東洋哲学研究会

2022.02.06

論語 陽貨第十七 21・微子第十八 2

論語勉強会議事録

2022年2月6日(日)11:00~12:00

開催場所:春秋館

議事内容:引き続き「孝」に関する章を取り上げて議論致しました。

テキスト「論語の講義」諸橋轍次


陽貨第十七 21

宰我問、三年之喪、期已久矣。君子三年不爲禮、禮必壊。三年不爲樂、樂必崩。舊穀既沒、新穀既升。鑚燧改火。期可已矣。子曰、食夫稻、衣夫錦、於女安乎。曰、安。女安則爲之。夫君子之居喪、食旨不甘、聞樂不樂、居處不安。故不爲也。今女安則爲之。宰我出。子曰、予之不仁也、子生三年、然後免於父母之懷。夫三年之喪、天下之通喪也。予也有三年之愛於其父母乎。 

さい 問う、三年の は、 はなは ひさ し。君子三年 れい さずんば、禮必ず やぶ れん。三年 がく を爲さずんば、樂必ず くず れん。 きゅう こく すで き、 新穀 しんこく 既に みの る。 すい りて火を あらた む。 にして ならんのみ。
子曰く、 とう くら い、 きん て、 なんじ おい やす きか。 曰く、安しと。女安くば すなわ これ せよ。 れ君子の喪に るや、 うま きを くら へども あま からず、 がく を聞けども たの しからず、 居處 きょしょ やす んぜず。 ゆえ に爲さざるなり。 いま なんじ やす くば則ち之を爲せよと。
宰我 づ。子曰く、 不仁 ふじん なるや、 生れて三年、 しか のち に父母の ふところ まぬが る。 れ三年の喪は、天下の つう そう なり。 や三年の あい 父母 ふぼ るか。

意味

宰我が質問して、父母のためにする三年の喪というのは、その期間がいかにも長すぎる。一体、上に立つ君子が、父母の喪に服して、三年間も礼を修めぬとすれば、世の礼は必ず崩壊するであろうし、三年間も楽を修めぬとすれば、世の音楽は必ず崩壊するであろう。ところで、旧い穀物がなくなってしまって、一年経てば、新しい穀物が実って来る。木をすりもみして火を出すにも、春夏秋冬に木を取り代えて季節毎に火を改めるが、それも一年すれば又元に帰る。このように一年一週が天道の常であるから、父母の喪の場合も、期年すなわち満一年で十分と存じますが、いかがでしょうか、と言った。

この質問を聞いた孔子は、父母の喪に僅か一年服しただけで、あの稲の米を食い、錦の着物を着る、平素の生活様式にかえることが、なんじには平気なのか、と き反した。(中国では喪中の人は、普通の米を食わずに かゆ すす り、普通の錦を着けずに、粗末な喪服を着るのが常である。)この孔子の反問に対して宰我は意外にも、平気です、と答えたので、打ち驚いた孔子は、なんじが平気であるというなら、やったがよかろう。一体、有徳の君子が喪中にある時は、美味の物を食べてもうまいと思わず、音楽を聞いても楽しいと感ぜず、平素おる場所におっても心安んじない。その自然の情に基いて喪服の制度が出来、そこで稲を食い、錦を着ることを敢てしないのである。しかし今、なんじがそれで平気であるというなら、それをやったがよかろうと、強くその不心得をとがめた。

以上のような問答の末、宰我はその席を退出したが、孔子はその後で、宰我はまことに不仁な者だ。一体、子供は生まれて三年間は父母の ふところ に抱かれ、三年たって初めて父母の懐を離れるものである。それに ちな んで三年の喪が定められた訳であるが、そもそもこの三年の喪は、上は天子から下は庶民に至るまで、万人共通の 喪服 そうふく 制度である。然るに宰予は、三年は長すぎる、一年にせよ、と言うが、宰予は生後三年間の愛情をその父母から受けたことがなかったのではなかろうか。実に情薄いことである、と嘆息した。

三年の喪は、孔子の言の如く、天下の通喪ではあっても、実際問題としては、恐らく幾多の困難が存したものであろう。而して孔子は、飽くまで理想的な立場から子としての情意を尽すことを主張し、宰我は現実的な立場から、一年間の短喪を主張したのである。

(諸橋轍次訳)

