東洋哲学研究会
2021.10.03
論語 子罕第九 16
論語勉強会議事録
2021年10月03日(日)11:00~12:00
開催場所:春秋館
議事内容:今回も引き続き、「孝」について議論致しました。
テキスト「論語の講義」諸橋轍次
論語 子罕第九 16
子曰、出則事公卿、入則事父兄、喪事不敢不勉、不爲酒困。何有於我哉。
意味
孔子言う、社会に出ては郷党の先輩につかえ、家庭の中に入っては、父兄につかえる。又隣近所に不幸があれば、出来るだけの手助けをしてやり、酒を飲んでもそのために乱暴を働くようなことをしないという、この程度の日常の
○公卿は、普通には三公九卿を意味するが、昔の卿大夫は役を退くと、国老としてその郷党から尊敬されたものであるから、ここにいう公卿は、恐らくそれら郷党の賢者を指したものであろう。
○喪の事とは、隣近所の不幸事という軽い意味である。もし自分の家の父母の喪などであれば、最善の力を致すべきで、簡単に勉めるというような言葉では表現しない筈である。
(諸橋轍次訳)
議論要約
本章には、孝悌忠礼につき述べられており、孔子様の生き様、誠、真心、思いやりが込められているからこそのお言葉であると、議論を通じて皆が感じることとなりました。 孔子様は晩年矩を超えずという境地であり、だからこそ言える深みのある章であると共感しました。
解釈としては、各学者の説など参考にしながら、ここは、 「四事は為し得るのみで、他に何かあろうか」という孔子様のお言葉であり、同時に 「四事は私だけそうなのか、誰もそうである」という弟子らも含めた皆への思いも含まれている。
孔子様ならば、当然ながら自分だけでなく皆へ伝えられるはずだとの結論に至りました。 孝を考え、その根底には仁があるという意見も出ております。
僭越ながら仁は命を捨てる厳しさがある。仁があるものに孝はあるが、孝があるものに仁があるとは言えない。
その立脚点により表面の判断が違って見えるので凡夫にはわからないとの考えもでました。 孔子様の生き方そのものが仁と一体の生き方であり切り離せないもの、お命を懸けられた、生き様だからこそ述べられるので、我々凡夫はまずは忠実に孝の実践を心掛けること、勉強会では各章の文意を先鋭化して結論を出すことの大切さを話し合いました。
広辞苑の「仁を理想の道徳とし、孝悌と忠恕とを以て理想を達成する根底とした」という孔子様の説明も確認致しました。
議論
司会:謙二、議事録:雲海
謙二:各学者が論点をまとめていて、論点に何があるのか。
凡知:4つの事、サラリーマンなら会社では上司に忠、家では父母に孝、兄には悌。近所や知り合いに葬儀があれば手伝い、酒は飲むが乱れて迷惑をかけるようなことは無いとある。が、最後の文をどう読むか、解釈するかが問題。「何有於我哉」の読みとして、諸橋さんなどは「我に於いて何か有らん(や)」であるが、「何か我に有らん(や)」の読みもある。 また、解釈も様々がある。
- 四事どれ一つとして為し得るものがあろうか(朱子、宇野)。
- 四事は為し得るのみで、他に何かあろうか(仁斎、諸橋、吉田)。
- 四事は何ということはない。容易に為し得る。(貝塚、吉川)
- 四事は私だけそうなのか、誰もそうである。(古注、述而の鄭玄)
- 礼楽を学べば、自然にそうなる。(徂徠)
述而第七[二] (p132)にも「子曰、默而識之、學而不厭、誨人不倦。何有於我哉。」にも、「何有於我哉」あり。
「何」は、「なんぞ」、「なにをか」、「いづくにか」と訓読し、又、意味的には、疑問、反語、詠嘆。
朱子、諸橋、宇野は謙遜した言葉としているが、孔子様がお弟子に答えられたのなら、謙遜ではなく、私は当然そうなのだ。君たちもそうでしょう。できるんだという励ましの思いも込められて言われたのではないか。
日常を愚直に営まれているご様子。それは、天(道)意に適うものである。
大自然の営みの如く、自然体のお姿である。
謙二:何が論点になっているのか?孔子様のお話は5つの学説の中でどれになるのか、文意を先鋭化させる。
柴里:「何有於我哉」の解釈は、述而第七[二]でも当てはまるような解釈がいいと思いました。そうすると①の「私にはできない」という解釈は、礼楽を説かれる孔子様にありえないと思いました。なんで朱子が①のように主張したのかわからない。その他の解釈についてはそういう解釈はありうると思いました。教える立場の④、述而第七[二] のように、それ以外のとりえがないと謙遜すると②です。
冥加:五常八徳、孝悌について考える。「何」の字が気になった。孔子様は紀元前500年ごろのお方、『説文解字』は初の漢字辞典で紀元100年にできた。「何」は儋(担)うものとある。にんべんがついていて、音は可。孔子様より前の時代の字形は、人が物(もっと前の時代は戈)を持っている形。孔子様の時代の「何」は儋(担)うの意味。現代は担うよりも何。草冠をつけると荷物の荷にその意が残っている。私には担うものがあるのか。出て仕えて、入って兄に従い、葬儀で一生懸命働いて、酒で困らせることは無い。「我に於いて荷うこと有らん(や)」。当たり前のことを当たり前にしている。人格によって当たり前は違うのかなと思う。
謙二:孔子様のお言葉、貝塚さんの説明、子罕編というのは、晩年のお言葉が多い。ヒントがある。次の章には有名な川上の嘆。子罕編はそこから引き出される結論があるのでは?
