東洋哲学研究会

2022.01.23

論語 子路第十三 18・20

論語勉強会議事録

2022年1月23日(日)11:00~12:00

開催場所:春秋館

議事内容:引き続き「孝」に関する章を取り上げて議論致しました。

テキスト「論語の講義」諸橋轍次


子路第十三 18

葉公語孔子曰、吾黨有直躬者。其父攘羊、而子證之。孔子曰、吾黨之直者、異於是。父爲子隱、子爲父隱。直在其中矣。

しょう こう 、孔子に げて曰く、吾が とう 直躬 ちょくきゅう なる者有り。 父羊 ちちひつじ ぬす みて、 子之 ここれ しょう せり。孔子曰く、吾が黨の なお き者は、 これ こと なり。父は子の ため かく し、子は父の爲に隠す。直きこと其の うち に在り。

結論

親子の情とは何かについて語られた章で、この世的倫理や法以前に親と子の情(愛)の絶対性(道徳)を示したものであると理解しました。「親は子どものためにその悪事を隠し庇ってやり、子どもは子どもで親のためにその悪事を隠し庇っている。その隠す中にこそ偽らぬ直の精神が存している」とのご解説に、現代人は今の価値観(法律を重視する等)に染まりすぎていることを感じました。

議事要約

この章は法治を善とするか、徳治を善とするかというテーマを語っており、親子の情は刑罰で律するものではなく、刑罰に先んじて存在するものとの意見がありました。法律で縛って罰を加えるだけでは、罰を受けたらそれで終わりとなって、罪人に恥じる思いが起こるかどうかがわからないという法治の不完全さを指摘する意見もありました。五常八徳にある「廉恥」にあるように恥の概念、自分を律することはとても大事であることを学びました。

議論

<議論>司会:冥加、議事録:凪沙

冥加:去年、忘年会の劇でも取り上げました。

凡知:孔子様が旅の途中、葉公という地方長官に挨拶に行った時の事である。「我が国の直なるものは、父が羊を盗んだものをみて役所に訴えた」と葉公は得意げに言った。それに対し、「我が国の直きものは父は子のために、子は父のために隠し守るものである。孝はそのような無条件の親子の情の姿であり、直はその内にあるものなのだ」と、孔子様はきっぱりと言われた。

凪沙:悪的な存在は善なる存在を輝かせる役割があると感じた。

涼風:劇で、悪的な役割を演じた時の気持ちは?

凪沙:葛藤しながら演じた。しかし悪的な存在にも一理ある。絶対悪ではない。

降人:心の声、「そんなことしていいの?」という思いが、スパイス的役割として良かった。劇を生き生きとさせていた。凪沙さんの、「その悪って駄目なんじゃないの」と問いかけるセリフは、この章を考える上で避けて通れない部分で、面白く見させてもらった。

冥加:あの劇の中で大事だったことは、佑弥さんのセリフで孔子様は盗みがいいとは言ってない。盗んでいることを肯定的にとらえると話がわからなくなる。盗んでいいかよくないかにフォーカスするとわかりにくい。孔子様は、「直」についてのお話をされている。この世的には、盗んだらよくないと。孔子様は父と子の情が直かどうかというお話をされている。

降人:親が子を思い、子が親を思う情と、社会的な規範との相克があったり、他の徳目との兼ね合いはどう考えればよいのか。

冥加:韓非子の時代になると葉公の時は正直者とされたが、君には正直だったが父に対して孝でないとして処刑された。時代や解釈によって孝に反するからそんな子は殺してしまえと。為政者によって解釈が変わる。

降人:時代や為政者が変わると価値が変化する。真実はどうなのだろう。

冥加:この世的なところでは為政者の解釈によって変わる。儒教の政治においてのポジションが見え隠れしている。

遠雷:(冥加さんが性悪説の韓非子の時代、親不孝者を刑で罰するようになったという話をしたのを聞いて)儒教は徳をベースにしているので、儒教の教えに反するからといって、親不孝者を刑で罰するのは儒教の教えに反するように思う。

冥加:法に依って治める考えと徳治政治はぶつかる。法に依って始皇帝が追い詰められる。始皇帝の宮殿に刺客が忍び込んだ時に、規則で許可なく近衛兵が入って来られなかった。死罪になるからだ。薬師が薬袋を投げて暗殺を阻止した。法治にも限界が有る。形だけだと自分の首をしめる。

遠雷:道徳を刑罰で罰するのは違和感がある。親子の情は刑罰で律するものではない。本末転倒。親子の情は刑罰に先んじるもの。

冥加:それが法治国家の考え方。それは為政者に都合の良いルール。

凡知:法律で縛って罰を加えるのは、悪人がいて罰が無ければ何をしてもいい。例え、罰金や懲役などの罰を受ければ、それでおしまいというのが法治である。一方、恥とか人に恥じる気持ちが道徳につながる。罰金や懲役を受けてそれでおしまいという物質的な価値観ではなく、恥じる気持ちがあるかないか、心の持ち方が大事。

冥加:八徳の廉恥。恥の概念はとても大事。自分を律する。次の章は己の行いについて、恥をどう考えるかという部分がある。

子路第十三 20

子貢問曰、何如斯可謂之士矣。子曰、行己有恥、使於四方、不辱君命、可謂士矣。曰、敢問其次。曰、宗族稱孝焉、郷黨稱弟焉。曰、敢問其次。曰、言必信、行必果。硜硜然小人哉。抑亦可以爲次矣。曰、今之從政者何如。子曰、噫、斗筲之人、何足算也。