結論

人はこの世に生を受けても、親無くして生き伸びることはできません。必ず親の庇護と愛情が必要で、それは自分の小さい頃のことを思い返しても、親の存在無くして自分は存在し得なかったことを理解できます。小さい頃の自分にとって親の存在は絶対的で、親こそが全てであったはず。そのことをきちんと心で理解していれば、3年という喪の期間は決して長いものではなく、また親に対する思いがあれば嫌でも心の整理がつくのに3年は必要となってくるものとも言えます。その当たり前の感覚が孝の原点になっているのでしょう。それを理解できていない宰我の捻くれに対して、孔子様はある種の憐れみの思いを抱かれたのではないかと思われます。

議論

<議論>司会:奏江、記録:耕大

奏江:周の時代と比べて、孔子様の時代はすでに様々のしきたりが廃れ、その本質たる五常八徳による政治も廃れていました。宰我はこうした時代にあってある種の現実的な考え方として喪の期間は1年でよいのではと孔子様に質問したのでしょう。確かに実務能力の高かった宰我の質問は一見合理的であるように見えます。しかし、そこには最も大切な親に対する思い、つまり孝というものが欠落しており、その本質を無視した宰我の質問に孔子様も嘆息されています。孔子様も必ずしも3年という期間を絶対とされていたのではなく、宰我の心無い態度に対して、もし心が伴っていれば嫌でも3年という月日が必要となってくることを説かれています。参加メンバーの実体験的にも、親を亡くして3年程度はやはり気持ちが落ち着くのに時間がかかったという感想が数名から出ました。

冥加:なぜ3年なのか。礼記にも3年父母の世話になっていると書いてある。宰我にとって三年礼を為さないことと、三年孝を為さないことは、同じことではない。三年孝を為さなければ、孝が廃って、家庭、社会が保てなくなることを思わない。 

凡知:孔子様の時代は周から五百年経ち、周の時代のものが廃れていた。そうした時代にあって宰我はある種の先進的な考えを持っていたのではないか。それで孔子様に質問。孔子様は周の時代のやり方へ戻そうとされていた。復興させようとされていた。宰我は革命的な考えを持っていて、そこに考えの違いがあった。自分の経験からも、親を亡くして一周忌、三周忌と続く中でやはり集まる人も段々と少なくなる。奏江:なぜ宰我はそういう質問をしたのか?実務能力に長けていたというのもあるのかも。

遠雷:宰我の発言の根底には孝の想いがなく、礼儀が無く、心が伴っていないことが問題なのではないでしょうか。宰我の普段の言動から、その発言には説得力が無い。もし宰我がいつも親を大切にしていたら、その発言には説得力があるはず。

凡知:宰我とその父母との関係がよく分からないが、親との関係が良くなかった。虐げられていたのか。遠雷:(凡知さんが記入してくれた宰我に関する解説を見ると)一族が皆殺しにされ、孔子様はそれは恥としたと記載がある。【後に斉の臨沼の大夫となり、田常(陳成子)の乱に加わって、一族が皆殺しにされたという。孔子はこのことを恥とした。言行が 奇矯 ききょう にかたむくのは、弁舌の才であったからであろうか。】

凡知:一匹狼的。

冥加:父母との関係が薄い?火を起こすのに四回木を変える、だから一年でいいのでは、ということを言うなど、理屈としては理解できる。論理的。

秋実:もっと情あれば違う発言になるのでは。

冥加:事務的に進めるために1年と言ったのでは。

柴里:人のサイクルは1年ではなくもっと長い。

凪沙:3年を1年と言ったのはそれが合理的だから。自分の都合での発言。情の薄さが出た。しかし、自分の感覚でも現代では3年は長すぎる。

遠雷:宰我からは孝の気持ちが伝わってこない。社会の情勢に合わせて、服喪期間を短くするという提言があってもいいと思いますが、問題はその提言の底に、孝の気持ちがないことではないかと思います。

山吹:自分の父親が亡くなってその後1年の間、自然と1年前には生きていた父の姿が思い出された。しかし1年経って生前の父との距離を感じ、ああ1年間の特別の意味はこれかと思った。だからと言って「1年でよい」と言う宰我は親に対する情が薄いと思った。

