東洋哲学研究会

2022.02.13

論語 子張第十九 18

論語勉強会議事録

2022年2月13日(日)11:00~12:00

開催場所:春秋館

議事内容:引き続き「孝」に関する章を取り上げて議論致しました。


論語 子張第十九 18

曾子曰、吾聞諸夫子。孟莊子之孝也、其他可能也。其不改父之臣與父之政、是難能也。 

曾子曰く、 われ これ を夫子に聞けり。 もう そう の孝は、 は能くす し。 の、 ちち しん と父の まつりごと とを あらた めざるは、 くし がた しと。

意味

曾子言う、私は次の如き話を先生から伺ったことがある。すなわち、孟荘子の行った孝行は、他の点は誰でもやることが出来るであろうが、ただ彼が父の没後、父の使っていた家来と、父が執り行って来た家政上のしきたりとを、そのまま受け嗣いで改めない点だけは、何人もなし難いところである、というのである。

孟荘子は、魯の大夫で、名を速という。その父の孟献子は有名な賢者であったから、もちろん、かえなければならぬ家来もやりきたりもなかったかも知れないが、しかし人情としては、代が変れば、家つきの小うるさい人、老衰の人を嫌って新進の者を喜び、或は古い伝統慣習を いと って改新を喜ぶものである。然るに孟荘子の場合は、篤実なその性情から、かかる行為がなかった、その点を称賛した言葉である。

なおこの章は、孔子の「三年、父の道を改むる無きは、孝と謂ふ可し」(學而、一一)の言葉とあわせ見るべきである。

(諸橋轍次訳)

結論

前章に続いて、思惑を離れ親に対し頭を垂れる思いが、この章からは感じ取れました。そして、大切なのは形よりも、志を受け継いでいくことであることが述べられていると思われます。

要約

中庸の十九章の冒頭「子曰く、武王周公は、其れ達孝なるか。夫れ孝は、善く人の志を継ぎ、善く人の事を述ぶる者なり。」及び、論語、学而第一11「子曰く、父在すときは其の志を觀、父沒するときは其の行を觀る。三年父の道を改むる無きは、孝と謂ふ可し。」を併せて見ながら議論が行われました。ここで述べられている本質は、形式よりも、先祖や親の意思、志を受け継ぐことではないかと考えました。

議論

司会:耕大、議事録:丈山

冥加:職場で自分が長になった時、以前のやり方から自分が良いと思う方法にすぐ変えてしまったが、前の長に対するリスペクトに欠けていたと今思う。

奏江:時代が変わっても本質的なことは変わらない。

凡知:中庸の十九章の冒頭では、自分の親のみならず、先祖代々の意思をも受け継ぐことが述べられている。

耕大:本質的なところは、志を受け継ぐことではないかということが、ここでは述べられているのではないか。

涼風:この章は、前の章からの流れにあると思う。親がやっていたことを自分の意思で改めてしまうのは、情としてどうなのかと思う。

耕大:親に対し頭を垂れる思いが、この章からは感じられる。

涼風:主人の父は仏壇の前で般若心経を読んでいた。主人の父の亡き後、今では私達夫婦が仏壇の前で般若心経を読んでいる。

冥加:喪に際して、自分の父母が生きてきたことを、永遠の生に変える作用があるのではないか。

遠雷:親が生きている時と亡くなってからでは、子どもの孝を見る基準が異なるということが述べられていたのではないかと思います。

冥加:父がいるときはその志を見て、亡くなって後行いを観るという章があった。

耕大:頭で考えることや思惑を離れた、もっと深いところから出る感情からであろう。

<次回>

凡知:「孝」のテーマは今回で終わる。次のテーマとして、悌、忠、信、知、禮、義、仁と続くことになるが、テーマが重なっている章をどのように進めるかについて意見を頂きたい。次のテーマ「悌」は「孝」と重なっている章が多い。

遠雷:ここまで「孝」の観点でずっと読んできましたが、そのことによって、初めて見えてきたことがある。テーマが重なっている章についても、それぞれのテーマの観点から読むと、そのテーマの観点だからこそ発見できることがあるので、重なっていても読む方がよいと思う。

耕大:特に異論がないようなので、次回からは、「孝」をテーマに一度学んだ章についても、「悌」の観点からも見ていくように進めたい。

以上