動を続けることが示される。

法の象徴としての食べ物と智慧

この章で語られる「食べ物」は、単なる物質的なものを超えて、仏教の教えである「法」の象徴として描かれている。仏国土から維摩尊者がもたらした食べ物が香りを放つというエピソードは、具体的には法(真理)の力や影響力の広がりを示しており、物質的な供養以上に、智慧を受け取ることの重要性が強調される。

この「食べ物」は、智慧そのものや仏法を象徴し、これを食べるという行為は、仏教の真理を受け取り、心に深く宿すことを意味する。法を味わい、摂取することで、修行者は真理を理解し、さらなる悟りに近づく。ここで説かれているのは、物質的な食事が一時的であり、最終的には尽きてしまうものであるのに対し、法や智慧は尽きることがなく、永遠に受け継がれていくという対比である。

菩薩は、この無尽蔵の智慧を多くの衆生に分け与える役割を持っており、これこそが「尽きないこと」の本質に他ならない。物質的なものは限界があるが、法を与えること、すなわち智慧を広める行ないは、無限の力を持つ。
この教義は、菩薩が如何にして自身の智慧を深め、他者に伝えるか、という根本的な菩薩道の実践を示しており、衆生救済のための菩薩の行動が尽きることのないものであるという仏教の理念が語られている。

「尽きることと尽きないこと」とは何か

法施をどのように行なったら良いか。
それは「尽きることと尽きないこと」を、菩薩自身が明確に把握する必要がある。「尽きること」とは、有為法、つまり因縁によって生じる現象世界、無常で移ろいやすい事柄のことで、我々の現実世界はこの有為法の領域で、すべては変化し、最終的には尽きるものである。

一方、「尽きないこと」とは、無為法、つまり不生不滅の真理、因縁に左右されない永遠の状態のことである。

菩薩の修行において重要なのは、この「尽きること」と「尽きないこと」の両方を深く理解し、単に、涅槃を求めて坐禅や仏典の勉強をするだけでなく、他の人々の救済のために世俗に目を向けることである。

菩薩は、智慧によってものごとの本質を見抜き、尽きるものと尽きないものを見極め、慈悲によって、人々一人一人の悩みや個性に寄り添い、適期に適切な法施を行なう。

「菩薩は有為を尽さず、無為に住せず」とは何か

菩薩の行なうべき「尽きることと尽きないこと」の法施は、違う言葉で、「有為を尽さず、無為に住せず」と説かれている。菩薩は、如何にして有為と無為を両立させるべきか、バランスが求められる。

「有為を尽さず」とは何か

仏教において、有為(うい)とは、因縁によって生じ、変化し続ける現象や行為を指す。これらを「有為法」といい、時間や空間に依存して存在するものであり、最終的には滅する。例えば、物質的な財産や名誉、さらには一時的な感情や知識も、有為法に含まれる。菩薩がこの有為法の中で活動するのは、人々を救済し、仏道に導くためである。菩薩は世俗的な活動を通じて、布施や教えを伝え、人々が苦しみから解放されるように努める。

しかし、これら有為法に囚われず、究極の目的である悟りを忘れてはならないという戒めも含まれている。

「無為に住せず」とは何か

菩薩は悟りの境地である無為に安住し、自己の解脱だけを求めるのではなく、有為の世界で人々を導く活動を軽んじてはならない。無為の境地に執着してしまうと、菩薩は自らの悟りに閉じこもり、人々を見捨てることになりかねない。無為法に心を向けることに偏らず、現実の世界の中で、人々の中に戻って皆を救済することを忘れてはならない。

菩薩は、「空」、*「無相」、*「無願」、*「無作」の感得に努めても、それに陥ることはない。*「諸行無常」、*「諸法無我」、*「涅槃寂静」の真理を観じながら、空虚な現実世界において、人々の苦しみを我がこととし、救うために尽力する。

