東洋哲学研究会
2021.10.31
論語 先進第十一 22
2021年10月31日(日)11:00~12:00
開催場所:春秋館
議事内容:「孝(忠・義)」について議論致しました。
テキスト「論語の講義」諸橋轍次
論語 先進第十一 22
季子然問、仲由・冉求、可謂大臣與。子曰、吾以子爲異之問。曾由與求之問。所謂大臣者、以道事君、不可則止。今由與求也、可謂具臣矣。曰、然則從之者與。子曰、弑父與君、亦不從也。
意味
魯の大夫季氏の子弟である季子然が、新たに孔門の子路と冉有とを自分の臣として、少しく得意になったのであろう、孔子に向かって、仲由と冉求とは大臣というべき人物であろうか、と質問した。
これに対して孔子は、それは意外な質問である。一体、あの由と求とについてのお尋ねでありますか。今あなたは大臣かと言われたが、いわゆる大臣なるものは、道を以て君につかえ、万一、道を実行することが出来なければ、その職を退くべきものである。
然るに由と求との二人は、道を以て君につかえることをせず、君によって道の行われざるを知りながら、なお且つその職を去らずにおりますから、これは単に臣の地位に具わっている伴食の臣というべきものであろう、と答えた。
これに対して季子然は、(元来すでに魯国において己れの野望を
これに対して孔子は、彼等はいかに伴食の臣とはいえ、父や君を
李子然は、李氏の子弟であるが、当時密かに
〇具臣とは、ただ員数に備わって、君の意のままに動く家来をいう。伴食の臣である。
(諸橋轍次訳)
結論
この章では、「大臣」なる人物とはどのような者であるかということを中心に、五常八徳の「孝」や「義(大義)」、「忠」などに関わって議論がなされました。その概要と導かれた結論は以下のようでありました。
魯の大夫である季子然が、孔子様に、家臣である子路と冉有は大臣というべき人物であろうかと問う。それに対して孔子様は大臣とは如何なるものであるかを伝え、季子然の専横なる振る舞いや、君を弑虐するような非道なる行いを食い止めなんとする。
その中で「孝」とは、またその延長上にある「忠」あるいは「義」とは何かということを示され、身を賭して義(大義)を貫くことが大臣たるべき真の姿であることを教えられました。
さらに、子路と冉有について、この二人は大臣とは言えずとも、大義名分をわきまえ、父や君を弑するようなことは決してするものではない、と評されます。
このようなことから、父への孝と君への忠義は同列のものであること、さらに不孝や不忠に対しては、「身を賭して大義に順じ、不可なれば即ち止む」という姿が父に対する孝であり、君に対する忠義であることを確認しました。父への孝、君への忠、そして大義を貫くということの真の有り様を学ばせていただきました。
議事要約
魯の大夫である季子然が自らの臣下である孔子門の子路と冉有の人品について、二人が大臣と呼べるものであるかどうかを孔子様に問いかけますが、孔子様は即座にはこれを否定なされます。
それに関連して、3つの視点から議論致しました。
一つは季子然が自らの君主に対して行っている専横ぶりや、弑虐の意図があるのを知り、それをくい止めようと、季子然のいう「大臣」なる人物がどのようなものであるかを示して、季子然の非道に釘を刺します。
これについては、諸橋氏の解説に添って内容を共有し、これをさらに深めるため、季氏の系譜や季子然の魯君に対する専横ぶりについても資料をもとに議論し、より詳細に具体性をもった理解を得ることができました。
二つめとしては、これと関連し、孔子様の謂われる「大臣」という言葉の本義を理解するべく意見を交換致しました。
大臣とは、官職としての呼称ではなく、その家臣としての働きや手腕を云うという側面と、その人物の人品をもって名付けられるものという二通りの解釈がありましたが、どちらの範疇にあるものかという明確な答えは出ず、この両者をともに兼ね備えたものであろうというところに落ち着きました。
三点目として、子路と冉有に関して、二人には大臣と呼ぶに相応しい実績が無かったのではないか、何より、孔子様のお考えになる大臣(身を賭して大義に順じ、不可なれば即ち止むという姿)を以って季子然に相対していなかったことが、この孔子様の大臣なるべからずという評価であったという点を確認しました。
一方、子路と冉有が大臣ならずとも道を知る節義ある人物との孔子様の評に感銘を深め、我々が目指す一つのあるべき姿として自覚を促されました。
以上、上記三点に加え、罪を犯させまいとする孔子様の季子然に対する愛情も感じ取れるという意見や、公伯寮の子路に対する
議論
<議論>司会:降人、議事録:柚子