こう 問いて曰く、 何如 いか なれば これ う可 き。子曰く、 おのれ を行うに はじ 有り、 四方 しほう 使 つか いして、君命を はずか しめざるは、士と謂う可し。曰く、 あえ の次を問う。曰く、 宗族 そうぞく に孝と しょう し、 郷黨 きょうとう てい を稱す。曰く、敢て其の次を問う。曰く、 げん かなら ず信あり、 おこな い必ず はた す。 硜硜 こうこう ぜん として 小人 しょうじん なるかな。 そもそも また もっ て次と為す可し。曰く、今の まつりごと したが う者は 何如 いかん 。子曰く、 ああ 斗筲 としょう ひと 、何ぞ かぞ うるに足らんや。

結論

士の条件として、第一に自己の行いについて恥を知ることがあげられており、第二に一族の間で孝行者と讃えられ、郷党の人々から目上に対して従順な者であると讃えられる人物であればよかろう、と答えた内容ですが、五常八徳の「恥」「孝」「悌」「信」が語られており、これらの徳目が非常に重要な位置を占めることを理解しました。

議事要約

この章は士の資質、徳のある人の序列を語っているという意見がありました。信があることが基礎にあって、その上に孝や悌が必要であり、本当に徳ある人は自分を律することができる人で、徳のある真の士と考えました。「信とはウソをつかないこと」との意見に対して、論語では信は友人との関係性でよく出てくる言葉で、「言ったことを実現させる」という意味で使われていることが多く、孔子様の時代での使われ方は、ウソをつかない(否定形)という意味ではないかもしれないとの異見もありました。

議論

<議論>司会:冥加、議事録:凪沙

冥加:恥知らずになんでもやってしまうのは士ではない。

奏江:君子と書いてあるが、私は師と弟子という感じでとらえて、師の教えを全うするという方向で考えてみました。師からの教えを実践する時に自分の都合や好き嫌いが出てきて本当にやらなければいけないことを邪魔してしまう、それこそが恥ずべきことではないだろうか。君主の命を果たすのは当然だが、我があると命を正しく理解できず、命を最後までやり遂げることができない。我に囚われていると命を正しく理解出来ない。

凡知:孔子様の時代は周の後期。諸侯、貴族、大夫、庶民。孔子様は夏、殷、周など昔の徳を以て行う政治を目指されていた。孔子様の時代の政治のトップは庶民の生活など考えていなかった。孔子様は舜帝の時代に戻そうとされた。鎌倉時代のように武士が権威を以て世を治めた時代と似ている。貴族が自分の政治を 壟断 ろうだん していた。士としては君主の命をなして、君主(国)の恥をさらさないように。子貢は自分で考えて結論を出さないといけない。容易に答えを求めるのは、向上心があるようでないと感じた。

冥加:子貢は孔子様から沢山教わってきたが、子貢は平気で、一番大事なことを一つと聞いてしまう。孔子様は、あんなに沢山教えたのに。孔子様は我が道は一なりと仰っしゃり、曾子様は、孔子様の道は忠恕と仰っしゃった。子貢が問うと恕が一番とお答えになりました。忠と義とか徳目が対立した時、恕をもってお考えになるのではないか。

凡知:士の次に孝と悌。孝と悌は最低条件。家族の中で親子兄弟関係をきちんとやるのが第一。子供の時に身に付くものだが?

冥加:家庭の親子関係が拡大されて社会となる感じですか。

遠雷:この内容は士という身分の序列についてお答えになったとされていますが、実は、孔子様は徳のある人を順に語っているように感じました。最初の、「自己の行いについて恥を知り、四方に使いし君命を辱めざる」というのは、恥を知って、自分の行いを律することが出来、君命に対して我を出さずそれを忠実に果たし、君主を辱めることがないというのは一番徳が高い人。次には孝をなし、悌をなす人。その次は、言葉に信があり、行いを果たす人となっています。つまり、言葉に信があり、行いを果たす人が人としてベースにあるべき徳であるということでもあります。

冥加:人としての誇りが大事。

耕大:君命を辱めざるとは、ことづけされたことをただやるだけではない。自分で考えて判断しなければならない。直の話にひとつのイデオロギーにそまっているという意見があったが、従うだけなら君命ができない。内から出る恥じる感覚がないとできない。

小鳥:遠雷さんの信がベースとはどこの部分か。

遠雷:3番目に、「曰く、言うこと必ず信、行なうこと必ず果」とありますが、言葉に信がある。嘘偽りがない、誠実である。ということだと思います。それがなければ人間ではないと孔子様は論語の中で繰り返し仰っている。ウソをつくことは罪が大きい。そして、やるなら最後まできっちりやる。

小鳥:ウソが無いだけではだめと感じる。正直なうえで恥を知っている発言でないと。恥を知る感覚がわからない。やり通さなければならない。

冥加:論語の中では、信は友との関係性で出てくる。論語の信は言ったことを実現させるという意味で使われていることが多い。信につての解釈は、「伸びるということ。(藤堂明保)、嘘を言わない(加藤常賢)、神に誓う言葉(白川静)。加藤常賢、白川静、藤堂明保は語源の権威。」等がある。

以上