凡知:昨年末の忘年会での台詞を話す中で、自分の親そして先祖とつながっていく感覚をすごく感じた。実家に帰った時も、そこの親子のつながり先祖とのつながりを感じた。宰我はそれを感じていない。

奏江:実際に3年の喪に服することで支障が出るのなら考える必要ある。しかし宰我はいきなり1年と言っている。実務能力はあるのかもしれないが、やはり徳治というところまでには至っていない。

涼風:宰我が情のある人なら、1年でよいのではと言ったとき、孔子様の返事も違ったはず。別の反応をされたのではないか。

六花:母が1年前亡くなった。1年経ってこういう気持ちというのが実感として分かった。3年経ってどういう気持ちになるのか孔子様はお分かりになっての発言。宰我に対してそれを伝えたくて仰った。感じにくい人もいるので。そういう人に対して段階的なことを仰った。

丈山:孔子様は「宰我は生後3年間の愛情を父母から受けていなかったのではないか」と述べられている。親を思う孝の心は、親がその親を思う心や、自分が親からどれだけの愛情を受けたかによって、親から子へと引き継がれていくのではないか。

奏江:一族皆殺しにされたというのは、それだけの徳がなかったからではないだろうか。親との関係性にも問題があったのかもしれない。愛情を十分に受けられなかったのかも。

降人:体験的にも3年ぐらいしてやっと気持ちが落ち着いた。気持ちが伴うことが大事。伴えば1年でもよいのではないか。

遠雷:社会の情勢に合わせて、期間の長さを変えることはあってもいいと思います。やはり心の問題ではないか。そこに孝があるのかどうかということが大事だと思います。

奏江:思いがあれば形になって現れる。3年がどうというより心に親を思う気持ちがあるかどうか。母を亡くして時間が経つにつれて悲しみは深まることもあったが、やはり3年ぐらいで落ち着いた。

六花:孔子様は、心が伴っていなければ形だけでもせめてやるべきとおっしゃったのではないか。


微子第十八 2

柳下惠爲士師、三黜。人曰、子未可以去乎。曰、直道而事人、焉往而不三黜。枉道而事人、何必去父母之邦。 


柳下 りゅうか けい 士師 しし りて、 たび しりぞ けらる。人曰く、 いま だ以て去る可からざるか。曰く、道を なお くして人に つか  えば、 いず くに くとしてか三たび黜けられざらん。道を げて人に事えば、何ぞ必ずしも父母の くに を去らん。

意味

柳下恵が魯の獄官の長である士師という役について、三度免職になった。そこである人が柳下恵に向かい、あなたは三度も免官の き目に遭いながら、それでもなお、この国を去る決心がつかぬのか、と尋ねた。これに対して柳下恵は、人の臣たる者が、自分の道を曲げることなく、正直 一途 いちず に君につかえて行くということであれば、いかなる国、いかなる社会に行っても、三度くらい免職になることは当然である。その点ではどこの国に行っても同じである。もちろん己れの道を曲げて不正を以て君につかえるということであれば、免職になることもなかろうが、それならば又、何もわざわざ父母の国なる魯国を去る必要もない訳である、と答えた。

官途を失うことは、常人に取っては重大な問題であるが、三度 しりぞ けられてなお且つ平然としてこの言葉をなしておる柳下恵は、さすがに称すべき一人物であり、その 鷹揚 おうよう たる態度、正道を以て君につかえる態度、父母の国を思う態度が、自然にこの文中ににじみ出ている。孟子には、柳下恵が くん じず。小官を辞せず、しかもよく正道を守ったことを称して、聖の和なる者と述べている(公孫丑上・萬章下篇)。なおこの章には孔子の評語がない。亡逸したものであるかも知れぬが、或は又、この全章が孔子の語った言葉であるかも知れない。この篇の終りに出て来る三つの章(九・十・十一)の場合もまた同様であろう。

(諸橋轍次訳)

結論

柳下恵は正直一途に君に仕えることで、結果として三度も免官の憂き目に遭っていますが、それは当時すでに天下に道の無い状態であったから。そのことを分かった上で、しかし自分を貫く柳下恵には、君に対する忠なる思いがあったものと思われます。その忠なる思いには、親に対する孝と同じく、必要なら君に対して諫言することも当然含まれていたものと思われます。