冥加:吉田賢抗氏によると、季子然は、魯の三桓(第15代君主桓公の子孫の孟孫氏《仲孫氏》・叔孫氏・季孫氏)の一家、季孫意如(季平子)の子。季孫氏の家の人で、孔子の弟子だったのではと言われている。(※孔子世家によると哀公三年、孔子年六十歳の秋に季桓子が病死し、子の季康子の代になり、季桓子の遺言により孔子様を召こうとすると、家臣に反対され冉有を召くことになったようです。冉有が季孫氏の臣下になったのは、孔子様、耳順の頃の話のようです。)
凡知:続きで、季孫氏は三桓の中でも最もの実力者で、魯の家老、卿大夫の地位にあった。季平子(孔子様青年頃)はその5代目当主で、季子然は季平子の子であった。6代目当主が季恒子(季孫斯)(孔子様中年頃)、7代目当主が季康子(季孫肥)(孔子様晩年)・・綿々10代続いた。
降人:季氏(季子然)は八佾(天子だけが行なうことができる舞楽)を自家の墓所で舞わせたり、泰山への旅祭(泰山へ詣で天子のみが行える祭)という、陪臣が行えるようなものではないことを平気で為していることをはじめ、政を我が物として富の獲得に走り、ともかく専横な振るまいが多く、君を弑する意とさえ抱いていたので、孔子様は子路と冉求は、とても大臣とは言えず伴食の臣というべきであろうと評し、それなら主の申し付けたことは何でも言うことを聴くのかという季子然の問には、二人は道を学んで大義名分はわきまえているから小事はともかく父や君を弑虐するようなことは絶対に従わないと言って、季子然の行ないを諫め非望をくい止めようとしたというのがこの節の概要で、ここを五常八徳という観点からみると、孝というかその先の忠や義、君臣の大義という観点になるのかと思います。
遠雷:孝の観点から読み取れるのは、父と君とを殺害することは、最大の大逆に値するということかと思いました。
降人:君を弑するとは、非常に重大な大義に反することです。あとで孔子様は子路・冉有に対しては、道を知ってそのようなことは絶対にしない人物であるとして認めている。
遠雷:最も道に反する行ないを季孫子は行なっているということを示されたのだと思う。
降人:孔子様は、子路と冉有は大臣ではないが道を知る公明正大なことによって、節義ある人物としてお認めになっている。忠と大義という観点では、この二つをどう行なうのか、どう理解すればよいのか? 論語講義の中で渋沢栄一が述べていましたが、「この章は二氏(子路と冉釉)を主として説くべからず、季氏の邪謀を挫くを主として説くを要す」と言っているが、子路と冉有は、決して大臣というべき人物ではないが父や君を弑することは絶対にないという季子然への痛烈な批判ですかね。父のこともでてくるので、孝ということも含めて考えてみたいのですが、ご意見がありましたらお願いします。
冥加:子路は、晩年、孔子様の意向で季孫子の城の壁を壊そうとしたけれど、壊せなかったというエピソードがあった。子路は孔子様の意向に沿って動かれていた印象。季孫子の臣下として冉有のように、言われたら何でも従うことはなかったのでは。
降人:子路の行ないにたいして、孔子様はどうだったでしょうか、実際は、季孫子の行ないをとめられないので大臣ではないという評価をくだされているのですかね。
凡知:名前だけ貸している。季孫氏の家来ではあるが、子路、冉有は名前だけの家来であった。名声ある孔子様のお弟子を二人並べて体裁を整えている。具臣の意味はそういうことか。季孫子の家臣として名前を連ねているだけ。大臣は、季子然がいっているだけで、孔子様は具臣と言われているのでは?
降人:子路や冉有の力があって季氏然(季氏)は富を得て栄えているという認識ですが、実際過重な税を課して、冉有は孔子様にしかられていた、季氏に対しては、貢献しているはずですが。大臣というのは実績をいっているのではなくて、人品についての評価であって強烈に間接的に季子然の批判をしたということかと。
奏江:子路や冉有が大臣の資格がないということではなく、具臣の立場で使えているから、そこまでの立場で仕えていないということ。子路や冉有を批判しているわけではない。
降人:孔子様の弟子として名前をかしているという読み取りでよいか?
奏江:彼らは、いかに伴食の臣として、、。ちゃんと書いてあります。根本的なところはおさえてある。
小鳥:具臣とは名前貸しだから、そのような立場の人は意見を言えない状況だったのか?関わりがあれば、意見するのでは?大臣は、道をもって仕えているから、君主に対して諫めることができる、それは道を基準にしているから。
凡知:家臣の忠を果たすというのが大臣で、具臣は、引いてみているような。
小鳥:具臣と大臣の違いがわからない。二人は道に即して、忠として仕えていなかったということ?