遠雷:文章の意味の解釈としては凡知さんの解釈(日常を愚直に営まれているご様子)に同感です。謙譲ではないだろう。ごく当たり前のことをしているという意ではないかと思います。「日常を淡々とこなす」という御教えにつながることとらえた。5つ解釈のうちでは、②かなと思いますが、謙遜のニュアンスはないと思う。淡々と力みなく語られている。
凡知:お弟子に対して、こういうことはできるんじゃないか。そういう姿勢ではないのか。
謙二:孔子様の生き様からもそう感じますね。
凡知:自然体の孔子様にとっては、当たり前なので、「~あらんや。」は、私だけでなく君達にもあるでしょうと。
謙二:解釈として。②は淡々、④は更に皆に伝えたい。
凡知:「私(孔子様)には於いて何か有らんや」と文は終わってしまっているけれども、言葉の意味として反語・疑問を含むというのは、余韻に隠されている孔子様の思いを読み解く必要がある。(それは、後で佑弥さんが言われているように誠や仁に通じることか?)
謙二:ストーリーが伝わってくる。文意を先鋭化させる、結論を出そうと思ったら皆さんの意見をもっと頂きましょうか。他にございますか。
泰成:文意としては②のここに挙げている4つのことを普通に行ない、それ以外に何かあるわけではない、という意味と解釈していますが、お弟子さんの前でお話されているということを考えると、私が実践しているのであるから、皆さんも実践して下さいね、という言外の意④を含んでいると思います。文そのものをとらえると②。シチュエーション的には④を含んでいると解釈しています。
謙二:この章については、①~⑤の解釈、②他に何があろうか。淡々、④古注の解釈、お弟子様の前という状況。
奏江:孔子様にとってこの4つのことは君子として当然とるべき態度であるのだから謙遜していらっしゃるのではなくて、当たり前のことじゃないかと思います。凡知さんに近い。孔子様ご自身も当然そのようにふるまうのですから、弟子も当然そのようにふるまうべきであると弟子の前でもおっしゃっていたのではないだろうか。仁をなしえるものとして、当然そうあるべきだと。郷党とありますから、政治の中であっても、まずは出身が同じものに対して、そして父母に対して、近所の人、酒の席で同席した人に対して、孝というものは、こうした縁がある人に対して誠に尽くす、そのように近しいところで誠を尽くすことができなければ仁として広がっていかないのではないか。
涼風:社会、家庭、近所、孝をつくすのが当たり前、それ以外何があるんですか?近所だけは葬儀のときにと書かれている。孔子様が言いたいのは全てにおいて孝を尽くすことが大事と。②と思います。凡知さんがおっしゃったように、話して聞かせる状況ではあるが、それ以外に何があるかという解釈だと思う。
謙二:因みにここの章は、孝だけでなくて孝悌忠にも触れていますよね。その中で孝にフォーカスして我々は議論しています。
小豆:私もお弟子様の前でお話されているから④ではないかと思う。酒の
謙二:酒は駄目にするものとして結構出てくる。中国人は酒に強い。まだ、酔わなければ害はないが。小豆さんのような考えがあってもいいのかなと。酒だけでなく全般を読み取りたいという解釈。
桃太:お酒の乱れを成さずと喪の事を務めるというのは悌に当たると捉えると、忠孝悌という内容が並列で述べられています。涼風さんが言われた様に孝の事が一貫して述べられているという風にまとめることも悪くないと思いました。仕える忠というのも孝の思いが基に有ってのものだし、世話になった地域、近隣の喪をつとめる(悌)、酒で周りに迷惑をかけないのも孝の意識に通じるものだと思いました。
凪沙:子罕篇は晩年の事柄が書いてあるとのこと。以前学んだ章で、どうして政治に携わらないのか?家にいても政治をやることはできるという内容があったのを思い出した。孔子様が晩年に残りの人生はなすべきことを当たり前に淡々とやっていくと、自分を戒めるつもりで語られた内容なのかと思いました。
謙二:貝塚さんによると、この章は晩年が多いとしていますね。次章の川上の嘆とか。
遠雷:(孔子様はよくお酒をたしなまれていたという話を聞いて)酒の
謙二:その解釈は魅力的。そういう域に達したから言える。そういうことを気づけるのも勉強会の財産。文章だけでなく。