*無相・・・物事や現象の形や姿にとらわれず、全ての存在が空であると理解し、その真理に基づいて行動すること

*無願・・・執着や報いを超越し、無私の心で他者を救済すること

*無作(むさ)・・・結果を求めず、自然体で無心に善行を行なうこと

*諸行無常・・・仏教の基本教義-全ての現象や存在は常に変化し、永続するものは何もない

*諸法無我・・・仏教の基本教義-全ての存在は固定された自我を持たず、相互依存しつつ変化する

*涅槃寂静・・・仏教の基本教義-執着を去り、悟りを得て至る心の平安と静寂の境地

菩薩行の指針「四摂法」

菩薩が他を導き、共に仏道を歩むための四つの実践的な徳目がある。他者への慈悲と智慧を具体的に示すもので、四摂法(ししょうぼう)という。

1. 布施(ふせ)・・・物質的・精神的に他者に惜しみなく施す行為。慈悲の実践。
2. 愛語(あいご)・・・温かく思いやりのある言葉で他者に接すること。慈愛の言葉。
3. 利行(りぎょう)・・・他者の幸福を考え、積極的に行動すること。
4. 同事(どうじ)・・・他者に協力し、その苦しみに寄り添うこと。

仏道は、常に、自分の、他者への理解と愛情が深いものであるかどうか、自分より他者に利しているかどうかが、日々の生活の中で、問われるものである。




見阿閦仏品第十二

如来を見たいと欲する時どのように如来を見るか、の釈迦牟尼世尊の問いに対し、維摩尊者は、見ないことによって見ることを申し述べる。如来の本質は一切の相対的な存在や概念を超越し、空性であり肉体や感覚、思考に束縛されることなく、無相無為の境地にある。それゆえに眼に見えるものとしては捉えられない。菩薩は、一切の執着や分別を離れた「見ないこと」によって、真実の姿を見いだすべきであることが説かれる。

如来(仏)とはどのようなものか

仏は過去、未来、現在のいずれに存在しているものでもない。物質的なもの*(色)でもなく、物質的なもののあるがままの真のすがた(如)でも存在性(性)でもない。感受・表象・形成・識別(受・想・行・識)のいずれの作用でもなく、それらの本性でもない。四大元素(地・水・火・風)から生じるものでもなく、虚空に等しいものである。眼・耳・鼻・舌・身・心を超え、*三界にはおられず、*三垢(貪欲・瞋恚・愚痴)を離れ、解脱に通じる三つの門*(三解脱門)にしたがい、三つの叡智*(三明)をそなえ、しかも*無明と等しい。一相(同一の性質を持つ)でもなく、異相(種々の性質を持つ)でもなく、自相(固有の姿)でも他相(他の違う姿)でもなく、無相(姿がない)でも取相(捉えられる姿がある)でもない。此岸(この世)にあるのでも彼岸(あの世)にあるのでもなく、その中間にあるのでもない。

*寂滅に入っても永く入りきることはなく、ここにあるのでも他にあるのでもなく、知恵や認識によって知ることもできない。闇でもなく光でもない。名前やかたちもない。強くも弱くも、清くも穢れてもいない。方向と関係がないが、無関係でもない。*無為でも有為でもない。示すことなく説くことなく、施すことなく、もの惜しむことなく、戒めを守ることなく、破戒することなく、忍ぶことなく、怒ることなく、努めることなく、怠ることなく、定まることなく、乱れることなく、智慧があるのでもなく、愚なのでもなく、誠でもなく、偽でもなく、来るものでも去るものでも、出るものでも入るものでもなく、どんな言葉でも言い表すことはできない。

*福田であるのでも、福田でないのでもない。供養に応じる(布施を受ける)のでもなく応じないのでもない。取るのでも捨てるのでもない。有相でも無相でもない。究極の悟りと同じであり、*法性と等しい。はかることはできず、はかる限度を超えている。大きくも小さくもなく、見ることも聞くことも覚ることも知ることもできない。あらゆる煩悩を離れ、どのような智慧とも等しく、どのような人とも同じである。分別することなく、得ることなく、失うことなく、けがれなく、悩みなく、作ることなく、起こすことなく、生ずることなく、滅することがない。恐れなく、憂いなく、喜びなく、厭いもない。過去も未来も現在もない。どんな言葉でもはっきりと示すことはできない。