凡知:季子然が、彼ら私の言うことに従うのかと問うたのに答え、孔子様は、彼らは父や主君など目上の者を殺すことに従うものにあらずと言われている。
小鳥:大臣ではないが、殺す(という道に反する)ことには従わないのですね。
遠雷:ここは名貸しとしていたのではなく、子路と冉有は季孫氏に仕えていたが、その時、「不可なれば則ち止む」(道を実行することが出来なければ、その職を退く)ことが出来なかったのだと思います。冉有は、季孫氏の意向に従って徴税したというエピソードがあります。子路は、孔子様のお言葉には全力で従いますが、有は、季孫氏の指示が道に反することとわからず、結果的にその職にとどまってしまっているということがあったのではないでしょうか。
凡知:両方ありますね。
降人:大臣の位置づけとしてどう考えるか。大臣とは、神作濱吉という方の著書(明治期の方)によると、大臣とはその人間の品格をいうとあって、君子という呼び方かそれに近い人物と言ってよいのでは。
冥加:時制の問題、凡知さんは冉有、子路が活躍する前の話だと言っている。臣として実績を積んでいる前の話ではないかと。実際冉有は、季孫子の為に厳しく徴税したり、泰山についていったりしているから、子路は、季孫子の為に、力を貸したエピソードありましたか?最後は壁壊したりして。凡知さんは、そんなことをする前の話と言っているのではないか。
奏江:素直に読むと、遠雷さんの言われたように、由と求に対する孔子様の批評は、道を以て君に仕えることをせず、君によって道の行われざるを知りながら、なお且つその職をさらずにおりますから、これは単に臣の地位に具わっている伴食の臣というべきものであろうというお言葉の通りであり、当時のこの二人の季子然へに対する仕え方はこの程度のものであったのではないか、と思われますので、遠雷さんの意見に賛成です。
凡知:遠雷さんの意見で良いと思います。大臣といえなかったということで、具臣ということでいいと思います。
麦秋:季子然が、大臣とは、どういうものかということを、わかっていないと、子路と冉有のことを言いながら戒めている文でもあると思う。
降人:子路と冉有をつかって、大臣とはどういう人物であるかという話をしているが間接的に季氏然に対する痛烈な批判となっている。
麦秋:本当のところで、なにかあったら、子路と冉有は伴食の臣といえども、父や君を殺逆するような道に背くような事をするものでは決してないという、そこも含まれていると感じました。
降人:大臣という言葉を安易に使っている季子然を戒めている。孔子様は、子路と冉有は大臣とはいえないかもしれないが、父や君を弑虐するような大逆無動なことは絶対に行わないと言って、季子然に対して、あなたはとんでもないことをしようとしているということを伝えようとしている。二人は大臣ではないが大義から外れることはない。その評価は、そのまま季子然へ向かってあなたはどうかと問いかけている。季子然がそれをどう受け止めたかは、書いていないが。義や忠という言葉の姿が現れていると思う。
柴里:この章は、季子然が、暗に叱られているところですが、論語の後のほうの章、【季氏第十六1】(諸橋本pp384-388)では、 二人が孔子様へ相談にいって、 孔子様にとめられ、冉有が本音を漏らして、ますます孔子様から叱られている場面があります。
季氏将に
小鳥:孔子様が、季子然を、表向き諫めているが、対機説法として、孔子様の季子然に罪を犯させないという愛情を感じた、弟子だけでなく、季子然に対しても愛を感じました。
冥加:憲問第十四の38に、公伯寮という、季孫子に仕えている男が、子路は変なことをしていると告げ口しようとして、弟子の一人から孔子様に、その男をやっつけましょうかとお伺いしたところ、それで子路の計画がダメになるのなら、それはそれで天命。孔子様は、ほっとけ、その男は小物だから、天命に影響を与えるような男ではない。よって、子路は、季孫子にただ従順に従うということではなかったのではないか。
降人:この章から離れてみて、阻止するだけでなく天命に任せるという意味合いや孔子様の弟子に対する愛情、大臣や大儀など結論的なものがまとまってきたように思います。場面としては、季子然の横暴を諫める意図を持っての孔子様のお言葉ですが大臣とはどういうことか、子路と冉有は、道をわきまえたものであるという評価を通して、義について教えて頂いたということでまとめとしたい。
以上