佑弥:根本にある大切なもの、言葉では言い表せないが、孔子様はそれだけをずっと貫いておられるだけなのだと。真心とか、誠とか根本の事をただ実践しているだけだとも仰っているように思いました。書かれてある事は、それらが表面に現れている姿にすぎない。対機説法であるから、弟子達にわかるように仰られている。根本のその思いがあるから、人に迷惑をかける事もしないし、近隣に不幸があれば手助けをしにゆき、酒で乱れる事もない。
奏江:まさにその通り。孔子様は政治の世界に関わろうとしたがうまくいかれなくて。あとは諦観された。孔子様の中には周の時代だったでしょうか、勉強不足で申し訳ありませんが、その時代を理想とされていて、世の中を良くしたいという強い思いがおありになられた。そのためには自分が身近なところから誠の思いや真心とか実践していかなければ、成しえることはできないでしょう。ごく当たり前のことを言っている。弟子であれば当然やるべきことである。世の中が良くなるために誠の思い、真心が大切だ。
柚子:その人のレベルによって読み方が変わってくると思いました。
小鳥:遠雷さんの、矩を超えない淡々とした生き方であると思った。凡知さんの、愚直に日常、佑弥さんの、もとの心があって、真心、心から現れる。文章に戻ると、忠孝が入っている。それは忠ということ。入りてはすなわち・・・孝を表す。酒の乱れ、迷惑をかけないという気持ちあってのこと。孝だけでなく、忠とかも書かれている。
謙二:矩を超えない、五常八徳。
遠雷:道徳に従って生きられるは矩を超えないに繋がる。
謙二:誠、まごころ、迷惑をかけない。
遠雷:本章は、心の面では、佑弥さんが語ったように、孔子様の誠の思いが根底にあることを読みとることが出来、さらにそのようなあり方、行動、ふるまいができたというのは、矩を超えない境地があってこそではないかと感じました(七十にして矩をこえず)。
凡知:外では忠、家では孝悌などは、礼を重視された孔子様という面もあるのではないか。
謙二:ということは、五常八徳が大事だと伝えていて、②~④につながるということ。
冥加:五常八徳の根本は仁のような気がする。造次顛沛、仁があって、でも一生、死ぬ寸前になってはじめて仁を得られる。解釈は幅が広い、いろんな場面で形で出てくる。根本に仁を持っていれば形を変えて、孝や礼になったりするのかな。根源は仁なのかなと思うが、五常という一括、並列というより、仁の立ち位置は違うような感じがする。
謙二:北星さんが孝は愛であると言っていた。そこに何かある。自然に出てくればいいが。
冥加:根源は仁であって、形にすると義礼知忠信孝悌となると思う。
謙二:私たちが文を分析して先鋭化して結論を出すときに、根底に仁があるという結論につながるならば、それは答えかもしれないが。皆の解釈、孔子様が弟子に伝えようとした。当たり前のことだけど矩を超えないというのがここでの解釈。そして冥加さんは仁が大事なんだとの意見。
冥加:孔子様の仰っているすべてのことは仁。孔子様の欲すれば仁を持っている、一生をかけても仁は遠く重い。孔子様自身は私は仁者ではないと仰っている。説かれている根本は仁なのかなと。
小鳥:冥加さんのを聞いてそういうことかなと。元に仁があって形をかえて、孝、悌、礼。疑問は、仁は佑弥さんの言う真心と同じなのか?
佑弥:仁は命を捨てる厳しさがある。仁があるものに孝はあるが、孝があるからといって、仁があるとは言えない。立脚点により表面の判断が違って見えるので私達凡夫にはわからない。孔子様の生き方そのものが仁と一体の生き方であり切り離せないもので、孔子様のお言葉には仁がにじみ出ていると思います。(生活を営む)人間とした時には、ひとつひとつの意味を理解しなくてはいけない。現実の実践の中でわからない弟子等に対機説法で(わかりやすく)切り離して、孝を持ち得ているのか?と教えていると思います。
奏江:私達は孝をするのは難しい。弟子は仁者になっていないから。
佑弥:仁者でなくても、孝の実践はできると思います。
謙二:冥加さんが言ってくれたことは大事だが、私のような凡夫は一足飛びではなく孝の実践を行ない、各章を丁寧に解釈ですかね。
冥加:孔子様は実践として孝悌を仰っている。古から伝わっている。形が大事。孝を尽くすことは、凡夫、小人は意識しなければ実践できない。
謙二:すごく大事なこと。命捨てる、そこまでできるか、できない凡夫は日常のことを、まずはしっかりやっていく。文をしっかり理解。良い議論ができた。実践することは大事。
柴里:広辞苑で「孔子」をひくと、「仁を理想の道徳とし、孝悌と忠恕とを以て理想を達成する根底とした」との記載があります。
以上