*色・・・仏教で人間存在を構成する要素とされている「五蘊(色・受・想・行・識)」の一つ。

*三界・・・生あるものが輪廻を繰り返す三つの迷いの世界。欲界・色界・無色界の総称。

*三垢・・・仏教で取り除くべきとされる三つの根本的な煩悩。貪欲(貪り)・瞋恚(怒り)・愚痴(無知)。三毒

*三つの門・・・解脱に至る三種の三昧。一切が空であると観ずる空解脱、一切に差別相のないことを観ずる無相解脱、さらに願求の念を離れる無願解脱の三種。

*三つの叡智・・・仏・菩薩などが持っているとされる六種の神通力のうち、宿命通(自他の過去世について自在に知る力)、天眼通(自他の未来世について自在に知る力)、漏尽通(煩悩が尽きて輪廻から脱したことを知る力)の総称。

*無明・・・真理に暗い無知のこと

*寂滅・・・悟りの境地に入ること

*無為と有為・・・「有為」は、因縁によって生滅する相対的なあり方のこと。「無為」は、因縁を離れた不生不滅のあり方のこと。

*福田・・・善行の種をまいて福徳の収穫を得る田という意味

*法性・・・ものごとのあるがままの姿

菩薩の転生

死ぬことは、*虚妄なるものが壊れ滅びることであり、生まれることは、虚妄なるものが存続する姿である。菩薩は死ぬが、善根を滅ぼすことはなく、生まれても悪を増大させることはない。菩薩が妙喜国の無動仏(阿閦仏)のもとより娑婆世界に生まれ変わって来るのは、この世に光を生じ、煩悩の闇を除くためである。

*虚妄(こもう):実体のないものを実在するかのように錯覚する心の働きを指す。真理に反し、迷いや執着を生み出す原因となるものであり、修行によってこれを打破し、真実を見ることが重要とされる。




法供養品第十三

釈迦牟尼世尊の下に、帝釈天は、「不可思議解脱」という法門に対する深い信仰を示し、その法門を受持し修行する者たちを守護し支援することを誓う。この法門を会得する者は、すべての悪道を閉ざされ、悟りへの道が清められ、教えの中心には、如来の真理への供養は財物ではなく、法の供養によって成し遂げられるべきであるという重要な教えが据えらる。如来の悟りは法に由来し、法への供養と、敷衍こそが至上の供養であると説かれ物質的供養を超越し、法の真理を尊重し守ることの大切さが示される。

真の供養と解脱への道

本章では、「法の供養」に焦点を当てている。ここでは、仏陀への供養において最も重要で尊いのは、財物や物質的な贈り物ではなく、法、すなわち仏法を理解し、実践し、広めることであると説かれている。この教えは、仏教の根本的な思想である「無常」「無我」「空」といった概念を背景に、真の悟りを得るための道筋を示している。


法の供養の意義

「法の供養」とは、如来が説いた深遠な教えを学び、実践し、他者に伝えることを指す。それは、単に経典を読誦することや書写することだけでなく、仏教の真理を深く理解し、その真理を自らの行動や心の中に体現することが重要であるのだ。この教えは、仏教徒が物質的な執着から解放され、真の精神的な自由を追求する道筋を示している。


空性と縁起の理解

この教義は、仏教の根本概念である*空性、*無相、*無願、*無作を強調している。これらの概念は、あらゆる現象の本質的な空虚さと相互依存性を示すものである。我、衆生、生命、個我といった実体的な存在を否定し、縁起の理法を心から信じ従うことを説いている。この理解は、執着から解放され、真の解脱へと至る基盤となる。

*空性:全ての存在や現象には固有の本質や実体がなく、因縁によって生じたものであるという教え。物事は独立して存在せず、相互依存的であり、これを理解することで執着や錯覚から解放されるとされる。

*無相:全ての存在や現象には固定した形や特徴がなく、実体的な姿が存在しないという教え。

*無願:特定の欲望や執着を持たず、無心の状態であることを指す。欲望や願いから解放されることで、心の平安や悟りに至るとされ、無願の境地は真の自由と安らぎをもたらすと考えられている。

