東洋哲学研究会
2022.02.20
論語 學而第一 2
論語勉強会議事録
2022年2月20日(日)11:00~12:00
開催場所:春秋館
議事内容:今回から「悌(弟)」に関する章を取り上げて議論致しました。
テキスト「論語の講義」諸橋轍次
學而第一 2
有子曰、其爲人也孝弟、而好犯上者鮮矣。不好犯上而好作亂者、未之有也。君子務本。本立而道生。孝弟也者。其爲仁之本與。
意味
有子言う、その人がらが親につかえて孝であり、兄長に対して従順である人には、自分の目上の人を犯ししのぐことを好む者は少ない。又、目上の人を犯ししのぐことを好まないで、叛乱を起して世間をさわがせることを好む者は、これまた絶対にあり得ない。
一体、徳ある君子人という者は、物事の根本に力を尽すものである。根本さえ確立すれば、自然に道は生じてくる。こう考えてくると、孝弟は、仁道を実現して行く上の根本であるというべきであろうか。
第一章は学問の楽しみから説き始めているが、孔子のいう学問は、結局、仁道を実現することにその目標を置いている。
そこでこの章では、その目標とする仁道に説き及び、仁道を実現して行く場合に孝弟がその根本となることを、有子の言葉によって教えているのである。而してこの根本を務めるという考え方が、実は孔子の教の基礎をなすものであって、これを
(諸橋轍次訳)
結論
孝悌が各家庭においてなされれば、世の乱れは改善される第一歩であると説き、孝悌は仁を行なう基礎であると結んでいます。
白文の「其爲仁之本」は「其れ(孝悌)は仁を為すの本か」と読みました。
また、悌に関して頭の中の理解だけではなく、実践するという観点からの議論も必要と思いました。
議事要約
白文の「其爲仁之本」について、「其れ(孝悌)は仁を為すの本か」、「其れ(孝悌)は仁の本為るか」の二通りの読み方があり、それについて議論しました。
「其れ(孝悌)は仁を為すの本か」の読み方の方は、朱子は道徳的実践である孝悌を根拠づける理を仁としていることから、このように読むのが良いとの意見が多くありました。また、「其れ(孝悌)は仁の本為るか」は、「本」を根本としたとき、「孝悌は仁の根本をなす」となり、孝悌は仁の出発点ではあるけれども、仁の根本ではないとの意見がありました。
孝悌は親子、兄弟、などの人間関係性の狭い範囲だが、基本のところ、仁はそれを超えた、深く広がりを持つものではないかとの意見があり、仁については後日、「仁」のテーマを学習時に改めて討論する予定です。
議論
<議論> 司会:山吹、議事録:和音
山吹:今日から「悌(弟)」をやります。まず語句の意味などをこちらで話して、話し合う点が後半に沢山あるので、凡知さんが書かれている。そちらに多く時間をとりたいと思います。有子様の子は尊称、子がつくのは孔子様の門弟のなかで4人、曾子・冉子・
山吹:内容について、文章は大きく二つに分かれていると思います。孔子様、有子様が生きた春秋時代の末期、社会は激しい変動期、権力を得る為に下の者が平気で上の者を倒す下克上が横行、孔子様の周囲にも「乱をなす」ものはうようよいた切羽詰まった状況下、社会の平和を保つために、人間の本来の姿たる孝悌の生活の大切さを前半で説き、孝悌という道徳を社会平和の道と関連させ、更に孔子様の根本思想たる仁へと展開(後半)していったのが、この章であると、吉田氏の余説に書かれています。文中の「君子は本を務む」の君子についてですが、君子の語を訳さずそのまま使う理由として、時代の流れと共に変化していったためとありました。
山吹:語の説明に移ります。「鮮矣」の「鮮」は冥加さんの説明で、朝鮮は朝貢が
奏江:孝悌という仁が根本にあるが、孝悌は仁の気持ち心を行動に表したものではないか。
山吹:では文章の最後の「其爲仁之本」の二通りの読み方に移りたいと思います。①其れ(孝悌)仁の本
遠雷:「仁を為すの本か」と読むか、「仁の本為るか」と読むかの違いがありますが、仁をどうとらえるかによって違ってきているのではないかと思いました。私の捉え方は、朱子的な捉え方なのですが、つまり「仁」の根拠となるものがある。つまり「
山吹:今わかっているのは、朱子は②の読み方で、維摩會の仏教哲学でも教えて頂いている体用論に基づいて、体(本体)は仁で、用(作用とか働き)は孝悌といっている。では内容の捉え方に違いはあるのか。