議論

<議論>司会:奏江、議事録:耕大

奏江:柳下恵の人となりは、他の章の記述には、自分を低くして恥辱を甘んじて受けるが、その言葉は正しく道筋に中るとあり、いわゆる我を貫くのではない、思慮分別のある人物であることが分かります。しかしそれ故に、道の廃れた時代にあって翻弄されているとも言えます。孔子様は別の章で、自分の生き方は伯夷・叔齊とも違うし、この柳下恵とも異なる、所謂中庸の道を歩まれていると仰っていて、それが柳下恵の生き方との対比ともなっていて興味深いところです。

冥加:柳下恵は翻弄されたということ。泰伯の章に、国に道があるときはしっかりはたらき、道が無いときは、隠れる。というのがありましたよね。

凡知:微子第十八8にも柳下恵の記述あり。「柳下恵・少連を批評した。すなわちこの二人は、よく自分の志を卑くして我のみ高しとすることなく、衆人の中にいて人から恥辱を受けることに甘んじていたが、しかもその言う言葉は正しい道筋に中り、又そのなす行いは、思慮分別に合しておった。実に以ってこの通りの人物だったのである(諸橋訳)」

遠雷:天下に道が無いので、正しい人がいても充分に力を発揮できないし活躍できない。(※柳下恵の人物像が把握できていなかったので、欄外に補足します。)

凡知:前述上冥加さんの意見にもありましたが、微子第十八8で孔子様は、伯夷・叔齊の生き方とも、柳下恵の生き方とも異なり、「我は則ち是に異なり。可も無く不可も無し」と。出るときは出るが、出るときで無い場合には隠れるという中庸の道を歩まれている。述而第七10「子、顏淵に謂ひて曰く、之を用ふるときは則ち行ひ、之を舍つるときは則ち藏す。唯我と爾と是有るかな。」、泰伯第八13「天下、道有れば則ち見れ、道無ければ則ち隱る。」、衞靈公第十五6「君子なるかな蘧伯玉。邦、道有るときは則ち仕へ、邦、道無きときは、則ち卷いて之を懐にす可し。」

冥加:道が無いときは言葉を慎みつつ行いは正しくというのがどこかの章にあった。柳下恵は行いを曲げなかったが、言葉はどうであったのだろう?(子曰。邦有道。危言危行。邦無道。危行言孫。;子曰く、邦に道有れば、言を危くし行いを危くす。邦に道無ければ、行いを危くし言は孫(したが)う。憲問第十四4)

柴里:「仏の顔も三度まで」とあるように、(釈迦国がコーサラ国から攻められた時に)釈尊が通り道に坐禅して三回、兵を撤退させたのを思い出した。三回免職された、柳下恵はどうであったのか気になる。

奏江:柳下恵は自分の意思を貫いたのではないかと思う。だから時代に翻弄されたのでは。

※柳下恵の人物像

中国、周代の魯の賢者。本名、展禽。 あざな は季。柳下に住み、恵と おくりな されたことによる名。魯の大夫・裁判官となり、直道を守って君に仕えたことで知られる。生没年未詳。(デジタル大辞泉より)。

柳下恵は、良くないとされた君でも仕えることを恥とせず、低い役職でも嫌とは思わなかった。どんな場合でも、自分の才能を発揮することを惜しまず努力し、必ず自分の信じる道を行って志を曲げなかった。それで人に捨てられてもうらまず、困窮しても心配することはなかった。そういう人だから、『あなたはあなた、私は私。私のそばで、(無作法に)服を脱いでも、裸になっても、私を汚すことはできないのだ』と言った。だから、いつも楽しげなようすで、これらの無作法な人と一緒にいても、自分の正しいと思う生き方を見失うことはなかった。柳下恵は自分を引き止める人がいればいつでも引き止まった。このように引き止める人がいれば引き止まったのは、(せっかく止める人がいるのだから)それを無視して去ってしまうのを、潔しとはしなかったからである」「伯夷は、潔ぺきすぎて、度量が狭い。これに対し、柳下恵は、自由すぎて、うやうやしさに欠けている嫌いがある。君子は、そうならないちょうど良いところを目指すものである」(孟子)

孟子の言う君子の生き方は、孔子の中庸をえた生き方を理想とした、とされている。ただ孟子自身も尽心(下)で、伯夷、柳下恵を聖人として強くほめている。(補足、遠雷)

以上