*無作:無駄な行動や思考をせず、自然体であることを指す。自己中心的な欲望や業から解放され、心が静まり、自らの本来の性質を表す状態を意味する。


四依の実践

法の供養は、四依(四つの拠りどころ)を通じて実践される・・・

  1. 依義不依文: 意味を拠りどころとし、文字に執着しない
  2. 依智不依識: 智慧を拠りどころとし、分析的識別に執着しない
  3. 依了義経不依不了義経: *了義経を拠りどころとし、世俗の教えに執着しない
  4. 依法不依人: 法性を拠りどころとし、個人の実体的存在という見解に執着しない

これらの実践は、表面的な理解を超え、法の真髄を把握することを目指すものである。

*了義経:釈尊の教えの中で最も究極的で真理を直接示す経典を指す。この経典は、真実の意味を完全に明らかにし、迷いを断ち切ることを目的としているため、修行者が悟りに至るための直接的な教えとして重んじられる。了義経は、仮説や方便を用いず、仏法の真髄をそのまま説く経典である。


十二支縁起の観察

不可思議解脱の教義は、*十二支縁起の観察を通じて、苦の連鎖とその解消への道を示している。無明から老死に至る過程を理解し、その連鎖を断ち切ることで、真の解脱への道が開かれるのである。この観察において、衆生への慈悲の心を失わず、誤った見解に陥ることなく、真の智慧を培うことが重要であるのだ。

*十二支縁起:十二因縁。存在の因果関係を示す教えで、苦しみの輪廻を説明する12の要素から成り立っている。具体的には、無明(無知)から始まり、行(行動)、識(意識)、名色(名前と形)、六処(六感)、触(接触)、受(感受)、愛(欲望)、取(執着)、有(存在)、生(誕生)、老死(老いや死)へと続き、これらの要素が相互に依存し、苦しみを生み出す過程を示している。これを理解することで、苦しみから解放される道が示される。


内面的変容と慈悲の実践

維摩経の教義は、単なる知識の蓄積ではなく、個人の内面的な変容を求めるものである。すべての存在への深い理解と慈悲を通じて、真の解脱に至る道を歩むことを説いている。これは、自己と他者、そして世界全体との関係性を根本から変革する実践である。


究極的な目標:解脱と悟り

維摩経の教義が示す究極的な目標は、完全なる解脱と悟りの達成である。これは、あらゆる執着と迷いから解放され、真理を直観的に理解し、すべての存在に対する無限の慈悲を実現することを意味する。この状態に至ることで、輪廻の苦から永遠に解放され、真の自由と平安を得ることができるのである。




嘱累品第十四

釈迦牟尼仏陀は弥勒菩薩に無上の悟りを伝授され後々の世まで伝えるようにと、未来における法の護持と伝播を託す。世尊は、菩薩は深遠な法門に対して恐れることなく、真実に悟入すべきであり、これが菩薩の本質であると説かれる。さらには、ここで新学の菩薩たちが深遠な法を軽んじることが、彼らの成長を妨げる原因となることが示される。

弥勒をはじめとする菩薩たちは、この教えを未来に広めることを誓い、法の護持者としての役割を果たすことを決意する。この教義は、菩薩道において深遠な法への信順とその伝播が極めて重要であることを示すと共に、巻末にあたり後の世の人のために説かれた法でもある。維摩経に触れた人々、あなたこそが時を超越し釈迦牟尼仏陀が説かれたところの真理、正法を信順し、発心し菩薩道を歩む使命を持つことが示され、法の伝承と広がりが後世の衆生に利益をもたらすことが説かれている。

無上の悟りの委嘱

世尊は、弥勒菩薩に、無上の正覚(阿耨多羅三藐三菩提)を伝授され、後世まで伝えるように委託されるとともに、後の時代においても法門が消滅することなく流布されるよう求められた。未来において、善根を積んだ者たちが正覚に向かって進むために、この法門を守護し、広めることを弥勒に託されたのである。