遠雷:(土田健次郎氏が説明していますが)、朱子、仁斎、徂徠それぞれの仁に対する解釈が異なるとあります。朱子は、「天と人に一貫する理の思想を背景に解釈」している。それに対して仁斎と徂徠は、あくまで実践的なもの、実践道徳として捉えている。仁斎は「このような宇宙論的な意味づけを否定しあくまでも日常の実践道徳に限定」使用としている、しかもそれは個人的な実践であるのに対して、徂徠は「個人道徳の問題ではないとし天下全体の統治の道」を持ち出している。
奏江:根拠があるわけではないでのですが、感覚的なものなのですが、何かの図で信が真ん中にあったように思いますが、孔子様が実現したかったのは、仁を根底において世の中の平安をめざされた。そのためには一番簡単に、一番身近にいる親や目上の人に実践できるところから始める必要があり、それが孝梯というものではないのかと思う。君子というものは、学徳の高い立派な人であり、君子が出来上がるためには、孔子様が理想とされていた周の時代の聖人や、その前の堯帝、舜帝、禹帝などの聖帝がおられて、そういった方々から学んでこられたのが君子ではないかと理解している。君子は当然のことながら仁を自らの精神の根本として、それが行動に現れてきたのが孝悌であり、父母に対する、あるいは目上の方を敬う気持ち。(君子の)孝悌には仁の気持ちがあるから、目上の方と意見が合わないことがあったとしても、よくその方の話を聞いて、どういうところが意見が合わないか、話し合いをしてより良いものにしていくことができる。たとえ相手と意見が合わないことがあったとしても、相手に逆らう気持ちは起こるはずもなく、その場合は、自分の意見は控えて相手の意見を敬って様子をみていく。形式ではなく、心から信じる仁の思いが根底にあって、行動規範として身近なところで現れたのが孝悌。
遠雷:(吉田賢抗氏の説明の中に)「堯舜の道は孝悌のみ」とありました。堯帝も舜帝もただ孝悌のみを実践していたと。孝悌という身近な人に対する愛、敬意が、身近な人でもない、親族でもない、社会全てに広がっていったときに仁になるとすれば(補足:それ以上の広がり、それ以上の奥深さがあるのではないかと思います)、堯帝も舜帝も孝悌のみを実践していたというのは、親族・身近な人に対する慈しみ(愛、敬意)と同様の慈しみ(愛、敬意)を(隔てなく)社会全体に対して及ぼしていたのだろうと考えました。このように実践道徳が孝悌から仁へと展開していく面とは別に、仁の根拠が性、五常、原理にあると考えます。
佑弥:私は仁がよくわかっておらず解が出ない。ただ気をつけないといけないと思ったのは、孝悌がわかるものが、必ずしも仁がわかるもの、仁の実践者とはいえない。仁がわかるものは孝悌がわかるというのは成り立つと思う。仁の意味と、孝悌の意味は違うと思った。孝悌は関係性がはっきりしている。親子、兄弟、人間関係性がある。基本的だが狭い範囲、基本のところ。仁はそれを超えた、人間として生まれた最初の関係を超えた、万物全てにあって深く広がり、(自分中心からの)認識とか対象とか、自分(自分中心)、そういうものを超えたものがある。より厳しい葛藤がある。更に深くたましいに入ってくるのもの、そんなものを感じた。言っていることは同じです。秩序が乱れた背景を考え、秩序の基本となる孝悌を大事にしていかなければいけないと言っている。
遠雷:(佑弥さんの発言を聞き)、仁は単に人間社会の中だけで成立する実践道徳としてだけあるのではなく、もっと深みがあり奥深いものであり、万物に繋がるもののような気がします(佑弥さんのように、謙虚な姿勢で捉えなければいけまんせんが)。身近な孝悌から始まって、社会全体に展開するだけではなく、たましいの奥から発するものでもあるのではないかと感じます。佑弥さんが言われたように、厳しさもある。重層的に捉えなければいけない。
凡知:仁のことはまた最後にやるが、孔子様は、天を信仰していた。お天道様というのがあって、それを仰ぎ見る、信仰、信じている、そういうものがあって、家の中以外、家からはじまって、友達、知らない友達、ひろがりがある。孔子様の中に宿っている。天を崇拝、信仰している、信仰心、哲学よりも、天を仰ぎ見て、そういう信仰的なものあったと思う。それと仁とどう関わるか、仁の時に言おうと思う。