維摩経の最終章である本章では、本経に触れた人こそが、後々の世のために真理を伝える役目を負うことが説かれる。苦諦のなかに俗世で生きるあなた自身が、やがて発心し、菩薩となり、大慈悲心を支えに、本経で学んだところの智慧による方便を以て、縁ある人々に、正しく伝えてゆくのだ、という菩薩の心構えが説かれる。

八十余年を正法の敷衍に捧げ、その大慈悲心により、唯、只管に衆生済度を憶念された釈迦牟尼仏陀の御意志と御教えを、維摩経を通し、再びと蘇らせんとした在家の修行者等の二千年を超えた憶いが集結している。

菩薩の二つの特徴とは

菩薩には二つの特徴がある。第一に、とりとめもない言葉や言葉の綾などを好む者。
第二に、深遠な意味内容にも辟易しないで、その確認を正確に把握する者。
第一の者は新学(修行したて)の菩薩だと知る必要があるが、この深遠なる経典に接しても恐れを抱くことなく、教えを聞いてからも心清らかに説かれる通りに修行する者は、永く悟りの修行を修めた人と知られるべきである。

修行したての新学の菩薩が法を侮る姿とは

新学の菩薩(修行したての菩薩)は二つの原因によって自らを傷つけ、深遠な法に対する洞察を得ることがない。

一つ目の原因は、いまだ聞いたことのない深遠な経を聞いて、恐怖と疑いを抱き、歓喜することがなく、さらには、あざけることである。

二つ目の原因は、深遠な法を説く人たちに対して奉仕することも、尊敬することも、仕えることもなく、さらにはそれらの深遠な法を説く人たちを恭敬せず、しかも、時々、罵りの言葉を言い放つことである。
彼らは、悟りの道から遠ざかり、決して真理を認める知*(無生法忍)に達することはない。

そしてまた、深遠な信順の志を持つ菩薩が、二つの原因によって自己を傷つけ、無生法忍に達しないことがある。
それは第一に、新学の菩薩を軽蔑し、受け入れず、導きもしないこと。第二に、深遠な信順の志を持ちながらも、学問を尊重せず、財物の布施にのみ注力し、法の布施を行なわないこと。

これらにより菩薩は自己を損ね、真理への洞察に至る道を遠ざけるのである。

*無生法忍・・・一切の事物・事象は空であり、生じたり滅したりしないことを覚ること。三法忍の一つ。

菩薩たちの誓願とは

弥勒菩薩は、世尊の教えに深く感銘を受け、欠点を取り除き、如来の悟りを守護し広めることを誓願し、彼は未来の衆生が深遠な法を受け容れ、記憶し、理解し、広めることを助けることを誓う。そして共にいた菩薩たちは、この悟りを流布する誓願を立て、後の世の人々が、本経を手中にすることができ、また会得し、受持して、他者のために説き示すであろうことを述べる。

本章に於いては、弥勒菩薩、そして菩薩たちの誓願に触れることによって、数限りない時を経ても変わることのない正法が、時を超えて敷衍されることを、その使命を私たちひとりひとりが負っていることを教えられる。

その場にいた四天王たちは釈迦牟尼世尊に申し上げる。

後の世に、これらの法門が未来に行なわれ、説かれ、示されるならば、私たち四天王はそこに力強い軍勢と侍者たちを伴って法を聴聞するために近づき、あらゆる方向から守護を与えることを誓う。

世尊は、最後に阿難尊者に対して、維摩尊者の教えを受け入れ、それを学び、他者に伝えることを命じられた。

阿難尊者はこの教えを「ヴィマラキールティの教説」として受け持つように教えられ、また、この法門が「不可思議の解脱」を示すものであると理解するように導かれた。

この教えは、対立する概念を超えた真理を示し、深遠な智慧への道を指し示している。世尊の教えを聞いたすべての者たちは、喜びと満足に満たされたのである。

*布施・・・出家修行者、仏教教団、貧窮者などに衣食などの施しをすること。衣食や金品を施す財施、仏法を説く法施、怖れを取り除く無畏施の三施がある。大乗仏教では、菩薩が行なうべき六つの実践徳目(六波羅蜜)の一つとされる。