柴里:(冥加さんが詳しくまとめてある)もともとの解釈にもどりますが、「孝悌は仁の本か」ではなく、「孝悌は仁を為すの本か」、という風に、意味解釈がここでは収束しているように感じたが、それでいいか。孝悌は仁の出発点であって、仁の原理ではないと思う。
遠雷:ここでは、仁を為すの本と読むと、収束していく。孝悌は仁の本ではないように思います(仁を朱子的に、根拠になるものと捉えていますので)。
奏江:仁を為すの本、仁は行動規範の本と言ったが、仁そのものが孝悌ということではなく、仁が世の中に広まっていくためには、一番、簡単に身近な人、社会から実践できるのが孝悌。孝悌は仁とイコールではないが、孝悌が深まっていくと、仁に近づいていくのでは。
佑弥:孝悌とは何かが今回からのテーマだから、まず孝悌とは何かの話をしないといけないのでは。親から子に、兄から弟に、上から下に何かが受け継がれていく。そういうものを尊重する思いが廃れている。そういう秩序への尊重をなぜしなければいけないのかを議論しないといけないのでは。
山吹:孝悌が何故大事なのかの観点から。
降人:仁や孝悌について、本質、手段と分けて考える必要はないのかな。定義しないといけない?孝悌は出発点でありながら、孝悌は仁というものの本質を含んでいるもの、それをつきつめていくと仁そのものであるのでは。あくまで出発点、孝悌は出発点ではあるが、本質と同じになり一致するのではないか。学者の定義は色々であるが、中身は同じなのでは。
六花:現実的に考えると、戦乱の世で孝悌を大事にするという事は、現代でも、弟が優れていても、兄が良い位置にいると弟は不満を持ち、乱れる元になる。そういう時代になぜ孝悌を説くか、秩序の中で、平和で人間的に成長していくためのものでは。朱子の体用論、兄弟の間にそういう、もとにある慈愛や思いやりみたいなのがあれば、弟が優れていて上であっても、兄をサポートしていく、そういう世の中に対する解決論を孔子様は説いているのではないかと思います。
山吹:佑弥さんが投げかけてくれた、孝悌が何故必要なのか。
佑弥:既に六花さんが答えたところに解が含まれているのでは。頭での理解ではなく、実践できるのかという観点から孝悌とは何なのかを学びたい。弟が何故兄より自分が優れていると思っているのか、そうではないかもしれない。(慢心がある限り見えてこない。)
降人:ご老人は無条件に尊重すべきものと仰ったと思う。目上の人に対する自分の態度は、敬いの思い、根本の自然のもの、そうでないのはちょっと違うのではないかと思う。人間の本質を含んだものという気がした。
六花:弟が自分が優れていると思っていること、上の方から見ると、兄が上というだけで、立ち位置だけで、お年寄りであるということだけで素晴らしい、孔子様が言いたかったことでは。
佑弥:無条件にそう思うのは自然な発露でもあると思う。(議論すべき必要もないのかもしれない。)これとは別に、人から言われたからそう思うのではなく、何故敬うのか、それが腑に落ちていないと実践できない(頭で思っても不満を持つ等)と思った。
六花:お年寄りだから尊重、兄だから尊重、自然に、小さなことの積み重ねでお年寄りが、、。無理やり理論ではなく、自然に、人間の優しさ、思いやりで自然にそうなっていく。
遠雷:自然にそうなっていくということは、根本の理由がある。自然に、お年寄り、目上を敬うようになるというのは、それは自然原理に基づくものなのではないでしょうか(もともと具わっているといった方がいいかもしれない。もともと具わっているから)積み重ねていくことによって自然に流れていくのではないでしょうか。
六花:えっ、と思うお年寄りもいるし、自然原理でそうなっていくということが、そういうことが素朴、もっと孔子様の時代の時には、あまり考えないでもそういうことがあったのではと思った。
奏江:孝悌と君子、何故孝悌と君子がでてきたか。孝悌を実践するには君子レベルでないと、ということなのか。
遠雷:そんなことはないと思いますよ。孝悌を実践するのに君子である必要はないです。小さな子供でもきちんと導かれれば、そのようになる。
奏江:孝悌のところで何故君子が出てきているかが疑問。
遠雷:君子は、本を務むという文脈の中で出てきています。君子というのは、末を修めるのではなく、本となるところをきちんと修めるという意味で君子が出てきている。仁の実践の本となるものが孝悌なので、高徳の堯帝・舜帝は(本となる)孝悌を修めた。
山吹:時間となったので終わります。
以上